東海道新幹線、開業から60年 常識外れの速さで整備
鉄道の達人 鉄道ジャーナリスト 梅原淳
東海道新幹線が1964年(昭和39年)10月1日に開業して今年で60年となる。ついに新幹線も還暦を迎えた。新幹線が歩んできた60年の月日は、そのまま近代日本の発展の歴史だと言ってよい。もしも新幹線が存在しなかったとしたら人々は今ほど自由に移動できず、世の中は全く異なる姿になっていたかもしれない。それほど新幹線が日本にもたらした影響は大きいのだ。
1959年(昭和34年)4月20日に起工式が執り行われた東海道新幹線は、開業時期が1964年10月に設定された。かねて誘致していた東京オリンピックの開催が東海道新幹線の着工と同じ年の5月26日に決定し、1964年10月10日の開会式までに何としても間に合わせようとしたからだ。
東海道新幹線は着工から5年5か月あまりで開業を果たした。これがいかに常識外れかは、2024年(令和6年)3月16日に開業した最新の新幹線である北陸新幹線の金沢駅―敦賀駅間と比較するとわかる。同区間の着工は2012年(平成24年)8月19日で、開業までに11年7カ月を要したのに対し、東海道新幹線は半分以下の期間で開業しているのだ。しかも東海道新幹線の線路の長さは515.4キロメートルと、同区間(125.1キロメートル)の4倍以上も長い。
当時の記録をひもとくと、突貫工事ぶりを物語るエピソードには事欠かない。例えば、東海道新幹線の全線のレールがつながったのは1964年7月1日で、開業まであと3カ月というときだ。北陸新幹線金沢駅―敦賀駅間のレールが結ばれたのは開業10カ月前の2023年(令和5年)5月27日であったことを考えるとずいぶん遅い。しかも、東海道新幹線は初めての新幹線である。本来であれば開業の1年前くらい前に全線のレールがつながって試験走行を実施したかったが、そうもいかなくなってしまったのだ。
全線でのレールの締結が遅れたのは、用地買収に手間取ったことが理由だ。東海道新幹線の敷地面積は線路や駅、その他合わせて1116万3258平方メートル、東京ドーム約239個分だ。これらの用地のうち、建設を担当した現在のJRの前身の国鉄は、わずか5年5カ月の工事期間中に約740万平方メートル(東京ドーム158個分)の用地を買収しなければならなかった。
交渉相手となる地主らは5万人にものぼったのに対し、国鉄が集めた用地の専門家は120人しかいなかった。それでも着工から3年が経過した1962年(昭和37年)中には9割方の買収を終えたが、一部で頑として国鉄の買収に応じない地主もいた。粘り強い交渉の結果、用地買収が完了したのは何と開業まで9カ月を切った1964年1月20日のことだ。ようやく入手した土地を整地して線路を敷き、列車を走行可能な状態に仕上げるには1年は欲しいところだが、東京オリンピックの開会式に間に合わせるためには無理を承知で建設せざるを得なかったのである。
東海道新幹線で1964年7月25日から開始された全線を通しての試験走行も一筋縄ではいかない。当初の計画では東京駅と新大阪駅との間を最速3時間10分で結ぶ予定であったが、突貫工事で築かれた路盤が不安定だったことや、車両や設備の故障を考慮し、最速4時間で運行することにした。試験走行の列車が4時間で東京駅―新大阪駅間を結ぶことができたのは、何と1964年9月も半ばを過ぎてからだったという。
しかも、1964年9月半ばの時点でも試験走行の列車は安定して走ることができなかった。車両や線路、信号装置などの不調が相次ぎ、本来予定していた到着時刻よりも1時間以上遅れたり、途中で試験走行を打ち切ったりするケースが開業前日まで止まなかったという。
それでも開業日はやってきた。かつて筆者は、東海道新幹線の上り初列車となる「ひかり2号」の乗務を新大阪駅から東京駅まで担当した、元運転士の大石和太郎氏にインタビューしたことがある。大石氏は当日朝の模様を次のように語った。
「(筆者注:新大阪駅を)発車前にだれか(同:おそらく新大阪駅の助役)が私のところにやってきてそっと耳打ちしました。『これだけ派手に見送られるのだから、発車ベルが鳴り終わってノッチ(同:加速スイッチ)を入れたら姿が見えなくなるところまでは何とか走ってくれよ』と。そう思うのも無理もありません。前日まで時間どおりに運転できたためしがないからです。私もちゃんと走ってくれるかは正直、不安でした」(大石和太郎氏インタビュー「新幹線を走らせた漢〈おとこ〉」、『鉄道ダイヤ情報』2003年1月号18ページ、交通新聞社)
関係者の予想に反し、1964年10月1日は予定されていた60本すべての列車が終着駅に時間どおりに到着するという平穏な一日となった。一部の列車では車両の故障や信号設備の故障によって20分程度遅れたものの、本来ならば東京駅―新大阪駅間を最速3時間10分で結ぶところ、50分も余裕をもたせた最速4時間で走らせていたので、終着駅に着くころには遅れを取り戻すことができたのだ。
無事に開業はしたものの、関係者は皆生きた心地がしなかったであろう。東京オリンピックとの関係でやむを得ないかもしれないが、東海道新幹線はできれば開業までもう少し余裕をもたせるべきであった。線路が完成してから少なくとも1年、四季を経験させておけば、関ケ原付近での雪や、盛土の区間への大雨の対策ももっと早く立てられたかもしれないからだ。
そうは言ってもやはり1964年10月1日の開業にこぎ着けた関係者の努力には敬服するほかない。それから、東海道新幹線の建設工事では210人が殉職している。殉職者の霊は東京駅と新大阪駅とのほぼ中間地点である静岡県湖西市の浜名湖のすぐ西側に建立された東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑に祀(まつ)られた。
ほんの一瞬だが、慰霊碑は東海道新幹線の車窓から見ることができる。新幹線のもたらした恩恵の一方で犠牲となった人々のことを、ときには想像してみてほしい。
1965年(昭和40年)生まれ。大学卒業後、三井銀行(現三井住友銀行)に入行、交友社月刊「鉄道ファン」編集部などを経て2000年に鉄道ジャーナリストとして活動を開始する。「JR貨物の魅力を探る本」(河出書房新社)、「新幹線を運行する技術」(SBクリエイティブ)、「JRは生き残れるのか」(洋泉社)など著書多数。雑誌やWeb媒体への寄稿、テレビ・ラジオ・新聞等で解説する。NHKラジオ第1「子ども科学電話相談」では鉄道部門の回答者も務める。
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