只見川
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 08:50 UTC 版)
「只見特定地域総合開発計画」の記事における「只見川」の解説
計画が策定された後最初に完成したのは沼沢沼発電所であった。戦前から計画されていたこの発電所は日本発送電の宮下発電所建設によって一旦中止された。だが戦後の1949年1月より再開され、東北電力に継承後1952年11月28日より発電が開始された。沼沢沼発電所はカルデラ湖である沼沢湖を上部調整池、既設宮下ダムを下部調整池として最大4万3600キロワットを発電する。当時揚水発電としては日本最大、世界でも屈指の揚水発電所と呼ばれた。 沼沢沼発電所に続いて宮下ダムの下流に柳津ダム・柳津発電所(出力5万キロワット)が1年6ヶ月という突貫工事で1952年完成。同時に建設が開始された只見川最下流部の片門ダム・片門発電所(出力3万8000キロワット)がやや遅れて1953年6月に運転を開始した。水利権で東京電力と係争した本名ダム・本名発電所(出力7万8000キロワット)は1954年6月より一部運転を開始し、1959年(昭和34年)からは全出力運転を開始した。本名発電所は東北電力が管理する只見川流域の一般水力発電所の中では完成当時最大の出力を誇った。上田ダム・上田発電所(出力6万3900キロワット)は1954年3月より運転を開始し、1960年(昭和35年)に発電機を増設して現在の出力になった。その後宮下・柳津・片門の各発電所は出力を増強している。 電源開発が担当した只見川上流部ではまず田子倉ダムが先陣を切った。事業着手後補償問題を経て1955年(昭和30年)にダム本体の工事に着手し1959年には貯水を開始。段階的に発電能力を増強しながら工事を進め、1961年11月に全事業を完成させた。出力38万キロワットは近年まで日本最大の出力を誇る一般水力発電所であった。続いて田子倉ダム下流16キロメートルの地点に滝ダム・滝発電所(出力9万2000キロワット)を1959年7月に着工、田子倉発電所が放流する水を貯水して下流の水量を一定に保つ逆調整池としての機能を持ち1961年12月完成した。そして只見川最大の奥只見ダムは厳しい自然と闘いながら1953年より工事を開始、奥只見シルバーラインなどの輸送用道路建設に続いて本体工事に着手。1962年(昭和37年)6月9日完成した。出力36万キロワットは田子倉発電所に次ぐ日本第二位の規模を誇る発電所であった。続いて着手されたのは奥只見ダム直下流に建設された大鳥ダム・大鳥発電所(出力9万5000キロワット)で、当初の計画にあった前沢ダムの規模を大幅に縮小した形で建設され、1964年(昭和39年)12月に完成した。 最後に着手されたのが大津岐(おおつまた)発電所(出力3万8000キロワット)で、当初は尾瀬原ダムから放流される河水が下流に影響するのを抑制するための逆調整池として、またOCIの勧告で将来尾瀬原ダムが大規模に再開発された後は揚水発電の下部調整池として只見川本流の白戸川合流点付近、尾瀬と奥只見ダムの中間に建設される予定の大津岐ダムよりトンネルで導水して発電後、奥只見湖に注ぐ支流・大津岐川に放流するという計画であった。しかし尾瀬原ダム建設に対する反対運動激化によって単独での開発に変更され、ダム地点を大津岐川に移動させて1965年(昭和40年)より工事を開始し1967年(昭和43年)12月に運転を開始した。当初重力式であった大津岐ダムは建設変更地点の岩盤が堅固でなかったことや資材運搬コストが高いことなどからロックフィルダムへ型式を変更。コスト縮減の合理化を目的にアスファルトをダム上流部に敷いて水を遮る、「アスファルトフェイシングフィルダム」と呼ばれる型式を日本で初めて採用したことが特徴である。 ここに只見特定地域総合開発計画に基づき計画された水力発電事業は一応の終結を見た。しかし奥只見ダムでは117名、田子倉ダムでは43名と労働災害によって殉職した従事者も多く、厳しい自然と険阻な峡谷という悪条件の中で首都圏と東北地方の電力供給のために命を散らした人がいたことも、忘れることの出来ない事実である。
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