これも選挙の恒例と言いますか、「選挙カーがうるさい」と言って一定の共感を集める人も定期的に出てくるわけです。ただ私は、選挙カーごときをうるさいとは感じません。もっとうるさいものが、他に色々とありますから。選挙カー程度でうるさいと思える人は、単に住環境に恵まれているだけでしょう。羨ましい限りです。
世の中は多数派に最適化されている、とも言われます。そうして「配慮」される少数派もいれば、一方で無視され続けている少数派もいるのが実態でしょうか。典型的なのは「夜勤」の人々ですね。例えば夜間の騒音については控えるべきという社会的合意がないでもない一方、昼間に関しては実質的に野放し状態にあります。昼間に会社に出勤して夜に家で寝る人はこれでも問題ないかも知れませんが、夜間に働き昼間に家で寝る人はどうしたらいいのでしょう。
ちなみに電動キックボードが危ない云々と宣い、これまた世間の共感を集める人もいるわけです。それもやはり恵まれた都会の贅沢な悩みと感じないでもありません。私の住む地域では絶えざる道路工事で地面はガタガタ、車輪の小さな電動キックボードなど絶対に走れないですし、そもそも自家用車での移動を前提にした街作りが行われていますので、電動キックボードに乗る人など全く見かけません。電動キックボードを見て危ういと感じるのは、恵まれた都会の住人ならではでしょうね。
自宅から最寄りのスーパーまでの道中に、保育園は5軒あります。商業施設は国道沿いか沿岸部に集約するのが我が町の都市計画のようで住宅エリアと商業エリアの距離は大きく開くばかりなのですが、「買い物は自家用車で行くのが当たり前」というのが郊外住民の感覚なのか、特に問題になることもなく市の人口は転入超過が続いています。一方で不思議なことに保育園だけは住宅地の中の徒歩圏に乱立していたりして、これがよく分かりません。
自家用車での移動を前提に商業エリアを国道沿いと沿岸部へ集約させる、これは(賛同はしませんが)郊外の都市計画として普通かと思います。しかし保育園は例外で住宅地のど真ん中に存在していたりするわけです。児童が徒歩で通うことを想定した小中学校が住宅地の中の徒歩圏に位置しているのは理解できますが、送迎が前提の保育園であればスーパーマーケットやショッピングモールと同じように住宅地から離れた場所に集中させた方が良いのでは、と思わないでもありません。日用品を買える店が徒歩圏にないのに、保育園だけは近所にある、それは都市計画としてどうなのでしょう?
「園児の声がうるさい」保育園を訴えた住民の敗訴確定 一審「受忍限度超えていない」…最高裁が上告棄却(東京新聞)
東京都練馬区の住民が隣にできた保育園の園児の声がうるさく平穏に生活する権利を侵害されたとして、園の運営会社「日本保育サービス」(名古屋市)などに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(渡辺恵理子裁判長)は、住民側の上告を棄却する決定をした。23日付。住民側敗訴の一、二審判決が確定した。
2020年6月の一審東京地裁判決は、07年4月の開園から2年ほどは国基準を上回る騒音レベルが散見されたが、園庭の使用を控えるなどして抑制され「受忍限度を超えていたとは認められない」とし、住民側の請求を棄却。21年3月の二審東京高裁判決も一審判決を支持した。(加藤益丈)
私の住む街でも一時は保育園の建設ラッシュがあり、自宅の隣に保育園が建つ可能性も決して皆無ではありませんでした。それだけに、こうした記事は全く他人事とは思えないところです。過去の判例に倣い、騒音に苦しめられる被害者をクレーマー扱いして裁判は終了したわけですが、人道面からするといかがなものでしょうか。
米軍基地と保育園は似ている、と私は思います。いずれも被害を被るのは近隣住民に限られ、これを泣き寝入りさせることで社会的な解決としてきました。限度を超える騒音があったとしても施設の公益性が主張され、被害を訴える近隣住民はパブリックエネミーとして謂れなき誹謗中傷に晒されてきたわけです。騒音施設から離れた場所に住む多数派のために、近隣住民は我慢してください、というのが我が国の司法であり社会的合意であると言えます。
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その昔、私は「子供好き」の大人から非常に好まれる容姿を持っていました。何か用件があって大人に話しかけると、「キャー可愛い!」と声を上げて大人達は興奮したものです。そこで私が子供らしく「キョエェェェエッ!」と嬌声の一つもあげれば大人達は絶頂を迎えたことでしょうけれど、残念ながら私は用件を伝えるばかりで、お互いに全く噛み合わなかったことを覚えています。そうこうするうちに私から見れば「自分を人間扱いしてくれない大人」、相手からすれば「なつかないペット」みたいな間柄となり、自分は学校の先生などから疎んじられるようになりました。
よく「子供は騒がしいのが当然、誰もがそうだった」と居丈高に語る人がいます。でもそれは、「子供好き」の大人の頭の中の理想像であって、実際には大人しい子供もいるわけです。「子供好き」の大人は自分たちの理想像を子供に投影して、「子供らしく」時と場所を顧みず絶叫することを期待しているのかも知れません。でも私は、そんな「子供らしさ」の押しつけが本当に嫌でした。騒ぐばかりが子供らしさではない、子供だって大人しくしても良い、そんな寛容な世の中になって欲しいと思います。