補償問題
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「ペルー早稲田大学探検部員殺害事件」の記事における「補償問題」の解説
1998年10月15日の参議院の外交防衛委員会において、この事件の遺族に対する補償をペルーに要求すべきだとする佐藤道夫参議院議員の質問に対し、高村正彦外務大臣は「基本的には賠償の問題は当事者間の問題である」、「我が方からペルー政府に対して、政府が賠償金を払えというようなことでは基本的にはないのではないか」と答弁。日本政府としてこの事件の補償問題へ関与することに消極的な姿勢を見せた。 しかし、1999年12月14日の第146回国会参議院外交防衛委員会にて「在外邦人保護の趣旨を十分に踏まえ、外交上の適切な措置を講じ、ペルー国政府による相応の慰藉の措置が遺族に対し速やかになされるよう最善を尽くすべき」とする決議がなされた。 日本の外務省は、2000年4月8日に、ペルー政府が事件の被害者の遺族に対して、賠償金を支払って和解したことを認めた。ペルー大使館から遺族に対して示談の形で賠償金を支払う意向が示され、同意に至った。賠償額は非公表。
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補償問題
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本鉄道の経営状態は戦後廃止に至るまで1度の例外を除いて黒字決算を維持しており、日本では史上唯一黒字での軽便鉄道の廃線となった。 これは、戦後は赤穂線開業を見越して、機関換装などの気動車の改造工事以外の設備投資をほぼ完全に抑止していたことが主因であり、その一方で補償金算出を前提に帳簿上の操作で黒字を意図的に出していたとも言われるが、当鉄道の場合、会陽の特別輸送による収入が莫大なものであったのは事実であり、これが黒字決算に大きく貢献していたことは否定できない。 戦前には国鉄線が競合線として建設されたことで既存私設鉄道線が廃線となる場合、その経営状況等に応じて国から所定の廃止補償金が支払われるのが通例であったが、戦後は国鉄が公社化してこの制度が無くなり、実際にも赤穂線相生 - 播州赤穂間の開業により営業廃止となった赤穂鉄道の場合、会社が最終的に解散に追い込まれたにもかかわらず、補償金が一切支払われなかった。 赤穂線の全通に際しても、この赤穂鉄道のケースを前例として国鉄側は補償金の支払いを拒んだが、巨額の現金収入をもたらしてきた黒字路線を潰された両備バス側は当然猛反発し、路線廃止後も請願や運動を重ねて、1965年に国鉄線開業に伴う競合線廃止に係る補償申請にこぎ着け、1966年にようやくのことで補償金を得た。この際、路線撤去費用等の残務処理経費2,355万円を含む1億9,804万円の申請に対し、4割に満たない7,329万1,091円が補償金として支払われており、諸経費を除く実質的な補償額は5千万円に満たなかったことが判る。 この後、高規格な国鉄線が地方鉄道線の競合線として建設され、これに伴い当該地方鉄道が廃止に追い込まれる事例は井原線(井笠鉄道)、湖西線(江若鉄道)、そして阿佐線(土佐電気鉄道安芸線)と西日本に幾つか発生したが、これらは本鉄道の補償問題を教訓としてか、いずれも廃止線の用地を一部買収(用地買収を担当した日本鉄道建設公団は実際には必要のない用地を多数取得していた)するという形で実質的な補償金が支払われ、問題の解決が図られた。それゆえこの補償制度を利用する企業は以後1社も現れず、この制度自体も1987年4月1日の国鉄分割民営化に伴い終了した。
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補償問題
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公共事業が民営化され、そこに世界銀行などが融資を実施する場合は、政府に対して補助金や有利な税制(一定期間の税免除や建設費や運営費の税還付など)の適用などを求めた。さらに政府に対して債務保証と一定の利潤保証が求められた。コチャバンバの水道事業においてもアグアス・デル・トゥナリ社に一定の利潤が確保できることをボリビア政府が保証する条項が含まれていた。 2001年11月、アグアス・デル・トゥナリ社は、ボリビア政府の契約破棄に伴う損害賠償を求め、国際投資紛争解決センター(英語版)(ICSID)に仲裁の申し立てを行った。契約破棄で失ったとした2,500万米ドルの支払いをボリビア政府に求めた。これは、アグアス・デル・トゥナリ社の株主であったインターナショナル・ウォーター社が本社を置くオランダとボリビアとの間に締結されていた、二国間投資協定(BIT)を利用したものだった。 これに対して、CDAVなどはICSIDに対して、審理と関係文書の公開を求める要望書を提出した。またこの要望書では「世界銀行はベクテル社とボリビア政府との間の紛争に関与すべきではない。世界銀行は融資条件として水道事業民営化を強制した当事者だからである」と主張した。 2002年4月23日、オスカル・オリビエラとその支援者たちは、サンフランシスコにあるベクテル社の本社に抗議のため訪問した。オスカル・オリビエラは「2,500万米ドルあれば、12万5000人の人達に水を届けることができる」と声明を発表した。 2005年12月、ボリビア政府とアグアス・デル・トゥナリ社との間で和解が成立したことを公表した。和解では、アグアス・デル・トゥナリ社が2,500万米ドルの損失を放棄することに合意した。
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補償問題
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「只見特定地域総合開発計画」の記事における「補償問題」の解説
詳細は「田子倉ダム#田子倉ダム補償事件」を参照 只見特定地域総合開発計画では多数のダムが建設されたが、それに伴い多くの住民が住みなれた土地を永久に失うという犠牲もあった。こうした住民に対する補償問題は大なり小なり存在している。以下の表は1952年に東北電力が調査を行った只見川筋の水没対象戸数である。これら補償問題において特に紛糾したのは田子倉ダムと滝ダムであった。 河川ダム湛水面積(ha)水没戸数只見川 尾瀬原ダム 1,253 3 只見川 奥只見ダム 1,240 25 只見川 前沢ダム 467 1 只見川 田子倉ダム 920 50 只見川 滝ダム 452 210 只見川 本名ダム 171 2 只見川 上田ダム 154 10 只見川 柳津ダム 206 38 只見川 片門ダム 166 13 阿賀野川 上野尻ダム 150 8 伊南川 内川ダム 802 319 計 6,381 679 田子倉ダムの場合、ダム建設によって田子倉集落の50戸が水没することになった。この田子倉は福島県下でも生活水準が極めて高い地域であり、会津若松市よりも高かった。電話が50戸中10戸、ラジオは全戸所有していた。また進学率も高く東京大学に入学した住民もいた。こうしたことから反対運動は熾烈であり、加えて当時レッド・パージによって非合法化されていた日本共産党が思想的扇動を行うなど補償交渉は難航を極めた。この補償問題に正面から対峙したのは大竹福島県知事と電源開発田子倉建設所長の北松友義であった。大竹知事は直ちに地元に入り住民の説得に当たり、福島県議会による土地収用法による強制収用勧告にも否定的であった。こうした態度に50戸中45戸が1954年までに補償基準に妥結したが、残る5名は共産党の支援を受けながら抵抗を強めた。北松はこれら反対派5名に日参して説得に当たるが住民からは「只見川の鬼」と罵倒され、屎尿や石を投げつけられたという。 父祖伝来の地を失う5名も必死で妥協点を見出すべく大竹知事に直接掛け合い、大竹知事は電源開発が提示した補償基準での妥結を認めた。ところがこの補償金額が当時のダム補償金相場に比べ大きく上回っており、ダム事業への影響が多大だとして建設省と通商産業省が猛反発した。結局相場通りの補償額に落とさざるを得なかったが住民は再び態度を硬化。さらに全国のダム建設予定地で補償金の増額を求めて事態が紛糾するケースが相次いだ。これを「田子倉ダム補償事件」と呼ぶ。しかし住民も次第に共産党主導の反対運動に疲弊し、日本農民組合や日本社会党 福島県連に仲介を依頼。共産党に発覚しないよう極秘裏に藤井崇治電源開発総裁や福島県幹部との最終交渉が持たれ、1956年(昭和31年)7月25日に大竹知事との東京会談で最後の5戸も妥結した。この間北松は激務が祟り眼を患い退職、住民も疲弊するなど共産党による工作は地元に何の益ももたらさなかった。 一方滝ダムでも補償交渉が難航したが、特に問題となったのは「新戸」と呼ばれる住民であった。ダムによって水没する住民は177戸であったが、地元に縁もゆかりもない外来者がダム建設決定後の1957年(昭和32年)頃より補償金目当てに続々と転入し、バラック小屋を建てた。その数は65戸・84棟に及び「住民」の中には暴力団員や韓国人もいた。補償交渉は最終的に大竹福島県知事の斡旋もあって、県に一任するということで大半は決定したが「新戸」の住民は補償金の吊り上げを目論み最後まで抵抗。最終的に2戸が土地収用法による強制収用を受けた。こうした補償金目当ての「新戸」問題は北山川の七色ダム・小森ダム(三重県・和歌山県)でも問題になったが、土地収用法による規制強化によって現在は見ることがない。
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補償問題
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「シドアルジョの泥火山」の記事における「補償問題」の解説
ラピンド・ブランタス社はアブリザル・バクリ国家福祉担当調整相(当時)の親族が株式を保有しており、バクリ財閥の民間石油・ガス企業Energi Mega Persada (EMP) の子会社である。2013年時点でバクリ自身は対応に消極的であり後述するデモなどで批判されることがある。 2013年5月29日、未払いの賠償金の支払いを求める被害者らがデモを実施し、約400人が参加した。デモではゴルカル党党首でありラピンド・ブランタス社をグループ傘下に収めているバクリの対応を批判する声が上がり、参加者らはバクリに責任を果たすよう要求した。この時点で未払いの賠償金が7860億ルピアあったと報じられている。 2013年8月、インドネシアの国家人権委員会(英語版) (KOMNAS HAM) はラピンド・ブランタス社が地元住民に対し15の分野で人権侵害を行ったとして同社幹部への刑事責任の追及を求め、被害者への補償は国家予算から行うのではなく全てラピンド社が負担すべきだと主張した。 2014年、補償策を巡って閣内で意見対立が発生した。12月にジョコウィ大統領が総額3兆8300億ルピアの補償金の内約2割の支払いが未払いのため早期完済に向けて対策を検討するよう指示を出した。8日、バスキ・ハディムルヨノ(インドネシア語版)公共事業・国民住宅相は補償窓口であるミナラック・ラピンド社の資産を7810億ルピアで国有化、補償資金にあてるとの方針を発表した。だが、以前から同社救済にあてるだけの予算上の余裕はないとしていたユスフ・カラ副大統領はこれに反発した。カラ副大統領は同日8日に公的資金投入の報道を否定し、ミナラック・ラピンド社は補償金を支払う代わりに住民の土地を相場の3-4倍で買い取る補償策を行っていると非難した。2015年6月、政府はミナラック・ラピンド社に対し補償金支払いのために7810億ルピアを提供することを決定し、大統領令により年利4.8パーセントで4年以内に返済するよう規定されることになった。 2016年の『じゃかるた新聞』の報道によれば、BPLSは未払いの補償金が3.6兆ルピアあるとしている。インドネシアの英語新聞『ジャカルタ・ポスト(英語版)』によれば、補償金を支払われるべき被災地域の土地所有証明書は3331件あるが、その内86件が未払いだという。ラピンド・ブランタス社は補償金の支払いが滞っている理由として、測量結果と住民が報告する土地状況に差異があるため査定金額に対して不満が生じること、相続権や分配でトラブルになり住民側が補償金をなかなか受け取らないことを挙げている。 2016年1月、ラピンド・ブランタス社は泥流の中心から5キロメートル離れた地点で新たな坑井の掘削を開始した。カラ副大統領は政府がラピンド社に長期間にわたり資金を貸し付けていることを指摘し、政府への負債を返済するために必要なことだと見解を述べた。WALHI東ジャワ支部支部長のOny Mahardikaは災害が発生するリスクがあるとして掘削に反対した。2016年6月時点で、掘削は政府の指示により中断されている。
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補償問題
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ベトナムと韓国の国交正常化の際ベトナム側はベトナム戦争での補償などを求めないことを決めた。 一方民間では韓国軍の戦争犯罪被害者などが謝罪、補償の要求を求め裁判など活動を行っている他韓国国内も革新派メディアが被害者への補償、謝罪を求めている。しかし両国政府ともにベトナム戦争の真相究明には後ろ向きでありベトナム政府はそのような団体に調査協力を行っておらず韓国政府への補償、謝罪は不必要であると求めていない。 背景としてはベトナム政府が友好関係を害し経済的結びつきを弱めたくない以外に北ベトナムの戦争犯罪など国内の問題があるためと見られている。そもそも被害にあった人々は南ベトナムの人間であり現政府にとっては統一に貢献しなかった敵国の人間に過ぎない。そのような人々が南ベトナムからの検証などをすることで現在の体制がゆらぎかねない「反国家宣伝」と警戒している。BBCが韓国軍の戦争犯罪被害者でドキュメンタリー番組の撮影を求めた際にベトナム政府はBBCの要求を拒否した。
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補償問題
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中国側との事故に対する補償交渉は翌年1989年3月に妥結した。しかし、中国側との補償交渉は日本国の外務省が『基本的には中国と遺族との間の問題」として直接支援しなかったことや、当時の政治的問題や経済格差等のため難航した。また旅行会社からの補償は、同校の修学旅行はいわゆるツアー(企画旅行)ではなく、学校側の提案による手配旅行であり、法律上の補償義務はないとして別途かけていた海外旅行保険の給付しか行わなかった。また学校側と遺族との軋轢も後々まで残った。 当時の日中友好ムードが障壁になったとの指摘もある。当初から物価水準が異なるために賠償金が低いことが指摘されていた。中国側は、中国人遺族との賠償金の差が中国政府の批判へと発展することを懸念した。日本側との補償交渉の席で、中国側は日中友好と云う言葉を何度もしきりに使いながら、精一杯の努力をしたとして決着に持ち込んだという。 1988年8月に訪中した竹下登首相(当時)に対し、中国の李鵬首相が「国情の違いを理解してほしい」と、日本並みの補償はできないとする基本的立場を伝えた。日本側が民事問題としている補償問題に対して、中国政府は介入する態度を示していた。このような対応に対し、当時の運輸大臣だった石原慎太郎は「被災者側弁護士によると中国は中国の示した条件で打ち切るといっているらしい」「これでは日本における中国の印象も悪くなる」と指摘した。東京にあった旧満州国の不動産売却によって中国政府が売却益を上げていることを引き合いに出し、そこから補償金にまわすべきだと述べた。 このような事情もあったことで、補償額の日中間の開きは大きく、第一回に東京で行われた交渉では、日本側は5000万円前後を示したが、中国側は一律31,500人民元(当時のレートで約110万円)であったという。第二回に上海で行われた交渉では、日本側も2100万円に引き下げたが、それに対する回答は220万円であった。この金額は1988年1月に重慶郊外で墜落した中国西南航空機事故で犠牲になった日本人技術者3人に対して提示された金額と同じであった。そのため中国側は、双方の事故補償とも同じ事故水準で解決しようとしていた。結局、中国側とは1989年2月26日に補償条件を受諾したが、その金額は未公表であるが、400~550万円の間、おそらくその中間であったとされている。この最大額550万円は前述の重慶の事故の犠牲者の補償額である。日本国外で発生した事故で犠牲になった日本人に対する補償金としては、一切なしという事例もあるため、支払額は極端に低いものではないが、充分な補償ではなかった。 一方、学校側は1988年12月27日に「事故の法律的責任はない」とする通知を遺族に送付し、学校が支払うのは見舞金200万円を含め800万円とした。別途に学校に全国から寄せられた義捐金約2億7000万円を分配し、一人当たり800万円を支払うとした。また日本体育・学校健康センター基金から災害共済給付金として一律1400万円が支給された。これらを合わせて、学校側は3000万円弱を支払った。 旅行保険も含め、犠牲になった生徒の遺族に支給された金銭補償は4000万円前後である。同時期に高校で発生した事件や事故の補償と比較すると、その金額はやや低かった。 前述のように学校側の不誠実な対応に不信感を募らせた遺族のうち、4遺族が不可解な旅行目的や無理な日程、事故後の対応など、学校側に法的責任があったとして、旅行会社まかせで旅行行程の下見をしていなかったことや遺族に対する誠意の欠如などを理由に高知地裁に民事訴訟を提起した。この訴訟は、1994年に旅行の下見が校長夫妻が修学旅行コースとは異なる観光地をパック旅行しただけという杜撰な面があったと指摘しつつも「事故の予見可能性はなかった」として、原告敗訴の判決が言い渡された。遺族側は控訴を断念したため確定した。
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補償問題
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「北上特定地域総合開発計画」の記事における「補償問題」の解説
ダムを建設することで、そこに住む住民は移転を余儀無くされる。これは避けえないことだが北上川水系の場合は特に補償問題が大規模な例が見られた。田瀬ダムでは一旦移転した住民に対し、事業中止中に農地開墾のために帰村を認めたことから二度にわたる補償交渉が行われた。この「再補償」は田瀬ダムでしか見られなかった特色ある事柄であった。湯田ダムでは水没世帯数が622世帯と、多摩川の小河内ダム(奥多摩湖)における945世帯に次ぐ日本第二位の水没世帯数であった。このため全国的にも注目された補償交渉となり、最終的には1956年(昭和31年)「湯田ダム水没者更生大綱」を発表してインフラ完全整備の代替地を整備して交渉は妥結した。また国道107号や国鉄北上線の大規模付け替えといった公共補償も行われ、後のダム補償の先駆となった。御所ダムでは湯田ダムに次ぐ522世帯が水没対象となったが、盛岡市街に近く大規模住宅地が水没することで反対運動は激しく、1973年(昭和48年)に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)による補償基準を厚くすることで最終的には妥結したものの、結果五大ダムで最も完成が遅くなった。水特法については胆沢ダム・長沼ダムも対象となっている。宮城県の花山ダムでは交渉中に当局がダム建設の前段階に着手、これにより当初融和的であった住民がダムに強硬に反対する事態となった。一関遊水地では450戸が移転対象となるため反対運動が強く、これも長期にわたる補償交渉が行われた。 だが、このダム建設により新たな観光地が誕生したことも事実である。御所ダムでは周辺整備に力を入れ湖畔に繋温泉郷を整備、周辺にある小岩井農場やスキー場などの観光地と連携し人造湖である御所湖の公園整備やダム湖の一般開放を行った。この結果国土交通省が管理するダム湖としては最も年間利用者数が多い観光地に成長した。田瀬ダムではダム湖(田瀬湖)をボート競技の漕艇場としてヨットハーバーを整備、インターハイの会場となったのを始め市民やカヌー選手が多く利用している。長沼ダムではそれ自体がダムの目的になった。湯田ダムでは人造湖である錦秋湖を利用し花火大会やマラソン大会を実施、さらにダムの中を歩くことが出来る湯田貯砂ダムを建設。駅の中に温泉があるほっとゆだ駅など温泉街とのコラボレーションを進めた。これらは1994年(平成6年)から建設省が進めた「地域に開かれたダム事業」の一環であり、水源地域の活性化を目指すものであった。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが認定するダム湖百選に、御所湖・田瀬湖・錦秋湖は選ばれている。 だが、北上川の治水・利水が達成されたその陰で、多くの住民が住みなれた故郷を離れたという苦渋の決断をしたという事実を、受益者が忘れないということも必要である。
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補償問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:13 UTC 版)
大川ダム建設に伴って下郷町の49世帯が水没することとなった。このため補償交渉は1973年の調査開始以来難航を極めた。建設省は大川ダムの補償交渉を円滑に進めるため、1977年(昭和52年)3月23日に水源地域対策特別措置法の対象ダムに指定した。この法律は蜂の巣城紛争以後、水没する地域住民と自治体の活性化と生活再建・支援を目的に1973年制定されたものである。大川ダムにおいても生活再建のための補償金嵩上げや就職・転職斡旋、周辺地域の道路整備やインフラストラクチャー整備(産業振興・医療福祉・水道・通信・コミュニティ施設など)を行った。この結果補償交渉も妥結した。 これに加えて、下郷発電所や大川発電所建設に伴い、発電所立地地域への発電利益還元を十分に行うため1974年(昭和49年)に制定された「電源三法」に伴う地域支援も同時に実施された。「電源三法」は電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法・発電用施設周辺地域整備法の総称であるが、大川ダムの場合は発電用施設周辺地域整備法の指定対象となった。これにより1,000kWh当り445円の電源開発促進税が電源開発と東北電力両社に課税され、この税金を財源に下郷町などの地域に周辺整備のための財源として宛がわれた。下郷発電所だけでも年間80億kWhの発電を行うため、莫大な補助が行われた。 ダム建設によって地域住民は住み慣れた故郷を失うという苦渋の決断を行ったが、こうした地域支援策によって新しい一歩を踏み出した。さらにこうした地域へのアフターケアを行うため、運転開始後15年を経過した発電所の立地地域に対する同様の財政支援を行うため、1981年(昭和56年)には水力発電施設周辺地域交付金制度が策定された。下郷・大川両発電所は運転開始後15年以上経過しているので、この制度の対象である。
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