先日「オンタリオを選ぶ理由」という広告が新聞に載っていました。カナダのオンタリオ州による企業誘致の広告で、微妙に掲載誌を誤ってはいまいかという印象を拭えない代物でしたけれど、ちょっと興味深い一説があったのです。何でも「オンタリオ州の成人の約62%は、高等教育を修了しており、これはG7諸国の中でも最も高い比率です」だとか。広告そのものはweb上では見られないようですが、こちらの公式サイトから同様の主張を見ることができます。
……で、全体としては一般的な企業誘致の域に収まっている、日本の自治体が企業誘致を進めるとしても似たようなことをアピールするであろうなと思える文言が連ねられてもいる一方、逆に「日本だったら言わない」こともまた散見されるわけです。その代表的な一つが上記引用の「オンタリオ州の成人の約62%は、高等教育を修了しており~」云々の行ですね。どこまでを「高等教育」へ含めるかにもよりますが日本の大学進学率はバブル期以前は正直言って低い、現在に至るも隣の韓国に大きく後れを取るなど、誇れるほど高等教育修了者が多くないということもあります。しかし、それ以上に日本は高等教育修了者の増加を望まない、むしろネガティブに捉えたがる社会でもある、オンタリオ州が誇るものを日本では恥じている、そこに致命的な違いがあるのではないでしょうか。
先日は田中真紀子の暴走による大学新設の不認可騒動を取り上げましたが、この任命者の良識が疑われる大臣の独断専横ぶりには批判的な一方、大学が新設されることには否定的、大学新設を阻もうとする田中真紀子の方向性については共感する姿勢を見せる人もまた少なくありませんでした。大学が多すぎる、それもこれも大学生が増えすぎたせいだ云々とコンサルの類がしたり顔で語ったり、それをネット上の論者が知ったかぶって受け売りしたりと、まぁ日本ではよくあることです。そして大学の質を云々との口実で大学(大学生)が増えることを抑え込もうとする、そんな目論見を隠せないでいる人が日本にはウヨウヨいるわけです。
大学を「望めば誰でも入ることができる」ものではなく「一部の選ばれた人の専有物」にすることで「質」が確保できる必然性や保証などどこにもないのですが、ある種の人にとってはそれが自明の真理のようです。ただそれ以前に、日本のどこに「大学の質」を問える環境があるのかと疑わしく感じるところもあります。例えば大学1、2年生の段階での採用(内定)を始めたユニクロの場合です。これを私は日本的採用の象徴と捉えましたが(参考)、経済誌からギャラをもらって執筆するなど私などより遙かに社会的に認められている人々の多くはこれを革新的なもの、先進的なものとして概ね賞賛と期待の声を寄せていたものです。しかし、この日本の識者から高く評価されるユニクロ型採用のどこに、大学の質を問える要素があるのでしょうか?
大学1、2年生の段階では、当然ながら大学で何を学んだか、その教育の質は判断できません。ただ知りうるのは「大卒(見込み)か否か」「どこの大学か」くらいですね。後はお決まりのコミュニケーション能力等々。このユニクロ型採用が日本の因習的な採用の極地として否定されるのではなく、むしろ好意的に迎えられたことは、日本社会がどこを向いているのかを如実に物語るように思います。もしユニクロの採用が(日本基準で)革新的なものであるのなら、つまり今後の日本はより一層、大学で何を学んだかを問わなくなる、ただ「大卒であるか」「どこの大学卒業か」で足を切るだけの方向に舵を切るであろうことを意味します。
もし日本の大卒者が一世代前のように至って少なければ、大卒であるという、ただそれだけのことがステータスになるわけです。大学まで進学して卒業する人が限られた少数派であるのなら、その希少価値を以て単に大卒であることそのものが希少価値を発揮してくれます。もしかすると日本の学歴社会は、日本の大卒者が少なかったことによって育てられてきたところもあるのかも知れません。大卒者が少ないために、大卒者であるだけで「教育の質」なんぞは問われるまでもなく一定のエリート扱いされてきた、学歴が選別基準として好都合だったと言えるでしょう。
ところが近年は大学進学者が急増しており、これに不平タラタラの人が湧いているわけです。大学進学が増えて大卒者が過半数ともなると、流石に「大卒」というだけでは評価されにくくなってしまいます。もはや大卒が当たり前、その大卒の上に「何か」を加えないと差別化はできません。その「何か」に当てはめられてきたのが「コミュニケーション能力」と言えるでしょうか。ともあれ大卒というだけでは評価されにくい時代になりました。大卒という周囲よりも高い学歴を有している、そのことに密かな優越意識を抱いているような人々にとっては、何とも腹立たしい時代なのだろうと思います。
そこで大卒という「既得権益」を守るためには「馬鹿どもに車を与えるな」論が出てくるのかも知れません。漫画「美味しんぼ」の海原雄山がまだ尖っていた頃、渋滞に苛立った雄山は「必要もない連中が車に乗るからだ!!馬鹿どもに車を与えるなっ!!」などと宣ったものですが、日本社会の自己評価の高そうな連中の語る大学論は、この海原雄山と似たような発想を基盤にしていると言えます。自分にはそれが必要でも、アイツらには必要のないもの、無駄なものなのだと、メディアやネット上で意気軒昂な人にはそうした選民意識を隠せていない人が目立つのではないでしょうかね。
大学の数を絞り込み、昔のように大卒者が少ない時代へと逆行すれば、まぁ大卒者は楽ができます。あくまで「大卒」というカテゴリの中では椅子の奪い合いも随分と簡単なものになるでしょう。逆に大卒者が増えれば必然的に「大卒」というカテゴリの中での競争は激化します。だから大卒が多すぎるのだ――と、頭は大丈夫かと心配になるようなことを素面で口にする人も目立つのですが、大卒の枠から外れれば楽になるかと言えば、そんなはずがないのは誰にでも分かりそうなものでしょう。大学(大卒)を減らして楽になるのは、削減の波から免れて生き残った大学(大卒者)だけです。
むしろ、あんまり勉強が得意ではないながらも大学進学を選択するような人の方が、高卒での就職の難しさを理解しているような気もします。おそらくは学力上位であったろう論者の多くは、有名大学に進学できない層を指して、さも大学に「行かない」方がその人にとっては幸せなのだとばかりの御為ごかしを繰り返すものですが、そんなものは学力強者の振りかざす選民思想以外の何者でもありません。這い上がってくる人がいなければ「上」にいる人間は学歴格差社会を謳歌していられるのでしょうけれど、「下」にいる人間にとって「上」の説く「分相応」を受け入れることで得られるものなど何もないのです。
大学進学者と社会保障受給者の扱いが日本では似ているのかな、とも思います。「本当に必要な人のために」とは生活保護の削減に血道を上げる人間の常套句で、要するに現時点で生活保護などを受ける人間へ(本当に必要なの?と)疑惑の目を向けさせるものですが、同様の姿勢を大学(進学者)に向ける人もまた少なくありません。そして冒頭で引き合いに出したオンタリオ州では高等教育修了者の高さを誇る一方、我らが日本では高等教育修了者を減らそうとしている、これを改革と見なしているわけです。結局、日本だけは目指している未来が違うということなのでしょう。