はてなキーワード: 境涯とは
この分野では素人なのですが…
1,大聖人(だいしょうにん)→ 日蓮正宗系 (他の日連系は「聖人」「上人」)
2,謗法(ほうぼう)→ 仏教系
4,財務(ざいむ)→ 一般 (創価学会では若干違う使われ方している)
5,折伏(しゃくぶく)→ 仏教系 (議論で正当性を示して教化すること。日蓮系で重視; ただし日蓮は「常不軽品の如し」、すなわち相手に敬意を払うことが必要としている)
6,破折(はしゃく)→ 不明 (少なくとも日蓮の著作にはないはず)
雑だなぁ。いくつか修正しとくよ。
謗法、
法をそしると書く。他宗や外道への信仰は法華経に書いてある内容をそしる事に繋がるから駄目だよねって考え方。
創価学会は僧侶を擁立していないが為に、仏教としての定義に反するので内道の仏教じゃなくて外道だよね
じゃあ謗法だよね?っていう教学の上での致命傷が有る。割と逃げ場の無い正論なので指摘するとキレる。
境遇の事とするのは狭いかなぁ。因果応報と輪廻転生ってどちらも仏教の基本的な考え方で受け入れやすいよね
でもこの二つって別々に存在してるわけじゃないからくっつくんだよね。都合の悪い人も多いだろうけれど。
生まれも育ちも全部自分のせいだからね?つらくても受け入れようね?って仏教は言ってきます。
そういうの踏まえた上で、あの人はそういう境涯だからね…。って使い方をします。
仏教は因果応報を説きますのでご利益とするのは誤りです。まぁ皆同じ意味に認識してそうですが
私は創価学会員ではありません。
1,大聖人(だいしょうにん)
(厳密にいうと「本仏」という。)
なお、一般的な日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。
菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは
相容れないのである。
2,謗法(ほうぼう)
3,境涯(きょうがい)
4,財務(ざいむ)
強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。
一般家庭でも100万円出すところもある。
5,折伏(しゃくぶく)
「勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである。
6,破折(はしゃく)
「論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)
7,御書(ごしょ)
8,仏法(ぶっぽう)
「仏教」のこと。
9,広宣流布(こうせんるふ)
公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)
を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。
現在では池田大作創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル(SGI)会長
が世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である。
10,功徳(くどく)
アラフィフ、既婚、子なし、両親健在。
障害年金2級。
妻は結婚してから統合失調症を発症、義母も統失だったが知らなかった。
今年の春、うつが重くなり自殺願望が出てきて、しばらく私だけ実家の世話になることにした。
うつが重くなった理由は、妻が自分の好きなことに夢中で、私と向き合うことがほとんどなく、私の孤独感が強くなったからだと思う。
妻とは定期的に連絡を取っていたが、夏になって言動がおかしいことに気づき、妻にもしばらく実家で養生してもらうことにした。
連絡を取るときはいつも私からで、妻から連絡が来ることはなく、返信も来なくなった。私と連絡を取ると体調が悪くなるらしい。
私の実家の居心地は十分いいとは言えない。
母はある程度病気のことを理解してくれているが、80才の父は頭が固くなっていて精神疾患にあまり理解がない。
独身の妹がいるのだが、指定難病を抱えていて、投薬治療の副作用が体中に出ており、常に痛みを感じていて、なんとか仕事を続けている状態だ。
躁状態のときは多幸感に包まれていて、実家に戻ることによってうつが治ったものと勘違いしていたが、秋になってうつ状態に戻り、躁が高かった分落ち込みが激しい。
これの取り崩しと境涯年金で生活しているが、働きもせず、ストレスもない現在の立場は、羨ましく思う人も少なくないと思う。
行きたいところにはだいたい行ったし、やりたいこともだいたいやった。
もう死んでもいいかなと思っている。
私は人付き合いが嫌いなくせに、さみしがり屋という面倒な人間だ。
自殺は首つり、飛び降り、頸動脈切断を中心に考えていたが、やはり首つりが妥当という結論に至った。
迷うのは、少ない遺産を家族に残すのか、使いきってしまうのかだ。
今の状態なら妻には相続したくなく、そのためには離婚が必要だが困難だと思う。
老い先短いとはいえ、世界中で私のことを思ってくれるのは実母しかいない。
実家で暮らすまでは難病を抱えている妹に残したいと思っていたが、今はあまりそうお思わなくなった。
まとめると、
・生きるとしたらどう生きていくべきか?
この2点だと思う。
諸兄のご意見を伺いたい。
周りの友人らが彼女ができたとか風俗で卒業したとか突然報告してきて、俺はいったい何をやっているんだと思うこともあるけれども、特別な焦りという焦りもなく、いくら友人が彼女をもとうと風俗にいこうと自分には何ら関係のないことなので、たいていは勝手にやってろと心の中で思うだけで平然としているが、床について夢をみると、その内容は自分がどんどんと孤独になってゆく悪夢だったために、あさ起きてから俄に孤独感が胸に迫ってくる。
いやいやいやいや、だってついこの間までお前ら俺と変わらなかったじゃん。
女はあーでこーでとか適当に妄想し合って、酒を飲みながら笑いあったあの日は、何もそんなに遠い昔のことじゃなかった。
こいつらだけはずっと俺と変わらないのだと心のどこかで無意識に深く深く信じていた。
なのに、なんだか彼らが遥か遠くの異世界へ唐突に行ってしまったような気がしてきて、彼らと一緒に過ごしたあの日々のことだけが俺の中に取り残されて、気がついたら絶望感で一杯になっていて。
結局友人ってそういうもんなのかよ。
互いの境涯とかに左右されて次第に疎遠になる場合もあると聞いていたけれども、まさか自分の方ではなくて、友人の方が変わることで彼らの方から自ずと離れていくことになろうとは全く予期していなかった。
この先、年齢を徐々に重ねていって、周りに俺の仲間なんかこれっぽちもいなくなって、ついに俺は真の孤独者となるのかもしれない。
もちろん彼女つくるだのソープにいくだの壁を破るための種々の方策は考えられるものの、自分の殻を破るリスクと孤独になるリスクとを考えたときに、自分が選んでしまうのはどうしても後者の方になる。
何故に孤独になってまで自分の殻を破りたくないのかと問われてもそれは自分でもよく分からない。変な意地でもあるのか。それとも永遠の子供でいたいのだろうか。
こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。
仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教の言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学禅研究所、1992年、108頁)
日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教とキリスト教との出会い: 根源的いのちの経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会、2003年、219頁)
即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事、実験、無神論者、唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常底のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践』筑摩書房、1967年、185-186頁)
さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。