女人堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 10:23 UTC 版)
かつて高野山は、1872年(明治5年)までは女人禁制であったため、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山への入り口7つそれぞれに、女性のための籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれた。女人堂は、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり、空海御廟や壇上伽藍を遥拝するために利用された。女人堂にかかわる次のような伝説が残る。「室町時代、越後国の出雲崎の本陣宿に小杉姫という美しい娘がいた。娘は佐渡奉行の息子との縁談が決まるが継母の恨みにより両手を切られる。さらに婚家からも追い出され、娘は仏の慈悲にすがり信州善光寺に参詣するが、夢枕に弘法大師が現れ、高野山麓の宿屋の善兵衛を訪ねよと告げた。高野山への旅の途中で山賊に子供を殺されるが、命からがら高野山麓にたどり着き、善兵衛に女人参詣者を接待することを勧められ、女性のための籠もり堂を建てた。」と伝わり、その籠もり堂が女人堂の始まりとされる。女人堂のそばに小杉明神社があり、小杉姫を祀ると伝わる。近世には、女性参詣者が女人禁制の掟を破り高野山内へ入り、鐘楼や経蔵などに隠れる者が絶えなかったため、取締を求める文書が残る。各女人堂に隣接し小屋が置かれ、不審者侵入や女性の山内侵入の監視を行ったり、宿泊女性の接待をする山奴といわれる半僧半奴の者が駐在し、女性を排除するのではなく、食事は高野山内の宿坊が輪番で用意し「通い膳」として運ばれた。京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一現存する女人堂があり、「紀伊国名所図会」に「七口各堂ありといへども、此堂最大なり」と記され、高野七口に建つ女人堂の中でも不動坂口に建つ女人堂が最大だったことが分かる。
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「女人堂」の例文・使い方・用例・文例
- 女人堂という,念仏などをする堂
女人堂と同じ種類の言葉
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