金剛峯寺
壇上伽藍(壇場伽藍)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:06 UTC 版)
空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である。曼荼羅の道場の意 の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い。空海が高野山を開創し、真っ先に整備に着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北の中心線上に南から中門、講堂(現、金堂)、僧房が配置され、また真言密教の根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界を象徴する塔を、僧房を挟み、東に大塔(胎蔵界)、西に西塔(金剛界)を相対させて建立し、伽藍配置によって密教空間を創り出そうとしたものである。実際に空海が計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的、地理的要因などにより空海が入定してから52年後の887年(仁和3年)となった。 壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、奥之院(後述)とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり、右遶(うにょう)という正式な参拝方法があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する。 手水舎 - 各堂宇を参拝する前に、手、口を清める。 御供所 - 伽藍の納経を拝受できる。 以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺が推奨する参拝順に記載する。 中門(ちゅうもん) - 弘仁10年(819年)創建。天保14年(1843年)に焼失後172年ぶりの再建で、高野山開創1200年記念事業として、2015年(平成27年)4月2日落慶、旧・中門には、持国天・多聞天(江戸時代末期の作)が安置されていたが難をのがれ、根本大塔内に保管されていたものを、仏師松本明慶が修理をし、さらに、増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った。再建された中門は、元の位置より金堂寄りに建てられていて、元の中門の礎石が今も残り、見ることができる。 金堂(こんどう) - 高野山の総本堂。初代の堂は大師により弘仁10年(819年)から造営し承和5年(838年)に完成したと伝わる。6代目の堂は萬延元年(1860年)に再建されたが66年後の1926年(昭和元年)12月26日未明に、創建当初のものと云わる本尊と6体の仏像(金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像)と共に焼失した。本尊の像名は薬師如来とされてきたが、焼失した旧本尊も、現在の金堂再建時に新造された高村光雲作の丈六の新本尊も、公開されたことのない秘仏であったため、阿閦如来とする説もあり、新本尊が高野山開創1200年を記念して2015年(平成27年)4月2日から5月21日まで初めて開帳された のを機に、両者は同体で像容は阿閦如来であるが、像名は薬師如来とされた。なお、現在の7代目の堂は1932年(昭和7年)に落慶され、耐震、耐火の鉄筋コンクリート造で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観で、屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m。内陣・外陣壁面の仏画は木村武山の筆で、「八供養菩薩像」(下記参照)、「釈迦成道驚覚開示の図」が、壁面腰下には「散華」が描かれている。平清盛の血を混ぜて描いたと伝わる両界曼荼羅図(血曼荼羅)が保元元年(1156年)に金堂に奉納されたが(現在、霊宝館にて所蔵(重要文化財の項で詳述))、高野山開創1200年記念事業として凸版印刷と金剛峯寺がプロジェクトチームを組み約8年の歳月をかけ、デジタル技術を駆使して当時の色彩や輪郭を忠実に再現した複製版を作成し、2015年(平成27年)に奉納開眼法会が行われ、金堂内に縦横約4メートルの原寸大の2幅の複製と、縦横約2メートルの縮小版2幅が掲げられている。八供養菩薩 - 金剛界曼荼羅で、成身会(じょうじんね) (羯磨会(かつまえ)ともいう)で、大日如来が四方の如来を供養するために現出した内四供養菩薩と、その逆に四方の如来が大日如来を供養するために現出した外四供養菩薩を合わせた八尊の供養菩薩のこと。 八供養菩薩一覧八供養菩薩 内四供養菩薩 金剛嬉菩薩 金剛鬘菩薩 金剛歌菩薩 金剛舞菩薩 外四供養菩薩 金剛焼香菩薩 金剛華菩薩 金剛燈菩薩 金剛塗香菩薩 登天(とうてん)の松と杓子の芝 - 壇上伽藍の北側の明王院の平安時代の高僧・如法上人が久安5年(1149年)に、この松の木より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたと伝わる。斎食の用意をしていた弟子が、師匠が登天するのを見、後を追って昇天したが、その時、弟子が手に持っていた杓子が、昇天の途中に落ち、当時、松の周辺に生い茂っていた芝に杓子が墜ちてきたことから杓子の芝とよばれている。 六角経蔵(ろっかくきょうぞう) - 1934年再建。鳥羽法皇の菩提を弔うため、皇后の美福門院得子が1159年に創建し、紺紙に金泥で浄写した紺紙金泥一切経を1000巻納めるとともに紀伊国荒川荘を寄進した。そのため、別名荒川経蔵と呼ばれ、一切経は荒川経または美福院経と呼ばれる。重要文化財の一切経は霊宝館に移されたが、写しが納められている。基壇は円形で上部に基壇と同じ円形の把手がついた幅20cmほどの枠があり、把手を押すことで基壇に沿って回すことができ、一回転すれば一切経を一通り称えたのと同じ功徳が得られるとされる。 御社(みやしろ)(重要文化財) - 明神社 で1522年の再建、重要文化財指定名称は「山王院本殿」である。弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている。高野山開創の伝承にあるが、高野山一帯は丹生(にう)明神の神領であり、弘法大師が密教を広めるには、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力になる。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも大切にされている。 社殿は三つあり、一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神(狩場明神)・厳島明神、総社は十二王子・百二十伴神がまつられ、一ノ宮とノ二宮の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)であり、いずれも檜皮葺の屋根で仕上げられている。 山王院(さんのういん) - 承安4年(1174年)以前の創建で1845年再建、御社(明神社)の拝殿として建てられた。両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、桁行21.3メートル、梁間7.8メートル。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味。堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられている。同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われている。 西塔(さいとう) - 空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い創建され、空海が構想した大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔と西塔を二基一対として建立され、後述する根本大塔の本尊が胎蔵界大日如来であるのに対し、金剛界大日如来像と江戸時代作で胎蔵界四仏の宝幢如来・開敷華王如来・無量寿如来・天鼓雷音如来 を安置する。仁和3年(887年)初代塔建立、現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建で擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で屋根は本瓦型銅板葺である。高さ27.27m。再建にあたり、西塔近くの正智院住職が二十数年、三代におよび私財をなげうち勧進をしたと伝わる。 孔雀堂(くじゃくどう) - 1200年初代建立、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として1983年(昭和58年)再建。後鳥羽法皇の御願による神泉苑での請雨祈願が成就したことにより奉納された堂。本尊の快慶作の孔雀明王像(重要文化財)は霊宝館に移され、当堂には新しく造られた像が安置された。 逆指しの藤 - 寺伝によると、平安時代に高野山再興に着手した定誉(祈親)(平安・鎌倉時代で記述)が、高野山の再興を誓い「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えると、不思議と芽生え、それとともに高野山の再興の兆しが見え始めたと伝わる。 准胝堂(じゅんていどう) - 光孝天皇の御願により第二世真然大徳が973年ごろ創建、現在の堂は1883年(明治16年)再建。本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わり、当初、食堂に安置していたが当堂を創建後に移したと伝わる。 御影堂(みえどう) - 大師の持仏堂として創建され、天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建、梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺。空海の弟子の真如親王筆とされる弘法大師御影を本尊とし、外陣には空海十大弟子の肖像が掲げられている。堂の背後には、土蔵造りの御影堂宝蔵があり、かつては数々の霊宝や貴重な文書を保管する金庫や宝物庫としての重要な役割を果たした。毎年、空海が入定した旧暦の3月21日に旧正御影供が行われ、前夜の御逮夜法会(おたいやほうえ)のときのみ一般の外陣参拝が許される。御逮夜法会では宗教舞踏の奉納や、御影堂まわり一面にロウソクと花が供えられる。 三鈷の松(さんこのまつ) - 金堂と御影堂の間にある三葉の松。松の根が参拝者に踏まれないよう二重の柵で囲まれ、赤松と一緒に植栽されている。松は単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)に中国・寧波の浜から「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した。空海の霊跡とされる。この松葉は、三鈷杵と同じく三股に別れている。現在の「三鈷の松」は七代目で、平成期に植え替えられた。枯れのときのために同じ株から分けた松を別に育成している。松は常緑樹が多いが、高野山の「三鈷の松」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」の象徴される。落葉した三葉の松葉は黄金色をしており、身につけていると「金運」を招く縁起物として、また、「飛行三鈷杵」の霊験にあやかるため、「お守り」とするために探し求める参拝者もいる。 根本大塔(こんぽんだいとう) - 真言密教の根本道場(修行の中心地)として高野山開創当初から着工され、887年に日本最初の多宝塔として完成した高野山のシンボルである。「性霊集」に、根本大塔と西塔が二基一対として建立されたことが書かれている。何度かの焼失の後、現在の塔は1937年(昭和12年)に空海入定1100年を記念して再建したもので1階平面が方形・2階平面が円形の鉄筋コンクリート造の16間(約30m)四面・高さ16丈(約50m)の2層の多宝塔である。中尊は、丈六の胎蔵大日如来坐像、その中尊を取り囲むように、四方に金剛界四仏の、阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の4如来を安置し、本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは「金胎不二(こんたいふに)」の教えで、両者は不二一体である(根本的には1つ)という空海の思想を表したもので、堂内そのものが立体曼荼羅となっている。(「金剛界」等の密教用語については別項「両界曼荼羅」を参照)。また塔内の柱16本には、十六大菩薩画像、壁面には真言八祖画像が堂本印象画伯によって描かれている。そして内部正面の梁には昭和天皇宸筆の勅額「弘法」が掲げられている。高野山開創1200年記念大法会事業で、2015年(平成27年)5月12日から17日まで、根本大塔を背景にし『南無大師遍照金剛』をテーマとし、プロジェクションマッピングとレーザーによる光の饗宴が行われた。 根本大塔内立体曼荼羅:如来、菩薩、八祖一覧中尊 胎蔵界 大日如来 中尊を囲む四仏 金剛界 阿閦如来 宝生如来 阿弥陀如来 不空成就如来 堂内の柱に描かれた菩薩 十六大菩薩 東方四菩薩 金剛薩埵菩薩 金剛王菩薩 金剛愛菩薩 金剛喜菩薩 南方四菩薩 金剛宝菩薩 金剛光菩薩 金剛幢菩薩 金剛笑菩薩 西方四菩薩 金剛法菩薩 金剛利菩薩 金剛因菩薩 金剛語菩薩 北方四菩薩 金剛業菩薩 金剛護菩薩 金剛牙菩薩 金剛拳菩薩 壁面に描かれた真言八祖 伝持の八祖 龍猛 龍智 金剛智 不空 善無畏 一行 恵果 空海 対面桜 - 寺伝によると、もとは大塔前、金堂の東辺りに桜があったと伝わる。平安時代に大塔が落雷で焼失し再建の折、平清盛が「修造奉行」として任命され、大塔が再建された。修造が完了し、清盛が大塔を参拝した折に桜の樹前に老僧が現れ「大塔が修造されたことはめでたいことだ‐中略‐ただし、悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望が叶うことはないだろう」と説いたのち、姿が消えた。清盛は、その老僧が大師だと悟り、その桜の樹を「対面桜」または「影向桜(ようごうざくら)」と呼ぶようになったと伝わる。 大塔の鐘 - 大師発願で二世真然の代に完成。現在の鐘は日本で四番目に大きな鐘であることから「高野四郎」と呼ばれ、1547年に鋳造され約6トン直径7尺である。1日5回、計108回突かれる。鐘楼は鉄筋コンクリート製。 登天の松 六角経蔵(荒川経蔵) 御社(重要文化財) 山王院 鐘楼 孔雀堂 准胝堂 三鈷の松 大塔の鐘(高野四郎) 御供所(納経所) 高野山開創1200年記念大法会で大塔で行われたプロジェクションマッピング 高野山開創1200年記念大法会で大塔で行われたプロジェクションマッピング 愛染堂(あいぜんどう) - 建武元年(1334年)に初代建立、現在の堂は1848年(嘉永元年)再建。後醍醐天皇の勅願により四海静平、玉体安穏(天下泰平)を祈念のため創建。本尊は後醍醐天皇と等身とされる愛染明王。 不動堂(ふどうどう)(国宝) - 建久8年(1197年)上皇の皇女八條女院内親王の発願により行勝上人が創建。現在の堂は14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物。高野山内の一心院谷から、1908年(明治41年)に現在地に移築された。桧皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の住宅風仏堂である。当初は阿弥陀堂であったと推定されるが、後に本尊の不動明王(重要文化財)と運慶作の八大童子像(国宝)が奉安され、現在いずれも霊宝館に移されている。堂の四隅の形状がそれぞれ違い、四隅それぞれを四人の工匠が随意に造ったためと伝わる。近年の解体修理報告書によると元来、僧侶が臨終を迎えるための堂だったとの説がある。屋根が桧皮葺のため境内で火災が発生した場合、類焼しやすいため屋根にドレンチャーを設置し、バルブを開けると桧皮葺屋根がドレンチャーからの水膜で覆われるようになっている。高野山内では、檀上伽藍の御影堂、徳川家霊台の2棟、奥の院の経蔵、金剛三昧院の多宝塔など計6棟に、地上に放水銃を設置しているが、屋根にドレンチャーを設けているのは不動堂だけである。 勧学院(かんがくいん) - 子院・塔頭で後述 蓮池(はすいけ) - 名の由来は、昭和の頃まで蓮の花が咲き誇っていたため。明和年間(1764年 - 1772年)に度々の干ばつで民衆が苦しんでいたため、明和8年(1771年)頃、善女竜王像と仏舎利を池の中島の祠に祀ったと伝わる。1996年(平成8年)橋と祠を修復。 大会堂(だいえどう) - 安元元年(1175年)鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子内親王が父の追福のため創建。もとは東別所にあったが西行法師が、長日不断談義の学堂として現在地に移し蓮華乗院と称していた。後に法会の集会堂になり、現在の堂は嘉永元年(1848年)再建。本尊は阿弥陀如来。 三昧堂(さんまいどう) - 延長7年(929年)初代創建、もとは総持院境内にあったが、治承元年(1177年)西行法師が現在地に移した。現在の堂は文化13年(1816年)再建。金剛峯寺座主済高が創建し、堂内で理趣三昧の法要を行っていたことから、この名がついた。堂前の桜は、西行法師手植の桜と伝わるが元の桜は枯れ、植え替えられ、現在も西行桜とよばれている。 東塔(とうとう) - 大治2年(1127年)初代創建、尊勝仏頂尊と不動明王・降三世明王を祀る。弘法大師入定1150年御遠忌記念事業で1984年再建。白河上皇の御願により醍醐寺三宝院勝覚権僧正が創建。 智泉廟(ちせんびょう) - 空海の甥の智泉大徳(789年 - 825年)の廟。37歳の若さで亡くなり、空海が築いたと伝わる。 蛇腹道(じゃばらみち) - 名の由来は、空海が高野山を龍が東西に伏せるが如くとたとえ、この道が龍の腹付近に相当することによる。地主の明神様が弓矢の稽古をしているため、真ん中を歩いてはいけないとの伝説が伝わる。秋には紅葉で覆われ観光客で賑わう。 六時の鐘 - 大伽藍を出てすぐにあり、午前6時から午後10時の偶数時に鳴らされる。元和4年(1618年)福島正則により建立されるも焼失、寛永7年(1640年)その子・正利により再建され、鐘銘は通常、漢字で書かれるが、仮名まじり文である。 蓮池 愛染堂 大会堂 三昧堂 東塔 智泉廟 手水舎 蛇腹道 秋の蛇腹道
※この「壇上伽藍(壇場伽藍)」の解説は、「金剛峯寺」の解説の一部です。
「壇上伽藍(壇場伽藍)」を含む「金剛峯寺」の記事については、「金剛峯寺」の概要を参照ください。
- 壇上伽藍のページへのリンク