文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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赤松隊長と女子青年団の微妙な関係について……。


曽野綾子の『ある神話の背景』の雑誌掲載の原稿を読んでいるところだが、意外に加筆修正や削除などは少ないようで、今まで読んだところは雑誌掲載の原文がほぼそのまま本にも採用されているように見えるが、あらためて『ある神話の背景』の原文を読んでいくうちに気付いたことで、前にもちょっと書いたが、これを書くと誤解を招きかねないので書きにくいのだが、「赤松隊長と女子青年団」との微妙な関係の部分について、誤解・誤読を覚悟の上で、ここで敢えて書いておこう。雑誌掲載原稿で言うと、第三回目の原稿の部分だが、そこに、赤松と渡嘉敷島の女性たちとの関係を暗示させるような文章がある。

十月八日は大詔奉戴日であった。/渡嘉敷村では、村民が慰問の演芸会をしてくれた。うるわしい南国の十月である。風の香りがよかった。場所は海岸の記念運動場である。赤松大尉も、兵たちと肩を並べて見入る。民謡がおもしろい。それより目を見張ったのは、島の乙女たちであった。濡羽色の黒髪と黒いカスリの着物の胸許につつましく見える純白の襟が、匂うようであつた。中に一人、小柄で、勝気そうな娘が、いろいろと指図をしている。大尉も二十五歳の青年に還っている。芋と豆とお茶が出た。そんなことも嬉しい。嘉き日であった。

「小柄で、勝気そうな娘」が、おそらく渡嘉敷島の女子青年団長で、座間味島の女子青年団員の宮城初枝と同様に、「沖縄集団自決」問題で重要な役割を演じることになる古波蔵容子だったのだろう。ところで、成人男子のほぼ全員がと言ってもいいいぐらいの島の男達が徴用され、外地へ出征して不在の島に、突然、二十歳前後の若者達が押しかけてきたのであり、しかも男性不在の島の各民家に分かれて民宿することになったのである。何事も起こらなかったという方が、常識的に考えて不自然だろうが、しかし、曽野綾子は、その問題には断片的に、且つ表面的に触れるだけで、深く切り込もうとはしていない。とは言いながらも、曽野綾子の断片的、表面的な記述からも、かなりのことが推測できる。むろん、僕は、ここで、ほぼ全員が25歳以下という若い特攻隊隊員たちと現地の沖縄女性たちとの関係を、たとえば同じように特攻隊の隊長として奄美の加計呂間島に赴任していた島尾敏雄の場合は現地女性(島尾ミホ)と恋愛関係になり、後に結婚しているわけだから、単純素朴に批判したり、告発し非難しようと思っているわけではなく、ただ、彼女達の証言や告白が「沖縄集団自決裁判」にも重要な役割を果たしているわけで、つまり『母の残したもの』の「宮城初枝証言」がそうであるように、また元隊員たちが島を訪問したりすると彼女達によって大歓迎され、微笑ましく記念撮影までも行うという風景が見られることからも分かるように、しばしば彼女達の証言や告白は赤松部隊や梅澤部隊に同情的、好意的になっているわけだが、その彼女達の証言や告白が出てくる背景を知るためにもその背後の人間関係は重要で、僕としてはそれを事実問題として確認しおきたいだけである。つまり特攻隊隊員たちと沖縄の現地の女性達との恋愛関係や人間関係そのものは、また別の問題(物語)に属するということであって、僕としても他人の恋愛関係や男女関係をあれこれ詮索したり、論難などする気はまったくないわけで、ただ事件が事件だけに、事件の関係者たちの人間関係や恋愛関係、あるいは男女関係なども無視は出来ないだろうと言うまでである。要するに彼女達の証言や告白には、若い兵隊さんと、その若い兵隊さんたちに憧れて近づこうとしていた島の娘達との「人間関係」というバイアスがかかっているということである。そのことを確認した上で彼女達の証言や告白、あるいはその後の言動を読み解くことが必要だということだ。次のような文章もある。

その頃、赤松大尉は、役場の近くで、よく小柄な娘に会った。会うと必ず向うから会釈するので、大尉も会釈を返した。事務室で人の噂から、大尉はその娘の名を知った。古波蔵容子(こばくらようこ)というのであった。女学校を出て、那覇か首里で看護婦をしていたという。島では珍しいインテリであった。

もちろん偶然そうなったのだろうが、やがて赤松は、兵隊さんが少しずつ分かれて渡嘉敷の民家に民宿するという制度を通して、古波蔵容子とは同じ屋根の下に同居したり、トランプに興じたりするような関係になる。これは、『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)に引用されている「赤松手記」の文章である。

その頃何かと部隊のことを容子さんに頼むため、比較的うちとけ、会いもよくし、よく話もしたり。時には池上見習士官と共に、予の宿舎に遊びに来たり、当番と共にトランプに興じたる事、また数回なり。/一月中旬頃、容子さん、かねて婚約者にして予の宿舎の一人息子にして、中支に出征しある与那嶺曹長と写真結婚をなす。なかなか盛大なりしも、予は業務のため参列せず。/それより容子さん、予等と同じ家に住むようになったる為、接触も多く、おばあさん、容子さん、当番と五人で、夕食後、たのしき一時を過ごせしこと屡々なりき

むろん、僕は、赤松と古波蔵容子が恋愛関係あったとか、男女関係で結ばれていたはずだというようなことを言いたいわけではなく、ただ、見ず知らずで、口もきいたことのないような疎遠な関係ではなく、同じ屋根の下で共同生活したり、トランプに興じるような、そういう密接な関係にあったということを確認しておきたいだけである。それだけからも古波蔵容子の証言や告白が、どういう背景から発せられたものであるかが、少しは分かるはずだからだ。ところで、赤松は、女性関係は晩熟(おくて)で、渡嘉敷島でも女性関係はゼロだったかのように清廉潔白を主張していたようだが、もちろん実際はそうだつたのだろうが、地元の人たちの噂では、これはあくまでも噂にすぎないと思われるが、赤松は米軍に投降する時に、「愛人を連れて投降した……」と言われているが、その時、つまり米軍に投降する時に同伴していた女性が、実は渡嘉敷島の赤松部隊のために献身的な協力を惜しまなかった「女子青年団長(古波蔵容子)」だったことが判明している。曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)によると、赤松自身が、それを告白している。

第二の点は、降伏の時、赤松元大尉が愛人を連れて山を下ったといわれる件である。/当時軍の記録係であった谷本候補生によれば、その時、隊長は兵だけを連れて下りたのだから、女などいる訳はなかった、という。しかし赤松氏によれば、その時、三人の民間人がいるにはいた。三人はいずれも集団投降せずに、村に残っていた人たちの一部で、一人は駐在巡査、もう一人は女子青年団長、もう一人は校長先生ではなかったかと思うが、それは記憶上はっきりしない。だから、女子が一人いるにはいました、と赤松氏は伝えて来たのである。谷本候補生にとって、民間人などは員数外であったか、とにかく氏には、それらの人々は目に入らなかったようである。

曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)の歴史記述やその方法論に、僕が疑問を感じるのは、赤松や赤松部隊に不利な証言や資料が出てくると、曽野綾子がムキになってそれに反論し、それを強引に論破して、赤松や赤松部隊の「特攻隊美談」再構築へと読者を誘導していくことであるが、むしろそれ故に曽野綾子の「戦略的意図」があからさまに露呈してしまうのだが、ここでも、そのパターンが繰り返されているとと見ていい。さて、赤松と行動を伴にした「三人の民間人」のうち、女子青年団長が古波蔵容子であることは間違いないだろうが、もう一人の「駐在巡査」とは、「沖縄集団自決」の「軍命令はあつたか、なかったか……」の論争の中で、もっとも重要な証言者の役割を担っている「安里喜順」のことだろうか。もしそうだとすれば、安里喜順証言が、赤松や赤松部隊擁護に傾くのは自然であって、逆に言えば、安里喜順証言も、眉に唾をつけて聞かなければならないということになるわけで、「軍命令」の伝令役だった安里喜順巡査の「軍命令はなかった……」という証言を重要視する曽野綾子の主張にも、当然のことだろうが、ある翳りが出てくるはずである。ところで、赤松が、米軍への投降の時、「愛人を同伴していた……」というのは間違いかもしれないが、女性を同伴していたことは間違いないようだが、それにしても『陣中日誌』の記録者でもある谷本は、何故、赤松は投降する時に、「同伴する女性は一人もいなかった……」と自信を持つて証言できたのだろうか。不可解である。僕は、ここにも谷本執筆の『陣中日誌』の歴史記述としての信憑性に疑問を持つべき根拠はあると思う。曽野綾子が言うように、谷本の目に、米軍に投降するために山を下りる赤松の側にいた「女子青年団長」の存在が「目に入らなかった……」とすれば、それ以外にも「目に入らなかった……」ことは少なくないはずであって、とりわけ自分達に都合の悪い現実や資料は「目に入らなかった……」ということにならないともかぎらないわけで、谷本執筆の『陣中日誌』の歴史記述が決定的資料だと言うことは不可能だということが、論理的にも推論できるだろう。ちなみに座間味島の隊長・梅澤裕の場合は、投降直前まで「朝鮮人慰安婦」の中のリーダー格の女性を同伴していたことが判明しているが、こちらは、完全に「愛人を連れて投降した……」と見て間違いないだろう。さて、赤松の問題に戻る。赤松は、1971年、「潮」に手記を発表しているが、この手記の中に、次のような文章がある。

八月二十四日、米軍に武装解除された部隊を涙を流して送ってくれた村の人々、昨年三月慰霊祭に旧部隊のものを暖かく迎え、夜のふけるのを忘れて語り合い、なかには、島に行げなかった私に、わざわざみやげ物を持って那覇まで会いにきてくれた村民に、私はあの島の戦史や巷の戦記物にあるような憎しみや、悪意を見いだしえないのである。
沖縄のある友人からの手紙は、
「私も四月三日に渡嘉敷島に渡り、島の人々が"あのこと"に対し、どのような反響を見せるか、ただ注意深く見守っておりましたが、島の人には誰一人として貴殿に反意を持つものがいなかったことは、那覇でのあの騒ぎと対照した場合、いかにもおかしい気がして……。
ある人が村長に対し、なぜ赤松さんをご案内して来なかったのか、と詰めよる人さえあったのです。それも一人ではありません。数多くの人々がいっていたと村長はいっていました。(以下略)」
また先日、戦後のあるとき渡嘉敷で小学校長をやっていた人が、わざわざ私のところを訪ねてきて、
「赤松さんは集団自決の命令は出してない筈だ。軍が持つほとんどすぺての衛生材料(薬包帯等)を、集団自決に失敗した人たちのために使っているのだから。自分で下命しておき、そんな親切を見せるはずはないものですよ」といってくれたのである。
私の許には同様の趣旨の村民、あるいは村関係者からの手紙が数多くよせられているが、ここでは、そのひとつ当時女子青年団長だった伊礼蓉子さん(那覇市在住)の真心こもる所信を、ご紹介するにとどめておこう。
「赤松さまのことが話題にのぼる度に、ゆがんで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。
最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろと風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松さまの冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのだと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったことは、私たちをはじめ渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」

赤松は、ここで小学校校長と女子青年団長の発言や書簡を引用して、「軍命令なかった……」の証拠資料として主張しようとしているわけだが、小学校校長はともかくとして、ここで引用されている女子青年団長(伊礼蓉子)が、赤松が米軍に投降する時、同伴していた女性、つまり渡嘉敷島の女子青年団長の古波蔵容子であることは間違いない。赤松は、手紙の筆者である女子青年団長(伊礼蓉子)がどういう女性であり、どういう関係にあったかを説明することなく、突然、第三者からの手紙のように引用しているわけだが、僕は、それ故に、この手紙の資料的価値は、嘘をついているかどうかという次元の問題は別にしても、半減すると考える。女子青年団長(伊礼蓉子)は、明らかに赤松部隊の関係者であり、その一員だったと考えても間違いはないのだ。とすれば、女子青年団長(伊礼蓉子)が、赤松や赤松部隊に不利な証言や告白をするはずがないのである。さらに、赤松が、この手記を発表したのが「1971年」だということにも注目して欲しいのだが、実は、黙って静かに余生を過ごそうとしていたはずの赤松が、突然、強気に転じて、反論や自己弁護の名誉回復の活動を開始したのが、この頃であって、しかもこの頃とは、実は、赤松が曽野綾子の取材を受け、かなり頻繁に曽野綾子と情報交換をしていた頃のことだということだ。一部では、この赤松手記は、赤松本人の手記ではなく、ゴーストライターがいるのではないかとも言われているが、あながちその推測は間違いではないかもしれないと僕も同じように推測している。しかも、素人の元軍人が書くはずもないようなメディア論や取材の方法論にまで言及していることを見るまでもなく、赤松手記の内容は、曽野綾子の『ある神話の背景』の内容と酷似しているからだ。いずれにしろ、ここで引用されている古波蔵容子のテキストは、ニセモノではないだろうが、このテキストの成立する背景を考えた上で読むべきだということだ。座間味島の女子青年団員だった宮城初枝の場合がそうだったように、古波蔵容子のテキストも、赤松隊と最後まで行動を共にしていた女子青年団長が書いたものであり、それは赤松隊の「戦友」「同士」という立ち位置で書かれているテキストだということを忘れてはならないということだろう。(続)




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資料(過去エントリー)
■大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1
■誰も読んでいない『沖縄ノート』。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1
■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2
■大江健三郎は集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1
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