SNSに存在する考察垢と成り切り垢は創作したかった人間の成れの果てだと思う。
まずは、考察垢だ。
考察とは「物事を明らかにするためによく調べて考えること」という行為のことだ。
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」が大ヒットした文芸評論家の三宅香帆は
著書「考察する若者たち」の中で批評には正解がないが、考察には正解がある、と論じ
その「正解探し」=「報われること」こそ若者が考察に傾倒する理由の一端だと述べている。
考察に正解がある、という論に私は素直に頷くことはできない。
考察には正解はいらない。必要なのは正解ではなく、正解っぽい結論だと思う。
もちろん、三宅香帆の論じる「考察には正解がある」という論拠は
近年ヒットしたテレビドラマ『あなたの番です』や小説『変な家』など
作品の中に最終的な結末があり、その謎に対しての考察を行うことには正解がある、という意味なのも理解している。
私が考える考察とはコンテンツの中に明確な答えや、結論が描かれていない(または現時点では描かれていない)作品についての考察だ。
小説の結末や1クールのドラマに対しては、明確な答えはあるかも知れないが、
連載中の人気漫画や、過去の名作には答えがない、もしくは答えが示されていないものも多々ある。
よくある例で言えば、大人気漫画『ONE PIECE』において主人公ルフィの最終的な目的の一つである「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」の正体などだろう。
一読者として、尾田栄一郎先生の健康とご多幸を願ってやまないが、『ONE PIECE』の結末が示されるのは早くても数年後、下手をすると数十年後になるかも知れない。
その他には、直近新シリーズの制作が発表された『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめとする『エヴァンゲリオンシリーズ』も
作中に哲学的、抽象的な表現が多く、一旦は作品として完結した今も多くの考察が作られている。
(主人公碇シンジととあるサブキャラクターの関係性を考察したnoteがバズっていたのは記憶に新しい)
私自身も好きな作品の展開を考察したり、キャラの言動を考察し、時には友人と盛り上がることは大好きだ。
SNSで気軽に考察論を発信し、顔も知らない不特定多数と自身の考察論を発表し、
反応を見ることができるこの時代に考察はもはやエンタメコンテンツの一部だろう。
しかし、考察を専門に発信している考察垢の存在を私はあまり好ましく思っていない。
考察垢はコンテンツや作品の世界観や魅力の一部を切り取り、行間を読み、擬似的に創作活動の真似事をしているに過ぎないと思う。
考察の元々の意味が「よく調べて考える」ということからも、考察垢のほとんどは対象のコンテンツをよく調べ、観察している。
細かいセリフや設定を洗い出し、時には時系列を精査し、漫画であればコマの中のほんのわずかに描かれた絵や描写を見逃さない。
そして、これらの調べあげた情報が「納得性」に繋がる。
調べあげた情報というファクトを積み上げ、編纂し、データとしての価値を高めていくことで納得性がともすれば信頼や確からしさに繋がる。
そして、それらの情報を元に独自の「発見性」のある論拠や結論を示していく。
「発見性」は「納得性」ともやや地続きなのだが、調べあげたデータや根拠に「納得性」があり、
その上に意外性や驚きがありながら「確かにわかる」「あり得そう」「そこには気づかなかった」と思わせる要素があることで考察は見る人の興味を唆る。
あるコンテンツや作品の設定や世界観を活かして新たな作品を創造する二次創作と考察は似ているし、考察も二次創作の一種であると言えるかも知れない。
二次創作については色々とグレーゾーンな部分もあり、二次創作という行為がコンテンツを広めるに少なからず寄与しているという考えもある一方で、
特にドラマのような比較的短期間で終わるものや、映画など単発で終わるものはまだいい。
一番酷いと思うのは長期的に継続しており、まだ終わりが見えないような漫画などのコンテンツの考察だ。
考察には「納得性」と「発見性」が大事だと述べたが、結論だけ見れば荒唐無稽にしか思えない考察も多い。
明確な結果や回答が存在しないコンテンツの考察はどこまでいっても妄想なのだ。
そこに「正解」である必要はなく「正解っぽい結論」があれば考察は盛り上がる。
当たったとしても考察者の自己満足にしか過ぎずコンテンツ側に特にメリットはない。
あ、この展開、考察者の〇〇さんが言ってたのと同じだ、などとなったら終わりだ。
ここでいうのは広く自身の考察を発信している場合を想定しており、個人レベルならいくらでも考察しても良いと思う。
考察垢は、誰かが魂を削って作ったコンテンツの世界観や設定をなぞり、わかりやすい結論というトロの部分しか触っていない。
ふざけるな。ちゃんと米を炊いて、シャリを作り、10年くらい修行してから寿司を握れ。
そもそも考察垢が本質的にやりたかったことは、自ら何かを作りだし、それで人に反応されたり感動することではないのか?
それが出来ないから、誰かが作ったコンテンツという神輿に載っているという考えは本当に1mmもないのか?
いくら膨大な資料を読み込み、情報を整理し、納得性や発見性の高い考察をしたとしても本質的に何も生み出してはいない。
優れたコンテンツのあり得そうな可能性という魂の代謝を拾い集めて形にしているだけの存在が考察垢なのだ。
『ONE PIECE』を考察するな。お前が次の『ONE PIECE』を作れ。
下手でも、人に見られなくても、賞賛されなくても、時にはちょっと叩かれても、創作するという行為はとても尊い行為だ。
仮に考察で賞賛や、注目を集めたとしても決して奢るべきではない。
一次創作こそが神であり、王であり、二次創作はその遥か下にいる下々の民だ。
神がいなければそもそも世界は存在しない。そこを一瞬でも忘れるな。
明文化が必要であったら敬意を忘れない、とでも心の辞書に刻んでおけ。
クリエイター面を決してするな。
考察家さん、それは面白い考察だなぁ、探偵にでもなったらどうですか?
ご自慢の考察力で、嵐で孤立した別荘で起こる凄惨な連続殺人事件でも鮮やかに解決したらどうか?
成り切り垢はもっと単純で、あれは着ぐるみを着て大喜利をしているだけだ。
大喜利のお題で「こんな〇〇ってどんなの?」というタイプのお題がある。
このお題を考える時、最もオーソドックスな考え方は
「ギャルの要素」と「忍者の要素」をそれぞれ抽出し、それを掛け合わせることだ。
と考えれば「ギャルの忍者の手裏剣はデコってある」とかになるだろう。
この要素のどんな部分を抜き出したり、組み合わせの妙や、要素の距離感の妙などがこのタイプの大喜利のポイントだと思っている。
成り切り垢とは特定のキャラクターや人物に成り切って発信をしている。
そして、ほとんどの場合、対象にしているキャラクターが言わなそうなことやギャップのあることも発信している。
しかも、特定のキャラクター像というものは要素やトンマナを抽出しやすいので
残りの要素1つだけを考えれば大喜利は完成する。
代表的なもので言うならビジネスシーンでのあるあるやTIPSを発信するアニメキャラクターアカウントがあるだろう。
あれらは、キャラクターという外側の着ぐるみのキャラクター性や、口調のフォーマットや構文を活用しながら発信し、
しかも発信内容が本来のキャラクターから距離の遠いビジネスの話題ということで違和感があり、一定の面白さが担保されている。
発信の内容/テーマが「伝えたいこと」だとした時に
夏目漱石が相手に好意を伝える際に「月が綺麗ですね」と言ったという、史実的には大分存在が疑われているエピソードがあるが、
これは「好き」という「伝えたいメッセージ」の伝え方を「月が綺麗ですね」というオリジナリティある伝え方にしているのだ。
ダウ90000の蓮見翔も言っていたが「好きという言葉をいかに使わずに、好きということを伝えるかが面白い」のだ。
成り切り垢の話に戻れば、これらのアカウントは、キャラクターという発信手法は固定されている。
しかし、お前たちは本当にやりたかったのはこんなヌルゲーな大喜利なのか?
本当は0から考えた、人が唸るような回答を出したかったのではないか?
特に、どう伝えるか/表現するか、という部分が最もやりたかったんじゃないのか?
あなたならどう告白しますか?というお題に「ジャイアンが言いそうな告白のセリフ」ばかり考えていて楽しいのか?
「俺のリサイタルを一生そばで聴いてくれ」とでも言うのか?お断りです。
滑っても面白くなくても、お前にしか出せない大喜利の答えを作れ。
誰かに成り切るんじゃなくて、お前自身が誰かに認知されるキャラクターになれ。
ウケたとしてもそれはお前がウケたのではない。
大衆に認知され、バックボーンがわかりやすいキャラクターがあるからこそ伝達のスピードが早く、
時にはギャップを生むことでウケているのだ。
考察垢も、成り切り垢も根本にあるのは自らの創作や発信で人に賞賛されたり、褒められたいと言う欲求だと思う。
誰かが作った世界観やキャラクターをインスタントに活用して、創作っぽいことをしているだけではないか?
シンガーソングライターのキタニタツヤは「物知りな批評家」より「ショボい(ショボくとも)作り手」であってほしいと発信していた。
考察垢も成り切り垢も反応されなくても、誰にも見られなくてもショボい作り手であるべきなのではないかと私も思う。
よしんばそういった発信をするとしても、驕るな、勘違いをするな、謙虚であれ。
金儲けをするな。元のコンテンツに敬意を一瞬たりとも忘れるな。そういうことを切に願う。
考察垢や成り切り垢という他人が作ったコンテンツをベースに話している私も大概ろくなものではない。
みんなでショボい作り手になろう。
最近応援し始めたアーティストのツアーファイナル公演の先行抽選販売に申し込んだんだけど、手数料として先行サービス料を取られたのが意味わかんなかった。
会場はそのアーティストがずっと目標としてた所だけど、多分ソールドアウトは厳しいだろうなというキャパ。一般販売まで待っても余裕でチケットは買えるだろうけど、頑張って宣伝してるし先行販売に一枚でも多く申し込みがあった方が嬉しいだろうなと思って応援の気持ちで申し込んだものの、応援の気持ちを持っているほど余計に手数料負担させられるのは謎すぎるなと思った。運営やローチケにいったい何のお手数をおかけしてるんだ。
チケット激戦のメジャーアーティストだったら「先行でチケットを確保していただいてありがとうございます」みたいな気持ちになるんだろうけど、それにしたって何のお手数が?本来なら一般販売しかやらないけど先行で販売してやる手間をかけてやったぞということか?プレイガイドは「先行サービス料」とか「システム利用料」とか「店頭入金手数料」とか、いちいち細分化して明朗会計に見せかけているけど全然納得いかない手数料の表記をやめるべきだぞ!
当たり前だろ偉大なるリベラルに跪け
当たり前だろ偉大なるリベラルに跪け
政治の話になると目につくのが、レッテル張りと詭弁ばかりで嫌になる。
本当の知性を持っていれば党派性とか右左で、全ての問題や答えを括れるわけがないことに簡単に気づくはず。
01で片付く極端な話じゃないことの方が多い、バランスの取り方が各々の問題に対してあるはずで、それを考えていくことが解決への道筋のはず。
問題の本質を見ようよ、誰が言ったとか誰がやったとか関係ないはず。
ネットで簡単に人の目に触れるところこそちゃんとした議論になって欲しいと切に思うが、そういうところでは滅多にお目にかかれることはない。
賢い人もっといっぱいいるはずなのに。
今日は朝から MTG の緊急招集を掛けられ、正直モヤっとした。なので、午後の仕事は全てキャンセルした。態度が悪くてもいい。別に締切がある仕事はないんだし。
まぁ、必要とされているだけ、ありがたいんだけどね。
その後、午前中は妻と SKY STAGE を見ながら雑談。彼女のタイミングでビデオがシークされていくのにツッコミを入れたりしていた。
思ったのは、宝塚の公演そのものが開かれていないということだ。映画みたいに、ふと思い立った時に見に行けないのが致命的。それができれば、妻がいなくても見に行くのに。
NEWS の weeeek でノリノリだったのでカラオケに誘ってみたが断られた。彼女はやはり準備の人である。悪く言えば面倒くさがりな上、瞬発力がない。
ただ、それも彼女のタイミングなのだ。合わないものはしょうがない。私だって、合わない時は合わないのだから。それが「大人」だ。