壇上伽藍とは? わかりやすく解説

金剛峯寺

(壇上伽藍 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/11 23:11 UTC 版)

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。




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壇上伽藍(壇場伽藍)

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金剛峯寺」の記事における「壇上伽藍(壇場伽藍)」の解説

空海高野山開創たさいに二重の結界張り密教思想に基づく堂宇建立めざした場所である。曼荼羅道場の意 の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳僧侶集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍壇場伽藍であるが、一段高土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い。空海高野山開創し、真っ先整備着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北中心線上に南から中門講堂(現、金堂)、僧房配置され、また真言密教根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界象徴する塔を、僧房挟み、東に大塔胎蔵界)、西に西塔金剛界)を相対させて建立し伽藍配置によって密教空間を創り出そうしたものである。実際に空海計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的地理的要因などにより空海入定してから52年後の887年仁和3年となった。 壇上伽藍は、高野山内の西寄り位置し金堂根本大塔西塔御影堂などの立ち並び境内地にあたる場所で、奥之院後述とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分江戸時代後期から昭和時代再建であるが、現在も真言密教道場として高野山中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり右遶うにょう)という正式な参拝方法があり、それにならって概ね以下の順番堂宇紹介する手水舎 - 各堂宇参拝する前に、手、口を清める御供所 - 伽藍納経拝受できる。 以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺推奨する参拝順に記載する中門ちゅうもん) - 弘仁10年819年創建天保14年1843年)に焼失172年ぶりの再建で、高野山開創1200年記念事業として、2015年平成27年4月2日落慶、旧・中門には、持国天多聞天江戸時代末期の作)が安置されていたが難をのがれ、根本大塔内に保管されいたものを、仏師松本明慶修理をし、さらに、増長天広目天像も新造して四天王像安置する四天門として甦った。再建され中門は、元の位置より金寄り建てられていて、元の中門礎石が今も残り、見ることができる。 金堂こんどう) - 高野山の総本堂初代の堂は大師により弘仁10年819年)から造営し承和5年838年)に完成したと伝わる。6代目の堂は萬延元年1860年)に再建されたが66年後の1926年昭和元年12月26日未明に、創建当初のものと云わる本尊と6体の仏像金剛薩埵坐像金剛菩薩坐像不動明王坐像降三世明王立像普賢延命菩薩坐像虚空蔵菩薩坐像と共に焼失した本尊の像名は薬師如来とされてきたが、焼失した旧本尊も、現在の金堂再建時に新造された高村光雲作の丈六新本尊も、公開されたことのない秘仏であったため、阿閦如来とする説もあり、新本尊高野山開創1200年記念して2015年平成27年4月2日から5月21日まで初め開帳された のを機に両者同体像容阿閦如来であるが、像名は薬師如来とされた。なお、現在の7代目の堂は1932年昭和7年)に落慶され、耐震耐火鉄筋コンクリート造外部材を貼り付けた木造建築外観で、屋根入母屋造梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m。内陣外陣壁面仏画木村武山の筆で、「八供養菩薩像」(下記参照)、「釈迦成道驚覚開示の図」が、壁面腰下には「散華」が描かれている。平清盛の血を混ぜて描いたと伝わる両界曼荼羅図(血曼荼羅)が保元元年1156年)に金堂奉納されたが(現在、霊宝館にて所蔵重要文化財の項で詳述))、高野山開創1200年記念事業として凸版印刷と金峯寺プロジェクトチーム組み8年歳月をかけ、デジタル技術駆使して当時色彩輪郭忠実に再現した複製版を作成し2015年平成27年)に奉納開眼法会が行われ、金堂内に縦横約4メートル原寸大の2幅の複製と、縦横約2メートル縮小版2幅が掲げられている。八供養菩薩 - 金剛界曼荼羅で、成身会(じょうじんね) (羯磨会(かつまえ)ともいう)で、大日如来四方如来供養するために現出した内四供養菩薩と、その逆に四方如来大日如来供養するために現出した外四供養菩薩合わせた八尊の供養菩薩のこと。 八供養菩薩一覧八供養菩薩 内四供養菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛歌菩薩 金剛菩薩 外四供養菩薩 金剛焼香菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛塗香菩薩 登天(とうてん)の杓子 - 壇上伽藍の北側明王院平安時代高僧如法上人久安5年1149年)に、この松の木より弥勒菩薩浄土へと昇天されたと伝わる。斎食用意をしていた弟子が、師匠が登天するのを見、後を追って昇天したが、その時弟子が手に持っていた杓子が、昇天途中落ち当時周辺生い茂っていた杓子が墜ちてきたことから杓子よばれている。 六角経蔵ろっかくきょうぞう) - 1934年再建鳥羽法皇菩提を弔うため、皇后美福門院得子が1159年創建し紺紙金泥浄写した紺紙金泥一切経1000巻納めるとともに紀伊国荒川荘寄進した。そのため、別名荒川経蔵呼ばれ一切経荒川経または美福院経と呼ばれる重要文化財一切経霊宝館に移されたが、写し納められている。基壇円形上部基壇と同じ円形把手がついた幅20cmほどのがあり、把手を押すことで基壇沿って回すことができ、一回転すれば一切経一通り称えたのと同じ功徳得られるとされる御社(みやしろ)(重要文化財) - 明神社1522年再建重要文化財指定名称は「山王院本殿」である。弘法大師弘仁10年819年)に山麓丹生都比売神社天野社)から地主神として勧請高野山鎮守としている。高野山開創伝承にあるが、高野山一帯丹生(にう)明神神領であり、弘法大師密教広めるには、日本地元神々によってその教え尊ばれ守られるとする思想打ち出し神仏習合思想大きな原動力になる。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも大切にされている。 社殿三つあり、一ノ宮丹生明神気比明神二ノ宮高野明神狩場明神)・厳島明神総社十二王子・百二十伴神がまつられ一ノ宮とノ二宮構造形式春日造で、総社三間社見世棚造さんげんしゃながれみせだなづくり)であり、いずれも檜皮葺屋根仕上げられている。 山王院(さんのういん) - 承安4年1174年以前創建1845年再建御社明神社)の拝殿として建てられた。両側面向拝付入母屋造りりょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、桁行21.3メートル梁間7.8メートル山王院とは地主の神山王として礼拝する場所の意味。堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事問答が行われ、高野山鎮守たる明神みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として捧げられている。同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われている。 西塔さいとう) - 空海伽藍建立計画の『御図記』に従い創建され、空海構想した大日如来密教世界具体的に表現する法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔西塔を二基一対として建立され後述する根本大塔本尊胎蔵界大日如来であるのに対し金剛界大日如来像と江戸時代作で胎蔵界四仏宝幢如来開敷華王如来無量寿如来天鼓雷音如来安置する仁和3年887年初代建立現在の塔5代目天保5年1834年)の再建擬宝珠(ぎぼし)高欄多宝塔屋根本瓦銅板葺である。高さ27.27m。再建にあたり西塔近く正智院住職二十数年三代におよび私財をなげうち勧進をしたと伝わる。 孔雀堂(くじゃくどう) - 1200年初代建立弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として1983年昭和58年再建。後鳥羽法皇御願による神泉苑での請雨祈願成就したことにより奉納された堂。本尊快慶作の孔雀明王像(重要文化財)は霊宝館に移され、当堂には新しく造られた像が安置された。 逆指し藤 - 寺伝によると、平安時代高野山再興着手した定誉(祈親)(平安鎌倉時代記述)が、高野山再興誓い願掛け」として地面逆さに植えると、不思議芽生え、それとともに高野山再興兆し見え始めたと伝わる。 准胝堂(じゅんていどう) - 光孝天皇御願により第二真然大徳973年ごろ創建現在の堂は1883年明治16年再建本尊准胝観音准胝仏母)で、空海出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わり当初食堂安置していたが当堂を創建後移したと伝わる。 御影堂(みえどう) - 大師持仏堂として創建され、天保14年1843年)の大火消失し弘化4年1847年再建梁間15.1mの向背宝形造檜皮葺空海弟子真如親王とされる弘法大師御影本尊とし、外陣には空海十大弟子肖像掲げられている。堂の背後には、土蔵造り御影堂宝蔵あり、かつては数々霊宝貴重な文書保管する金庫宝物庫としての重要な役割果たした毎年空海入定した旧暦3月21日旧正御影供が行われ、前夜御逮夜法会おたいやほうえ)のときのみ一般外陣参拝許される御逮夜法会では宗教舞踏奉納や、御影堂まわり一面ロウソクと花が供えられる三鈷(さんこのまつ) - 金堂御影堂の間にある三葉の根が参拝者踏まれないよう二重の柵で囲まれ赤松一緒に植栽されている。単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。空海が、恵果から密教受法後、大同元年806年)に中国寧波の浜から「密教弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許得て高野山下賜され伽藍造営途中に、空海掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅道場」とするのに相応の地であると確信した空海霊跡とされる。この松葉は、三鈷杵同じく三股別れている。現在の三鈷」は七代目で、平成期植え替えられた。枯れのときのために同じから分けた別に育成している。常緑樹が多いが、高野山の「三鈷」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」象徴される落葉し三葉松葉黄金色をしており、身につけていると「金運」を招く縁起物としてまた、飛行三鈷杵」の霊験あやかるため、「お守り」とするために探し求める参拝者もいる。 根本大塔こんぽんだいとう) - 真言密教根本道場修行中心地)として高野山開創当初から着工され887年日本最初多宝塔として完成した高野山シンボルである。「性霊集」に、根本大塔西塔が二基一対として建立されたことが書かれている何度かの焼失の後、現在の塔1937年昭和12年)に空海入定1100年記念して再建したもので1階平面方形2階平面円形鉄筋コンクリート造16間(約30m)四面・高さ16丈(約50m)の2層多宝塔である。中尊は、丈六胎蔵大日如来坐像、その中尊取り囲むように、四方金剛界四仏の、阿閦宝生阿弥陀不空成就の4如来安置し、本来別々の密教経典説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像一緒に安置するが、これは「金胎不二こんたいふに)」の教えで、両者不二一体である(根本的に1つ)という空海思想表したもので、堂内そのもの立体曼荼羅となっている。(「金剛界」等の密教用語について別項両界曼荼羅」を参照)。また塔内の16本には、十六大菩薩画像壁面には真言八祖画像堂本印象画伯によって描かれている。そして内部正面には昭和天皇宸筆勅額弘法」が掲げられている。高野山開創1200年記念大法会事業で、2015年平成27年5月12日から17日まで、根本大塔背景にし『南無大師遍照金剛』をテーマとし、プロジェクションマッピングレーザーによる光の饗宴が行われた。 根本大塔立体曼荼羅如来菩薩、八祖一覧中尊 胎蔵界 大日如来 中尊を囲む四仏 金剛界 阿閦如来 宝生如来 阿弥陀如来 不空成就如来 堂内描かれ菩薩 十六大菩薩 東方四菩薩 金剛薩埵菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 南方四菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 西方四菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 北方四菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛菩薩 金剛拳菩薩 壁面描かれ真言八祖 伝持の八祖 龍猛 龍智 金剛智 不空 善無畏 一行 恵果 空海 対面桜 - 寺伝によると、もとは大塔前、金堂の東辺りがあったと伝わる。平安時代大塔落雷焼失し再建の折、平清盛が「修造奉行」として任命され大塔再建された。修造完了し清盛大塔参拝した折に前に老僧現れ大塔修造されたことはめでたいことだ‐中略‐ただし、悪行を行うことがあれば、このさき子孫まで願望叶うことはないだろう」と説いたのち、姿が消えた清盛は、その老僧大師だと悟り、そのを「対面」または「影向ようごうざくら)」と呼ぶようになったと伝わる。 大塔の鐘 - 大師発願二世真然の代に完成現在の鐘は日本四番目に大きな鐘であることから「高野四郎」と呼ばれ1547年鋳造され約6トン直径7尺である。1日5回、計108突かれる。鐘楼鉄筋コンクリート製。 登天の松 六経蔵荒川経蔵御社重要文化財山王鐘楼 孔雀准胝三鈷松 大塔の鐘(高野四郎御供所納経所高野山開創1200年記念大法会大塔行われたプロジェクションマッピング 高野山開創1200年記念大法会大塔行われたプロジェクションマッピング 愛染堂あいぜんどう) - 建武元年1334年)に初代建立現在の堂は1848年嘉永元年再建後醍醐天皇勅願により四海静平玉体安穏天下泰平)を祈念のため創建本尊後醍醐天皇等身とされる愛染明王不動堂(ふどうどう)(国宝) - 建久8年1197年上皇皇女八條女院内親王発願により行勝上人創建現在の堂は14世紀初頭再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔次ぎ2番目に古い建築物高野山内の一心院谷から、1908年明治41年)に現在地移築された。桧皮葺ひわだぶき)、入母屋造住宅仏堂である。当初阿弥陀堂であった推定されるが、後に本尊不動明王重要文化財)と運慶作の八大童子像(国宝)が奉安され、現在いずれも霊宝館に移されている。堂の四隅形状それぞれ違い四隅それぞれ四人工匠随意に造ったためと伝わる。近年解体修理報告書によると元来僧侶臨終迎えるための堂だったとの説がある。屋根桧皮葺のため境内火災発生した場合類焼しやすいため屋根ドレンチャー設置しバルブ開けると桧皮葺屋根ドレンチャーからの膜で覆われるようになっている高野山内では、伽藍御影堂徳川家霊台2棟奥の院経蔵金剛三昧院多宝塔など計6棟に、地上放水銃設置しているが、屋根ドレンチャー設けているのは不動堂だけである。 勧学院かんがくいん) - 子院・塔頭後述 蓮池はすいけ) - 名の由来は、昭和の頃まで蓮の花咲き誇っていたため。明和年間1764年 - 1772年)に度々の干ばつ民衆苦しんでいたため、明和8年1771年)頃、善女竜王像と仏舎利を池の中島の祠に祀ったと伝わる。1996年平成8年と祠を修復大会堂(だいえどう) - 安元元年1175年鳥羽上皇皇女五辻斎院頌子内親王が父の追福のため創建。もとは東別所にあった西行法師が、長日不断談義学堂として現在地移し蓮華乗院と称していた。後に法会集会堂になり、現在の堂は嘉永元年1848年再建本尊阿弥陀如来三昧堂さんまいどう) - 延長7年929年初代創建、もとは総持院境内にあったが、治承元年1177年西行法師現在地移した現在の堂は文化13年1816年再建金剛峯寺座主高が創建し堂内理趣三昧法要行っていたことから、この名がついた。堂前は、西行法師手植のと伝わるが元の枯れ植え替えられ、現在も西行桜よばれている。 東塔(とうとう) - 大治2年1127年初代創建尊勝仏頂尊と不動明王降三世明王祀る弘法大師入定1150年御遠忌記念事業1984年再建白河上皇御願により醍醐寺三宝院勝覚権僧正創建智泉廟(ちせんびょう) - 空海の甥の智泉大徳789年 - 825年)の廟。37歳若さ亡くなり空海築いたと伝わる。 蛇腹道(じゃばらみち) - 名の由来は、空海高野山を龍が東西伏せる如くとたとえ、この道が龍の腹付近に相当することによる地主明神様弓矢稽古をしているため、真ん中歩いてはいけないとの伝説が伝わる。秋に紅葉覆われ観光客で賑わう。 六時の鐘 - 大伽藍出てすぐにあり、午前6時から午後10時偶数時に鳴らされる元和4年1618年福島正則により建立されるも焼失寛永7年1640年その子正利により再建され鐘銘通常漢字書かれるが、仮名まじり文である。 蓮池 愛染堂 大会三昧堂 東塔 智泉手水舎 蛇腹道 秋蛇腹

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