弁護士に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:20 UTC 版)
「マハトマ・ガンディー」の記事における「弁護士に」の解説
1888年にロンドンで、インドの宗教思想を取り入れた神秘思想結社・神智学協会の会員と出会い、さらに神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーや2代目会長のアニー・ベサントにも会い、インド哲学・ヒンドゥー教の精神と文化に興味を持つようになった。ガンディーは、当時のヨーロッパでインド哲学(ヒンドゥー教)の要と考えられていたインドの宗教的叙事詩『バガヴァッド・ギーター』を、サンスクリット語でもグジャラート語でも読んだことがなかったが、神智学協会員との出会いがきっかけとなり、神智学協会版テキストで『バガヴァット・ギーター』を読み、英語を通じてインドの伝統を学ぶようになった。 卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、イギリス紳士としてふるまったが列車の車掌にクーリー(人夫)扱いされるという人種差別を体験した。ここから「インド人」意識に劇的に目覚めたといわれるが、Richard G. Foxによると、ガンディーはしばらくの間従来通りのイギリス化の方向性を保ち、その後インド意識に目覚めていったようである。 南アフリカでも神智学協会とのつながりは続き、理解の浅かったヒンドゥー教・インド哲学への学びを深め、インド・ナショナリズムを展開する中で、ヒンドゥー教・インド哲学をインドの精神的支柱として崇めるようになっていった。欧米を通じて自国の文化を学ぶというのは植民地エリートの典型であり、ガンディーがインドの偉大な遺産としてヒンドゥー教・インド哲学を再発見するのに神智学が果たした役目は大きい。また1880年代以降、ロシアの小説家レフ・トルストイの影響を受けていた。『新約聖書』の「山上の垂訓」などイエスの思想にも洞察を深め、「非所有」の生涯を決意。後の非暴力運動思想を形成していった。 20世紀初頭には、南アフリカ連邦となり、1913年に原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。 1908年に初めて逮捕された。その後、1913年にトランスバールの行進を企画して初めて投獄された。しかし、不正を追及して撤廃させ、初めて勝利を手にした。 ダーバン近郊でアーシュラマ共同農園を創設。そこで、禁欲、断食、清貧、純潔を実践して精神面を強化し、イギリスからの独立を展望している。南アフリカでの経験は、1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。
※この「弁護士に」の解説は、「マハトマ・ガンディー」の解説の一部です。
「弁護士に」を含む「マハトマ・ガンディー」の記事については、「マハトマ・ガンディー」の概要を参照ください。
- 弁護士にのページへのリンク