2026-05-13

人はなぜ群れて争うのか

人は、自らを何らかの属性を持つ集団帰属させ、その集団同士で勝ち負けを競い合うことが大好きだ。

肉体的スポーツに限らず、デジタルアナログ問わないテーブルゲーム手遊び東西紅白善悪正邪。

二元論対立でなくとも、プロアマ問わない複数チームによる対抗戦、地域国家思想就労組織、親類一族、家、出身校。同じ学校内でさえ学級、学科部活委員学内地域と細分化される。

更には血液型星座誕生日、好きな食べ物フェティッシュ方向性、何のファンか誰が推しか何沼にハマっているかに至るまで、人は己を自らカテゴライズし、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。

自分自身で戦えない場合、時には相手への罵倒すら織り交ぜながら贔屓への応援支援を行う。

味方の勝利は己の勝利実効的な行為は何一つしていなくとも馬鹿騒ぎし、負けてしまえば最悪の場合殺人事件にまで発展する。

「争いは嫌だ」と主張する場合でさえ、その主張を巡ってそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。

言語はかくも自己言及である

なんにしろ、単に個人個人よりも「所属している集団」「肩入れする集団」同士の抗争が特にまれる傾向にあると言っていい。

個人で戦うより楽だから、というのも勿論あるだろう。責任分散しつつ、比較安全から敵を攻撃できるのだから

本気で対決するわけでもなく、ただ二項対立の状況そのもの面白がる風潮というのもある。

無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人同士の軋轢に首を突っ込みまれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくというのは、昨今のSNSで誰しも一度は見たことがあるだろう。

例えば、競合する商品サービス提供する二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は根絶すべきだという流れを見たことはないだろうか。

本来なら「どちらも買えばいい」「どちらも楽しめばいい」という発想があって然るべきなのに、そうした一般的思考は敢えて排除される。

勿論、中には本気の「アンチ」や「信者」もいるのだろうが、別に両方へ同時に手を出してはいけない法はない。

現実的には、個人資産費用限界による購買制限、つまり「どちらかしか選べない」という事情もあるだろう。

そうであったとしても、選択できなかった側を貶めることで自尊心を保つ行為にしては、少々度が過ぎているように感じる。

まり、人は好き好んで仲違いし、自らを持ち上げ、相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースラベリングを施し、延々とマウントを取り合う。

その様を楽しんでいるとしか思えない。別に陣営勧誘したいわけでもなく、ただ互いに罵倒し合うことそのものを愉しんでいる。

詰まるところ、やはり主たる目的は「優劣をつけること」なのだろう。

エコノミックパイの奪い合いというより、自分が正しく相手が間違っていることの確認証明、「相手攻撃できれば何でもいい」という欲求の方が実態に近い。

その「何でもいい」の部分へ、同族集団というものが、もっともらしい大義名分を与えてくれるわけだ。

なにしろ実利とは無関係である。というか、機会損失という意味ではむしろ損をしていることすらある。

まあ、対立状況そのもの面白がる人間は、そもそも外部の野次馬であり、失うものなど最初から持っていない場合も多いのだが。

責任分散どころか、そんなもの存在しないと思っているからこそ無責任に煽れるのだろう。

要するに、「自分自身が戦う」ということは絶対条件ではない。

優劣をつけることと、勝敗を決することは、似て非なるものからだ。

誤解なきよう言っておくが、それ自体が悪いと言いたいわけではない。

人間とはどうやらそういう風に出来ている、という説明解釈である

元々は生存競争、捕食被食、繁殖のための異性獲得競争など、「勝つこと」が「悦び」であるという根本的反応なのだろう。

知恵によって食物連鎖から仮初めに脱し、生存率も高い水準を保てるようになった人類にとって、その「悦び」を得るための代替行為を欲するのは自然なことだ。

闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるなら、それもまた勝利一種ではある。

だが、先ほども言ったように、人々にとって勝敗のものは、実のところそこまで重要ではないらしい。

そういう意味で、一人用ゲームというものは極めて合理的だ。

プレイヤー気持ちよくなるために都合の良い仮想敵を設定し、それはあくまで倒される前提で存在する。

攻略可能範囲内で、接待だと気付かれないギリギリの強さで抵抗し、最後には敗北することを運命づけられた存在

そうしたものを配することで「悦び」を得る疑似戦闘として非常に有用で、率直に言えば、だから人気なのだ

ただし、対人戦特化型は全く別の話になる。

一人用ゲームでも高難易度特化のもの存在するが、それらはハードルが高く門戸が狭いことによって、「他の奴らには出来ないことを出来る自分」という、より強い優越感を提供する。だから一定数の支持を得る。

誰でも簡単クリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、むしろ無粋でつまらないものですらある。

当然、ストレス発散として結果的な悦びを求める者達にとっては、「悦びを得るために苦行をこなさねばならない」それらは、「ゲームのためにゲームをしている」という本末転倒思考回路に見えるだろう。

決してそんなことはないのだが、それこそ属する集団が違うということだ。

そして重要なのは、ある集団に属することによって、人は「戦うための大義名分」を得られるだけでなく、「自分が何らかの役に立っている」と思い込める機会を得る、という点だ。

特に普通コミュニティへ馴染めない人間にとって、それは非常に蠱惑的である

現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献できる。

敢えて「疑似」と表現したのは、要するに「現実社会と直接には繋がっていない」という意味だ。

そして上に立つ人間は、そうした心情を利用することが多い。

現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献――否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。

直接的な強制など必要ない。本人に自覚のないまま、都合の良い駒として、一層離れられなくしていく。

無論、普通コミュニティとて同じ構造を持つ部分はある。だが、マイナス経験した後に用意された逃げ場としての幸福である以上、同じプラスでも、その絶対値は大きく感じられる。依存が強まるのも無理はない。

実際、オンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割が明確で、効果に即時性があり、目に見えて貢献度が分かるパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはもう愉しい。

自らの貢献、味方との連携。互いを求め、そして求められる関係作戦立案と実行。

その結果として敵が倒される。自己承認と敵の殲滅が同時に得られるのだから脳汁が止まらないというやつだ。

まり組織だった戦闘とは、「悦び」を最も実感しやすシチュエーションなのである

厄介なことに、「物理集団戦闘行為」は、その悦楽を最も得やすい。

先ほど述べたように、集団主催する側はそれを利用するし、快楽が強烈であるが故に、強制すら不要となる。

ただ、論戦に関しては、双方がルールに則って戦うことが前提だ。そもそも言葉とは真理ではない。言葉が通じない相手とは、論を戦わせることができない。

ある動物の威嚇行動が、人間から見れば愛らしい仕草に見えるように、概念による戦いは、言語を始めとした共通ルール存在大前提である

逆に言えば、ルール厳守を徹底するならば、言語は極めて強力な武器たり得るということでもある。

普通暮らしている限り、我々は「言語という呪文」が通じる世界に生きている。

その威力は、人を生かしも殺しもできるほど強い。少なくとも、言葉が通じる場においてなら、戦闘行為は成立する。

そもそも属性集団の中には、言語によって分けられた集団すら存在する以上、強い悦楽が物理戦闘に限られるわけではない。

だが実際問題、同じ社会にいながら、言葉の通じない相手というのは存外多いものなのだ

最後になるが、どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。勿論、優越でもない。

誰がどこに属しようと、どのような戦闘を愉しもうと、それ自体について、僕がどうこう言うつもりはない。

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