非国民通信

ノーモア・コイズミ

日本が選ばれない理由

2012-11-09 23:06:47 | 社会

 先日「オンタリオを選ぶ理由」という広告が新聞に載っていました。カナダのオンタリオ州による企業誘致の広告で、微妙に掲載誌を誤ってはいまいかという印象を拭えない代物でしたけれど、ちょっと興味深い一説があったのです。何でも「オンタリオ州の成人の約62%は、高等教育を修了しており、これはG7諸国の中でも最も高い比率です」だとか。広告そのものはweb上では見られないようですが、こちらの公式サイトから同様の主張を見ることができます。

 ……で、全体としては一般的な企業誘致の域に収まっている、日本の自治体が企業誘致を進めるとしても似たようなことをアピールするであろうなと思える文言が連ねられてもいる一方、逆に「日本だったら言わない」こともまた散見されるわけです。その代表的な一つが上記引用の「オンタリオ州の成人の約62%は、高等教育を修了しており~」云々の行ですね。どこまでを「高等教育」へ含めるかにもよりますが日本の大学進学率はバブル期以前は正直言って低い、現在に至るも隣の韓国に大きく後れを取るなど、誇れるほど高等教育修了者が多くないということもあります。しかし、それ以上に日本は高等教育修了者の増加を望まない、むしろネガティブに捉えたがる社会でもある、オンタリオ州が誇るものを日本では恥じている、そこに致命的な違いがあるのではないでしょうか。

 先日は田中真紀子の暴走による大学新設の不認可騒動を取り上げましたが、この任命者の良識が疑われる大臣の独断専横ぶりには批判的な一方、大学が新設されることには否定的、大学新設を阻もうとする田中真紀子の方向性については共感する姿勢を見せる人もまた少なくありませんでした。大学が多すぎる、それもこれも大学生が増えすぎたせいだ云々とコンサルの類がしたり顔で語ったり、それをネット上の論者が知ったかぶって受け売りしたりと、まぁ日本ではよくあることです。そして大学の質を云々との口実で大学(大学生)が増えることを抑え込もうとする、そんな目論見を隠せないでいる人が日本にはウヨウヨいるわけです。

 大学を「望めば誰でも入ることができる」ものではなく「一部の選ばれた人の専有物」にすることで「質」が確保できる必然性や保証などどこにもないのですが、ある種の人にとってはそれが自明の真理のようです。ただそれ以前に、日本のどこに「大学の質」を問える環境があるのかと疑わしく感じるところもあります。例えば大学1、2年生の段階での採用(内定)を始めたユニクロの場合です。これを私は日本的採用の象徴と捉えましたが(参考)、経済誌からギャラをもらって執筆するなど私などより遙かに社会的に認められている人々の多くはこれを革新的なもの、先進的なものとして概ね賞賛と期待の声を寄せていたものです。しかし、この日本の識者から高く評価されるユニクロ型採用のどこに、大学の質を問える要素があるのでしょうか?

 大学1、2年生の段階では、当然ながら大学で何を学んだか、その教育の質は判断できません。ただ知りうるのは「大卒(見込み)か否か」「どこの大学か」くらいですね。後はお決まりのコミュニケーション能力等々。このユニクロ型採用が日本の因習的な採用の極地として否定されるのではなく、むしろ好意的に迎えられたことは、日本社会がどこを向いているのかを如実に物語るように思います。もしユニクロの採用が(日本基準で)革新的なものであるのなら、つまり今後の日本はより一層、大学で何を学んだかを問わなくなる、ただ「大卒であるか」「どこの大学卒業か」で足を切るだけの方向に舵を切るであろうことを意味します。

 もし日本の大卒者が一世代前のように至って少なければ、大卒であるという、ただそれだけのことがステータスになるわけです。大学まで進学して卒業する人が限られた少数派であるのなら、その希少価値を以て単に大卒であることそのものが希少価値を発揮してくれます。もしかすると日本の学歴社会は、日本の大卒者が少なかったことによって育てられてきたところもあるのかも知れません。大卒者が少ないために、大卒者であるだけで「教育の質」なんぞは問われるまでもなく一定のエリート扱いされてきた、学歴が選別基準として好都合だったと言えるでしょう。

 ところが近年は大学進学者が急増しており、これに不平タラタラの人が湧いているわけです。大学進学が増えて大卒者が過半数ともなると、流石に「大卒」というだけでは評価されにくくなってしまいます。もはや大卒が当たり前、その大卒の上に「何か」を加えないと差別化はできません。その「何か」に当てはめられてきたのが「コミュニケーション能力」と言えるでしょうか。ともあれ大卒というだけでは評価されにくい時代になりました。大卒という周囲よりも高い学歴を有している、そのことに密かな優越意識を抱いているような人々にとっては、何とも腹立たしい時代なのだろうと思います。

 そこで大卒という「既得権益」を守るためには「馬鹿どもに車を与えるな」論が出てくるのかも知れません。漫画「美味しんぼ」の海原雄山がまだ尖っていた頃、渋滞に苛立った雄山は「必要もない連中が車に乗るからだ!!馬鹿どもに車を与えるなっ!!」などと宣ったものですが、日本社会の自己評価の高そうな連中の語る大学論は、この海原雄山と似たような発想を基盤にしていると言えます。自分にはそれが必要でも、アイツらには必要のないもの、無駄なものなのだと、メディアやネット上で意気軒昂な人にはそうした選民意識を隠せていない人が目立つのではないでしょうかね。

 大学の数を絞り込み、昔のように大卒者が少ない時代へと逆行すれば、まぁ大卒者は楽ができます。あくまで「大卒」というカテゴリの中では椅子の奪い合いも随分と簡単なものになるでしょう。逆に大卒者が増えれば必然的に「大卒」というカテゴリの中での競争は激化します。だから大卒が多すぎるのだ――と、頭は大丈夫かと心配になるようなことを素面で口にする人も目立つのですが、大卒の枠から外れれば楽になるかと言えば、そんなはずがないのは誰にでも分かりそうなものでしょう。大学(大卒)を減らして楽になるのは、削減の波から免れて生き残った大学(大卒者)だけです。

 むしろ、あんまり勉強が得意ではないながらも大学進学を選択するような人の方が、高卒での就職の難しさを理解しているような気もします。おそらくは学力上位であったろう論者の多くは、有名大学に進学できない層を指して、さも大学に「行かない」方がその人にとっては幸せなのだとばかりの御為ごかしを繰り返すものですが、そんなものは学力強者の振りかざす選民思想以外の何者でもありません。這い上がってくる人がいなければ「上」にいる人間は学歴格差社会を謳歌していられるのでしょうけれど、「下」にいる人間にとって「上」の説く「分相応」を受け入れることで得られるものなど何もないのです。

 大学進学者と社会保障受給者の扱いが日本では似ているのかな、とも思います。「本当に必要な人のために」とは生活保護の削減に血道を上げる人間の常套句で、要するに現時点で生活保護などを受ける人間へ(本当に必要なの?と)疑惑の目を向けさせるものですが、同様の姿勢を大学(進学者)に向ける人もまた少なくありません。そして冒頭で引き合いに出したオンタリオ州では高等教育修了者の高さを誇る一方、我らが日本では高等教育修了者を減らそうとしている、これを改革と見なしているわけです。結局、日本だけは目指している未来が違うということなのでしょう。

 

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「一票の格差是正」につきまとうもの

2012-11-07 23:00:12 | 非国民通信社社説

 物事を単純化すると「善悪」がはっきりして見えるものです。裏を返せば、単純化のために「その他」の要素を無視しているからこそ「善悪」がはっきり見えてしまうとも言えるでしょうか。そして白か黒かの二元論の世界に押し込められてしまえば簡単に見える話も、実際は諸々の付随する要素があって決して単純には語れないものだったりします。例えば顕著なのが原発問題で、単純に原発稼働にリスクがあるかないか、そういうレベルで物事を考えることができれば結論を出すのは容易です。しかし現実とはシンプルな二元論では対応できない代物でもあります。リスクがあると言ってもどの程度か、原発を稼働「させない」ことによって生じうるリスクはどうなのか等々、総合的に対処しなければなりません。

 あるいは混合診療の問題はどうでしょう。全額患者負担の自由診療と保険が適用される保険診療とがある中、保険が利く範囲は保険で、利かない範囲は自由診療でと両者を併用して請求することは現行の法律では禁じられています。保険外の自由診療を行えば、保険適用範囲内の医療行為が含まれていても全額患者負担になってしまうのです。そこで混合診療を解禁すべしとの意見もあって、まぁ単純に「これだけ」を考えるなら患者側の選択肢を増やすものと歓迎されても良さそうに見えるのではないでしょうか。必ずしも適用範囲の広くない保険治療か、それとも高額な自由診療かの二者択一より、必要に応じて両者を組み合わせることができれば患者側の利益になる、と。

 ところが結構な反対意見もあるもので、とりわけ医療関係者には否定的な見解を占める人が目立つところ、どうにも混合診療の解禁によって「保険診療の領域が縮小される」「国民皆保険が危うくなる」などの可能性を懸念して反対の立場を取る人が多いようです。確かに、公的支出に占める医療費の削減に繋がると称して混合診療解禁を説く論者もいるなど、混合診療を保健医療の縮小に繋げようとの思惑を隠せていない人も散見されるわけで、この辺も併せて考えると混合診療の解禁が患者の利益に繋がるかどうか訝しくも思えてきます。

 そして今回の本題として挙げたいのが「一票の格差」問題です。これまた単純化すれば、直ちに是正されるべき悪として議論の余地はないように見えることでしょう。一票の格差が2倍や3倍に止まらないレベルで存在する、それが良いことか悪いことかと問われれば、迷う余地などなさそうです。しかし、この問題もまた一票の格差「だけ」では済まされないところがあるはずです。混合診療の解禁に保険診療縮小の影がつきまとうように、一票の格差是正にもまた付き物と呼べる存在があるのではないでしょうか。

 当初、民主党政権が一票の格差是正のためにも有効と言い出したのは「比例定数80削減」でした。今なお民主党が拘るのは「40削減」ですし、相対的にはマイルドな自民党などとの折衷案にしたところで「0増5減」となっています。どうにも一票の格差を是正する過程で議員定数も減らしてしまおうという思惑を、程度の差はあれ現政権や次回選挙で与党になるであろうと予測される党は共有しているようです。違憲と裁判所の判決が下されるほど一方の格差が大きくなってしまった中では当然のこととして是正が迫られる、しかしその是正のために議員定数が削減される可能性が高いわけです。日本は人口に比して議員の少ない国ですが、その「少なさ」を問題にする人は珍しいのでしょうか。今以上に議員が減らされるのであれば一票の格差是正には反対する、そういう立場の人がいたって良さそうに思うのですけれど。

 

 何であれ格差が存在するからには、格差の「上」にいる人々と「下」にいる人々へと必然的に分かれるわけです。そして一般的に格差是正は「下」の人からの支持を集めるものでもあります。もちろん経済的な格差是正については「下」からの反発が必ずしも弱くないところですが、そうした人々ほど別の面で(実態を伴わない被害妄想ではあるにせよ世代間格差や官民の給与格差などの)格差意識を持っている、格差の「上」にいる奴らを懲らしめよと「下」の意識を持つ人々が主張してきたと言えます。では一票の格差の場合はどうなのでしょう?

 一票の格差の「下」にいる有権者が存在すれば、当然ながら鏡像のごとく一票の格差で「上」となる有権者もまた存在することになります。そして一票の格差を是正すべしと言う声は決して弱くない、行政の補佐が基本スタンスのはずの最高裁ですら違憲判決を下すほどですが、このような状況を一票の格差の「上」にいる人々はどう感じているのでしょうか。しばしば格差是正論は格差の「下」にいる人へと呼びかけられる中、一票の格差是正もまた例外ではありません。確かに格差の「下」にいることによって「損」をしていると感じる人もいるはず、こうした人々に格差是正を訴えては賛同を得る、これは容易なことです。しかし反面では格差の「上」に立つ人もいる、では「上」の人にどう向き合うのかもまた問われるように思います。

 基本的に一票の格差で「下」になるのは人口の多い都市部であり、逆に「上」となるのは人口の少ない地方です。ここで一票の格差を是正するとなると、人口の少ない地方から選出される議員を減らして、人口の多い都市部から選出される議員を増やすという形になります(ただし現政府案では前者のみ)。確かに是正には違いありませんが、今まで以上に地方の声が国政の中央に届きにくくなるであろうこともまた考慮されるべきではないでしょうか。地域主権だの地方分権だのと喧しい中、東京などの元から中央に存在する地域から選出される議員の割合が増えるというのも時代に逆行した話に見えます。

 昔年の自民党には「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員が結構いたものです。これは「自民党をぶっ壊す」と称した小泉純一郎が、その後継者である民主党がともに「既得権益」「古い自民党」などと呼んで否定したものであり、「地方に富が吸い取られる」とばかりに都市部の有権者からも嫌われてきたものです。そして現代において有権者の支持を集めるのは専ら「利」ではなく「善」を説くタイプでしょうか。もっとも何が「善」であるかは人それぞれ、公務員/官僚や電力会社、あるいは社会保障受給者や外国人などを「悪」と見なしては、その仮想的を咎めることに熱心なタイプが目立ちますかね。

 何はともあれ「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員は近年ではすこぶる評判が悪い、むしろ「利」をもたらすこと自体が悪徳であるかのように語られがちです。しかし「利」ではなく別の動機で行動する公平無私の政治家こそ正しいと、そうした幻想が地方を衰退させ、地方議員の価値を喪失させたところもあるように思います。自身の選挙区のことより日本全体のことを考える、天下国家を語る議員がいても良いですけれど、同時に地元のために戦う議員がいても良い、異なる立場の両方が国会に送られても良いのではないでしょうか。しかるに格差是正のために地方の議席が削減されてしまえば、「両方」が議席を手にする可能性は極めて小さなものとなってしまいます。

 

 アファーマティブ・アクションは差別なのでしょうか。それに反対する人の中には、アファーマティブ・アクションこそ不公平なものだと主張する人もいるようです。諸々の事情によって弱い立場に置かれた人々に一定の優遇措置を執る、これは公平性を担保するための措置なのか、それとも不当な優遇なのか。もちろん程度にもよりますけれど、弱い立場、不利な立場にある人々には下駄を履かせてやるべきだという考え方と、これを疎む考え方とがあるわけです。では、一票の格差に関してはどうなのでしょう?

 一票の価値に関しても、アファーマティブ・アクションの理念は適用できるように思います。そもそも一票の価値が「高い」選挙区がいかにして生まれるかと言えば、その地域が衰退して有権者数も減っていくからです。逆に一票の価値が「低い」選挙区とは、不況の時代にも怯まず、少子化の時代にも有権者数を増やすもしくは維持できている地域です。人口が減り続ける「弱い地方」で一票の価値が高まり、人口が増える「強い地域」で一票の価値が低下する、確かに一票の価値「だけ」に焦点を当てれば不平等な話かも知れません。ただ一票の価値「以外」の格差をも含めて総合的に見るとどうなのか、その辺も考慮されるべきです。

 もし現状とは反対に、人口だけではなく産業も集中する都市部で一票の価値が高く、国会議員もまた都市部から選ばれた人ばかり、一方で人口が減少する地方では一票の価値すら低く住民も産業も議員も減るばかりとあらば、これは直ちに是正されるべきものと言えます。しかし人の集中する豊かな都会で一票の価値が低くなる反面、色々と恵まれない地方では一票の価値が高くなる、これ自体が一種の是正措置、アファーマティブ・アクションとしての機能を持ちうるものとなっているのではないでしょうか(そのためには地方選出の議員が自身の地元を重視する必要がありますが)。

 確かに現状では一票の格差が大きすぎるところです。しかし、有権者数が減少する=一票の価値が上昇するような地域に下駄を履かせてやっても良いのではないか、そのような立場もあってしかるべきと私は考えます。単純に一票の格差だけを取り出せば善悪がはっきりするかも知れませんが、「その他」の要素をも含めて是正措置の一環としてみれば、議員定数の削減とセットになることが濃厚な格差是正をどこまで急ぐべきなのか、とりわけ議員定数削減に執着する民主党政権下での一票の格差是正は危険ではないのか、そう簡単に結論は出せないように思います。

 アメリカの場合、下院議員はドライな人口割りである一方、上院議員は州単位で2人ずつの選出となっており、それこそ上院議員選挙では10倍や20倍では済まないレベルの「一票の格差」が生じています。これを問題視する人がどれだけいるのかどうか知るところではありませんけれど、「人口割り」と「州毎に2人」と明確に制度が分けられていることによって「一票の格差」を感じさせにくい作りになっているとも考えられるでしょう。翻って日本はと言えば、この辺の区分が酷く曖昧なままです。

 その内部で衆院と参院の振り分けをどうするかなど意見は分かれると予測されますが、日本でも「人口割り」の議員定数と「都道府県単位」の議員定数を明確に分けてしまったらどうでしょうか。そこまでの抜本的な変更となると次の選挙までに間に合わないであろうことは必至ですけれど、しかし現行の政府案のように議員の数を減らす、とりわけ人口が減って相対的に一票の格差が高まった地域の議席数を減らす、衰退する地域からの声を吸い上げるパイプを細くするという、そんなやり方を少なくとも私は歓迎することができません。もっと他にも、探られるべき道はあるように思います。

 

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日本よ、これが政治主導だ

2012-11-05 23:04:25 | 政治・国際

文科相 3大学新設認めず 審議会の答申を覆す(産経新聞)

 田中真紀子文部科学相は2日、大学の設置認可制度を抜本的に見直す考えを表明し、平成25年度に大学の新設を予定していた秋田公立美術大(秋田市)、札幌保健医療大(札幌市)、岡崎女子大(愛知県岡崎市)の申請を不認可とした。大学設置・学校法人審議会は「新設を認める」と答申していたが、田中文科相が政策的判断として覆した。答申通りに認可されないのは過去30年間で初めてといい、極めて異例。

 3大学はいずれも短大や専門学校からの改組で、申請に不備はなかったが、来春の開校は不可能となる。

 田中文科相は閣議後の記者会見で「大学が全国で約800校ある中、大学教育の質がかなり低下しており、就職ができないことにもつながる」と述べた。

 同省によると、同審議会の委員は、計29人中22人が学長や教授ら大学関係者で構成されている。田中文科相は「大半の委員が大学(関係者)で、大学同士がお互いに検討している」と述べ、委員の構成に問題があるとの認識を示した。

 

 一つ前に取り上げた河野太郎もそうですが、この田中真紀子も同様、単に親が偉かっただけの人に権力を持たせるべきではないとの思いを今まで以上に強くさせられる事態が起こっています(伝説の勇者の子孫とかじゃないんですから!)。同時に政治主導の弊害もまた痛感させられるところでしょうか。「官」の仕事に難癖を付けることで政治家が働いている風を装ってきた民主党政治の象徴とも言えるところですが、巻き込まれる人間はたまったものではありません。でも、こんな連中を与党にしてしまったのもまた我が国の有権者です。

 

田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生(読売新聞)

 「到底承服できない」――。文部科学相の諮問機関「大学設置・学校法人審議会」が認めていた大学3校の来春開校に2日、田中文科相がストップをかけたことに、大学の地元から強い反発が噴き出した。

 「大学が多すぎ、質が低下している」。不認可決定はそのような理由だったが、3校に落ち度はなかった。開校を見込んで準備を進めてきた学生や大学側は突然の決定に振り回され、激しい動揺が広がった。

(中略)

 秋田市の穂積志市長は記者会見し、「我々は審議会から示された審査基準を一つひとつクリアしてきた。審議会は大臣の諮問機関であり、そこで許可したものを大臣が覆すのは行き過ぎだ」と怒りをぶつけた。近く文科省を訪ね、不認可の撤回を求めるという。

 3年前から札幌保健医療大(札幌市)の新設準備を進めてきた学校法人「吉田学園」には1週間前、文科省から「認可に少し時間がかかっているが、手続きに問題はない」と説明があったばかりだった。それだけに鈴木隆・大学設置準備室長は「不認可」の連絡を受け、「あまりに唐突。とても受け入れられない」と憤る。教員約30人は既に内定済み。現在の職場に退職届を提出した人もいる。

 来春、4年制大学の岡崎女子大(愛知県岡崎市)を開設予定だった学校法人「清光学園」の長柄孝彦理事長は2日夕、緊急記者会見を開き、「文科省が示している基準をすべてクリアしているのに認可されないのは理不尽。はい、わかりましたとは言えない」と語気を強めた。校舎の改修や備品の購入費としてすでに2億7000万円を投じ、来春から専任教員として新たに12人の採用を内定していた。

 

 似たようなことは、電力……というより原発周りでも繰り返されてきました。国が示した基準を電力会社がクリアしても、政府は首を縦に振らずに基準を作り替えては再稼働への認可を先送りにするばかり、もはや電力会社側にはどうにもならない状況を作ってきたわけです。今までは民主党政権の無責任さに振り回されるのが専ら世間の憎悪の対象であった電力会社だけに、このアンフェアな対応が批判に晒されることはありませんでした。しかし、対象がいつまでも電力会社に限られていると、そう考えるのは浅はかと言うものではないでしょうかね。今回のように文科省が示してきた基準をクリアし、諮問機関による許可が下りていたにも関わらず政治判断で決定が覆されてしまう、似たような事態は今後とも起こりうる、他の領域でも起こりうるものと身構えておいた方が良さそうに思います。

 「大学が全国で約800校ある中、大学教育の質がかなり低下しており、就職ができないことにもつながる」と、田中真紀子は述べました。ただ日本の大学は多いのか、日本の大学進学率はようやく50%を超えた程度、必ずしも大学進学者の多い国ではありません。「一握りのエリート(大卒)と多数の単純労働者(高卒以下)」という社会を目指すのならいざ知らず、「普通の」先進国であろうとするのなら大学新設はまだまだ足りないと言えます。教育の質に関しては数値化が難しい分野ではありますが、では大学新設を抑えることで質の向上が見込まれるものなのか、むしろ大学を増やして互いに競わせることで質が向上云々という意見があっても良さそうなものです。競争賛美の社会において、大学の新規参入が阻まれるというのも矛盾した話でしょう。

 そして就職面ではどうなのか。高卒の方が4年制大学の卒業者よりも就職に有利というのならいざ知らず、大学で学んだことは問われずとも大卒であることは求められるような社会において、大学進学の道を閉ざされることの影響は甚大です。大卒1~2年の段階で採用を決めてしまうユニクロが象徴するように、日本の企業は大学で学んだことなど問いません。ただ大卒であることを条件とするのみ、です(まぁ大学のネームバリューもまた無視できませんが)。教育の質なんて関係ない、大学を出ることが重要――そういう雇用(採用)慣行が根付いている中で大学教育の質を問うのも順序が違うのではないでしょうか。ちなみに開校を阻まれた札幌保健医療大は「看護学部」です。これは就職先が完全に限定されてしまう一方で就職率は高い学部なのですが……

 田中真紀子のような生まれながらの特権階級にしてみれば、下々の人間が大学に入って知恵を付けるような事態は苛立たしい、大学進学率の急増には忸怩たる思い出もあるのでしょうか。同時に経済誌を読んで「分かったつもり」になった人が陥る典型的な過ちを踏襲しているとも言えます。確かにコンサルの類が書く記事では、それもこれも大学生が増えすぎたせいなのだ!みたいな主張が繰り返されている、そして田中真紀子も経済誌(≠現実!)で活躍するコンサルタント張りの見解を披露しているわけです。「分かっているフリ」をするならそれで良いのかも知れません。しかし上で書いたように日本の大学進学率は必ずしも高くないですし、大学進学率が急増したのはバブル崩壊と歩調を合わせてのことです。大学に進む人が増えたのは、高卒でも採用(企業)側からチヤホヤされた時代が終わってからだということを直視すべきでしょう。

 大学設置・学校法人審議会は「大半の委員が大学(関係者)で、大学同士がお互いに検討している」とのこと。では、大学とは縁もゆかりもなければ専門知識もなく実情にも全くもって疎い、例えば田中真紀子みたいな素人を起用すれば事態は改善されるのでしょうか? これまでの審議会の在り方が完全無欠なものであったとは思いませんけれど、少なくとも無関係な人間の床屋政談よりは信頼の置けるものであったはずです。エセ科学とか代替医療とか、そして昨今の原発問題とか、とかく専門家を敵視しては客観性に欠けた空想の産物を称揚するノリも強いですが、彼らにできるのは世間を惑わし混乱させることだけ、それは言うまでもなく教育分野においても同じことです。

 

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日本よ、これがグリーンニューディールだ

2012-11-03 22:54:32 | 社会

電力会社の努力または努力不足|河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり

2011年はLNGを使用している電力七社のうち、四社が平均輸入価格を上回る単価で購入し、2010年も三社が上回っている。

 

 色々とアレな発言で痛い人からの支持を集めてきた河野太郎氏ですが、まぁ父親は立派でも息子は……という典型ですね。だから世襲議員はダメなんだと感じるところでもあります。「クラスの35人の内18人が平均点を下回っている! 生徒の努力不足だ!」などと叫び出す学校教師が能力不足を理由に解雇されても、それは不当解雇に当たらないと思いますけれど、議員の場合はどうなんでしょう。こんなのを所属させていて自民党はよく恥ずかしくないな、と。いや、むしろ当選を許してしまった国民こそ恥じるべきなのでしょうか。ともあれこの河野太郎氏、原発問題を巡って「利権が、利権が」と連呼しては喝采を浴びたりもしていたわけですが……

 

 吹田市、国に虚偽報告 補助金事業 市長後援企業と随意契約(産経新聞)

 大阪府吹田市が3月、環境省の補助金を活用した工事を、井上哲也市長の後援企業に随意契約で発注し、環境省に「競争入札で実施した」と虚偽報告していたことが31日、分かった。平成23年度末で余った補助金を返還する必要があり、市は「競争入札では間に合わず、市の工事で実績があると判断して契約した。市長の後援会関係者とは把握していなかった」と釈明している。

 市によると、温暖化対策を進めるための「グリーンニューディール基金」から補助金約5850万円を受け、2月、市庁舎の照明をLEDにする事業など3事業で指名競争入札を実施した。

(中略)

 また、指名競争入札を行った3事業でも、市は事前に1社からしか見積書を取っていなかったにもかかわらず、国の会計検査で問題視されるのを逃れるため、落札業者に虚偽の見積書を複数作成させて提出させていたという。

 

 別に珍しくも何ともないニュースです。ただ、河野太郎の「利権が、利権が」を真に受けてしまうような人もいたこともまた事実、特別に原発周りが、あるいは既存の電力会社周りが際立って利権にまみれているかのごとくに印象づけようとしてきた人々、信じてきた人々は引用したような事例にも真摯に向き合うべきでしょう。とかく環境面で「グリーン」なものは金銭的にも「クリーン」であるかのような錯覚が蔓延していますけれど、現実問題として何であれお金が動く以上、そこで美味しい思いをする人はいる、儲ける人は発生するのです。風力や太陽光発電なんて元から補助金漬けの世界じゃないかというのを差し引いても尚、金銭的なしがらみから免れるものではありません。

 

パナソニック7650億円赤字 通期見通しを下方修正(朝日新聞)

 パナソニックが31日、2013年3月期の純損益の業績予想を赤字7650億円に下方修正した。7月時点では黒字500億円と見込んでいた。同日発表した12年9月中間決算で、太陽電池など不振事業について大幅な会計上の損失処理をしたことなどが響く。

 

シャープ、過去最大4500億円の赤字=ソニーは売上高を下方修正―今期(時事通信)

 シャープは1日、2013年3月期の連結純損益が4500億円の赤字となり、従来予想の2500億円の赤字から拡大する見通しと発表した。主力の液晶テレビやパネル、太陽電池の販売が振るわず、12年9月中間連結決算で在庫評価損などを計上したことが響く。純損益の赤字は12年3月期の3760億円を上回り、2期連続で過去最大となる。

 

 1キロワット時当たり42円という超高額の買い取りが保証されている太陽光発電事業ですが、にも関わらずパナソニックとシャープでは太陽電池が大きく経営の足を引っ張る形となったことが伝えられています。まぁ、建設業界(発電じゃなくて通信系ですけれど)の隅っこで噂を聞いた限り品質面でもシャープは評判が芳しくないようです。プラズマクラスターだの光の「4原色」だのと称するクアトロン等々とハッタリでしか勝負できないシャープが見限られるのは致し方ないことでしょう。そしてパナソニックでも想定していた利益が出ないとのこと、太陽光で発電した電気を電力会社に売りつけるビジネスはともかくとして、太陽光パネルの生産は既に暗雲がたれ込む世界のようです。

 「わが日本の技術は世界一ィィィ!」という信仰をお持ちの方も少なくないようですが、現実は厳しく韓国や中国の突き上げの前に「日本製」の優位など微々たるものです。再生可能エネルギーへの投資が新産業・雇用生み持続可能な成長実現云々と懲りずに言い続ける人もいますけれど、その辺はオバマ政権の失敗例も多少は参考にすべきところでしょう。まぁ何であれ金を使えば雇用(ついでに利権!)は生まれるのかも知れません。ただ、「日本国内で」それが循環するかは別問題です。アメリカでもそうであったように、より低コストで生産能力に優れた新興国の企業にいずれは駆逐されていくことを今の段階から視野に入れておく必要もあります。そこで新興国と利益を分かち合えるように経済的な連携を深めていくのか、それとも保護主義に走るのか、少なくとも太陽光発電など再生可能エネルギーに都合の良い未来ばかりを夢想している場合ではないでしょうね。

 

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今時のゲーム機にリセットボタンは

2012-11-01 23:00:12 | 社会

清流悠遊:人生のリセット? /岐阜(毎日新聞)

 還暦を迎え、最近立て続けにクラス会があった。中学2年と高校のクラス会だがどちらも四十数年ぶり。白くなったり、薄くなった互いの頭を眺め、最初は「誰だったっけ」と引き気味だったが、すぐタイムスリップ。ため口で話し合う当時に戻った▲あの頃にもいじめはあったが、いじめられたりいじめたりで、特定の人がいつもということはなかった。今のような陰湿さもなかった。何よりも悪いことをしているという自覚があったように思う▲テレビゲームがいじめの原因の一つと言われる。ゲームではリセットボタン一発ですべてチャラになる。そんなことを繰り返していると、人生のさまざまな場面で「都合が悪くなったらリセット」という感覚になってしまいそうだが、実際のリセットは簡単ではない。やり直したいことも、やり残したこともたくさん抱えたじいさんの集まりだった。

 

 方々で突っ込まれているので今さらではありますが、毎日新聞がなかなかに間の抜けたコラムを掲載しています。ネタ要素が強いのは「テレビゲームがいじめの原因の一つと言われる。ゲームではリセットボタン一発ですべてチャラになる。そんなことを繰り返していると、人生のさまざまな場面で『都合が悪くなったらリセット』という感覚に~」の行でしょうか。テレビゲームがいじめの原因の一つ云々と「言われる」などと書かれていますが、テレビゲームがいじめの原因の一つと紙面上で暗に主張しながら、さも周知の事実であるかのごとく「言われる」と語る辺りに姑息さを感じるところです。

 しかしまぁ、現実の「テレビゲーム」を見たことがある人なら、今時のゲーム機にはリセットボタンが付いていない機種も多いことが分かるはずです。むしろリセットボタンを知らない「ゆとり世代」がいたって不思議ではありません。元より、「テレビ」に接続して遊ぶ据え置き型のゲーム機って下火なんですよね。携帯ゲーム機の方が強い、むしろ携帯電話やスマートホンで遊ぶゲームの方が、数としてはずっと出回っているわけです。この毎日新聞に作文を載せたおじいちゃんの頭の中では、子供達はリセットボタンの付いた機種でテレビゲームを遊んでいるものなのかも知れません。でも、それではお孫さんと話が噛み合わないだろうなと、ちょっと気の毒になってしまいますね。

 ゲームをやらない人は、妄想の中のゲームと現実のゲームの区別が付かないのだな、とも思います。むしろソーシャルゲームなどデータが運営のサーバーに管理されていてユーザーの手の届かないところにある、リセットなど通用しない世界で遊んでいる子供の方が多いんじゃないかとも言えますし、例外的にリセットボタンの付いたゲーム機で遊んでいる子供にしたところで、「都合が悪くなったらリセット」という感覚が身につくと、いったい何を根拠に言うのでしょうか。それは単に、ゲームで遊んでいるとそうなってしまうのだと、新聞紙面を使って偏見を垂れ流しているだけのことです。

 しかし、それ以上に問題なのは「あの頃にもいじめはあったが、いじめられたりいじめたりで、特定の人がいつもということはなかった。今のような陰湿さもなかった。何よりも悪いことをしているという自覚があった」との行です。本当なのでしょうか。個人レベルであれば、その通りだった可能性は否定できるものではありません。しかし、
単に記者が無自覚なだけ、自分の世代は違うのだと独善家ぶりを披露しているだけという可能性もまたあります。
いじめの加害者側は、せいぜい楽しい思い出程度にしか記憶していないとしても、被害者側は全く異なった思いを秘めている、そういうこともあるでしょう。いじめの記憶は都合良くチャラ、これはいつの時代も同じですね。

 昔は良かった、昔は違ったのだ――そういう「設定」「お約束」に沿って話が進められるのは、この毎日新聞の珍コラムに限ったことではありません。むしろ、そうした「設定」「お約束」に則ることでこそ通用している場合も多いような気もします。例えば自称経済誌では定番の「日本的雇用」批判など典型的で、現実の日本における雇用ではなく、あくまで経済誌の中で「こういうもの」と設定されている「日本的雇用」が槍玉に挙げられるわけです。この辺、日本で働いたことがある人なら誰でもフィクションと分かりそうなものなのに、経済誌の中の世界設定の方を真に受けては、経済誌の「お約束」を遵守することで「経済を理解している」風を装う等々。

 テレビゲーム云々の話にしても、実際の現行ゲーム機を見たことがある人ならば鼻で笑うところですけれど、逆に知識がない、偏見だけがある、そして今回の引用記事の著者と偏見を共有している人は、必ずしも少なくないのではないでしょうか。そして同じ偏見を共有しているが故に話が通じてしまう、あたかもそれが事実であるかのごとくに受け止められてしまう、こうした繰り返しは政治や経済の分野でも、あるいは原発問題でも頻繁に見られてきたものです。wikipedia的とでも言うべきなのか、実際にそうであるかどうかよりも、受け手の世界観に合致するかどうか、そっちが優先されているところもあるでしょう。

 

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コメント (6)
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