大阪の「キタ」「ミナミ」、なぜカタカナ表記?
キタ、ミナミはどこを指すか。国土地理院に聞くと「自治体が決めること」と、つれない答え。では大阪市の判断は? 「法的な位置付けや定義はありません」(都市計画課)
観光ガイドブックを製作する大阪観光コンベンション協会によると「十三をキタに含めることもあれば、最近注目される天神橋筋6丁目(天六)をキタとは別に取り上げたりします」と西迫登マーケティング総括部長。人や状況によって範囲が変わる融通むげな地名のようだ。
2つの街の名前はいつ生まれたのか。大阪市史料調査会を訪ねると、古川武志調査員(日本近現代史)が「江戸時代に遡ります」と教えてくれた。「天下の台所」と呼ばれた大坂の中心は船場や島之内。その北と南に、商人や武士の遊び場として生まれた街が「北の新地(曽根崎新地)」と「南地(南地五花街)」だった。北の新地は「北陽」という別名があったそうだ。
ただし「時代によって範囲が違います」と指摘するのは大阪歴史博物館の船越幹央学芸員(日本近代史)。江戸期の北の新地は現在の北新地とほぼ同じだが、街の発展で梅田や大阪駅周辺を含むようになった。南地も、元は現在の宗右衛門町や櫓町。「現在ミナミといえば、多くが思い浮かべるアメリカ村などは含まれませんでした」
表記も時代とともに変わった。古川さんによれば「北陽、南地では読みにくいため、明治時代に新聞や雑誌で『きた』『みなみ』とルビが振られました」という。後にひらがなだけで表されるようになり、さらにカタカナに転じたとみられる。
「初めてひらがなだけで『みなみ』と表記したのは1950年、大阪鉄道局刊の『大阪案内』のようです」と話すのは大阪民俗学研究会代表の田野登さん。同書によると48年、大阪市などが市民投票で「大阪新八景」を選定した際、中之島公園や大阪城と並んで「みなみ」が選ばれた。
カタカナの初出について田野さんは「54年の雑誌『あまカラ11月号』でしょう」と話す。食関連の雑誌だ。確かに「戦争前の、大阪のミナミを……」とある。
その後「キタ」「ミナミ」の表記が広がったとみられるが、なぜ人々に受け入れられ、定着したのか。「ターミナル駅の形成で繁華街が従来の『北陽』『南地』の範囲を超えて拡大し、新たな街の呼称として一般化した」と分析するのは立命館大の加藤政洋准教授(人文地理学)。「特にアメリカ村がミナミにでき、カタカナ表記の定着につながったのでは」と推察する。
一方、田野さんは「それぞれの街を観光地化しようとの思惑が背景」と考えている。南地はかつて「男性向けの盛り場」という印象の街だったため、家族連れも呼ぼうと、カタカナでイメージチェンジを図った、との説だ。「大阪万博に向け、行政が積極的にカタカナ表記を広めた」とする専門家もいる。
「語源や範囲はどうあれ、キタ・ミナミは単に場所を示す言葉ではありません」。古川さんは強調する。「住民の愛着や帰属意識をかき立て、訪れる人はそれぞれのイメージを膨らませる。そんな不思議な表現です」。日々変貌する街の姿を何とか言葉に写し取ろうとの人々の思いが、カタカナ表記には込められているのかもしれない。
(大阪社会部 藤井将太)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2013年3月13日付]