「不条理」は不条理に非ず、「悲劇」は悲劇に非ず
恋愛に恵まれない人的『ロミオとジュリエット』>「ガンプラを母親に捨てられた」と自宅放火 実は早とちり、結局全焼(ITmedia News)
ある状況が不条理であると周りから認められた時、それはもはや条理の一部としての「不条理」に収斂され、本当の意味での不条理ではなくなってしまう。同じように、周りから「悲劇」と認識されればされるほど、それによってその出来事の悲劇性は薄まる。真の悲劇とはそれが制御不能の重篤さを抱えていながら「悲劇」とは認識されず、誰からも理解されないそういった状況のこと。その意味でこれは『ロミオとジュリエット』的な似非悲劇よりも遥かに悲劇性が強い出来事だと言える。
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そもそも「悲劇」というのは、その物語を受け取る側がそれを内面化してナルシズム的作用を得るためのもの。つまりそれは、対象となる事象とそれを受け取る側の認識と自意識という三者の共同作業によって成り立っている。そういう共犯関係の上で初めて成立するのが「悲劇」。それに対し悲劇は、他人がそれを内面に取り込んでナルシズム的なカタルシスを得ることを許さない。そのような性質を持っていることこそが、悲劇が「悲劇」に取り込まれず、悲劇そのものとして存在し続けるための一つの条件でもある。この事件はその条件をクリアしていることだろう。
それに加えこのような出来事は、それを受け取る側はそれを内面化して取り込むどころか、むしろそれを自身より劣るものとして積極的に疎外化して蔑み、それよりも優であるところの自分を見つめることで己の価値(存在意義)を確認するというタイプのナルシズムに利用され易い。そして当該人物は、(不特定多数の者から発せられる)その種のタイプのナルシズムを出自とする言動や眼差し――暴力性を帯びたそれ――を受け取ることを余儀なくされる。それがその出来事の悲劇性をより堅固なものとする。
***
確かに、一般的な物差しで測ればこの出来事はずいぶんと滑稽なものに見えることだろう。しかしよくよく考えてみれば、だからといって単純にこれを嘲笑うのはかなり難しいことが分かる。
何故なら、この出来事はその包装部分を取り去ってその中身を覗いて見れば、それはその者が生きるための支えとしてきた掛け替えのないもの――それこそ、それが隠されたことでパニクって自暴自棄になってしまう程のそれ――を、恐らく相当関係が悪かったと思われる者によって破棄された――つまりそれはその者の存在意義をも破棄されたことと同義にもなり得る――と認識したことから始まっている。表層の部分はともかく、誰かがそのような内容を獲得した時、それでも尚冷静でいられる者は一体どれくらいいるだろうか。
いや勿論、その生きる支えが「ガンプラ」だったことが滑稽さを生み出している大きな要因の一つなのだろう。だが、元々価値に普遍性はない。例えばある人物の存在は、その他の殆どの人間にとって大した価値を持っていない。今この瞬間にも多くの命が生まれ、消滅していっていることだろう。だが我々はそれを何とも思わない。その生と死に何も感じることはない。それどころか彼らが存在し、消えていったことを知りすらしない。これはつまり、人一人の命でさえ元々その程度の価値しか持っていないということを表している。
誰かにとって価値あるものは常に他の誰かにとって価値の無いものでもある。その者の命さえ、他の誰かにとっては何の価値も無いものに過ぎない。それゆえ法律や道徳といった類のものが人々から求められるようになる。一人一人の人間の命にもし普遍的価値が在るならば、価値観に普遍的法則があるならば、そもそも法律や道徳なんてものに頼る必要はないだろう。それが無いからこそ、法律や道徳、権利などという概念が必要とされる。
つまり、其々の人間の価値観にはそれほど大きな差異があるということだ。だから他人の価値観を嘲笑することほど浅はかなことはない(まあ自分もその浅はかなことをしてきたし、これからもしたりするんだろうけど)。何故ならそれを嘲笑する者の命でさえ、他の誰かの価値観からすれば何の価値も無いものでしかないからだ。だがそれでは自分の命や人生もまた他人から侵害され、否定されてしまうことを避けられないだろう(少なくともその可能性が高まる)。だからこそある程度統一化された最低ラインを設け、それを守るべきだという動きが生じてくる。他人の価値観を尊重することが重要だという考えが生まれてくる。所謂「情けは人のためならず」というやつだ。「他人のため」というのは、実のところ「自分のため」を出自とする形でしか生まれてこないのだ。
だがそれは逆に言えば、自分の存在価値を否定する者はそれらをあっさりと否定することが出来てしまうということでもある(ex.死刑覚悟の無差別殺傷事件)。そういった者の元に法や道徳による非難が正当なものとして届くはずもない。何故なら、誰かがその存在価値を失った時、その者にとってみれば、それを守ることを目的として生まれて来た法や道徳もまた同時にその存在価値を失ってしまうからだ。感覚上はともかく理屈上は。
まあだから自分としては、彼の持つ一風変わった価値観を嘲笑うことは出来ないし、彼が起こしたこの行為もまた(結局死に切れなかったとはいえ)、少なくともそれを道徳的に非難することは難しいだろうと思ってしまうのだが。
ある状況が不条理であると周りから認められた時、それはもはや条理の一部としての「不条理」に収斂され、本当の意味での不条理ではなくなってしまう。同じように、周りから「悲劇」と認識されればされるほど、それによってその出来事の悲劇性は薄まる。真の悲劇とはそれが制御不能の重篤さを抱えていながら「悲劇」とは認識されず、誰からも理解されないそういった状況のこと。その意味でこれは『ロミオとジュリエット』的な似非悲劇よりも遥かに悲劇性が強い出来事だと言える。
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そもそも「悲劇」というのは、その物語を受け取る側がそれを内面化してナルシズム的作用を得るためのもの。つまりそれは、対象となる事象とそれを受け取る側の認識と自意識という三者の共同作業によって成り立っている。そういう共犯関係の上で初めて成立するのが「悲劇」。それに対し悲劇は、他人がそれを内面に取り込んでナルシズム的なカタルシスを得ることを許さない。そのような性質を持っていることこそが、悲劇が「悲劇」に取り込まれず、悲劇そのものとして存在し続けるための一つの条件でもある。この事件はその条件をクリアしていることだろう。
それに加えこのような出来事は、それを受け取る側はそれを内面化して取り込むどころか、むしろそれを自身より劣るものとして積極的に疎外化して蔑み、それよりも優であるところの自分を見つめることで己の価値(存在意義)を確認するというタイプのナルシズムに利用され易い。そして当該人物は、(不特定多数の者から発せられる)その種のタイプのナルシズムを出自とする言動や眼差し――暴力性を帯びたそれ――を受け取ることを余儀なくされる。それがその出来事の悲劇性をより堅固なものとする。
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確かに、一般的な物差しで測ればこの出来事はずいぶんと滑稽なものに見えることだろう。しかしよくよく考えてみれば、だからといって単純にこれを嘲笑うのはかなり難しいことが分かる。
何故なら、この出来事はその包装部分を取り去ってその中身を覗いて見れば、それはその者が生きるための支えとしてきた掛け替えのないもの――それこそ、それが隠されたことでパニクって自暴自棄になってしまう程のそれ――を、恐らく相当関係が悪かったと思われる者によって破棄された――つまりそれはその者の存在意義をも破棄されたことと同義にもなり得る――と認識したことから始まっている。表層の部分はともかく、誰かがそのような内容を獲得した時、それでも尚冷静でいられる者は一体どれくらいいるだろうか。
いや勿論、その生きる支えが「ガンプラ」だったことが滑稽さを生み出している大きな要因の一つなのだろう。だが、元々価値に普遍性はない。例えばある人物の存在は、その他の殆どの人間にとって大した価値を持っていない。今この瞬間にも多くの命が生まれ、消滅していっていることだろう。だが我々はそれを何とも思わない。その生と死に何も感じることはない。それどころか彼らが存在し、消えていったことを知りすらしない。これはつまり、人一人の命でさえ元々その程度の価値しか持っていないということを表している。
誰かにとって価値あるものは常に他の誰かにとって価値の無いものでもある。その者の命さえ、他の誰かにとっては何の価値も無いものに過ぎない。それゆえ法律や道徳といった類のものが人々から求められるようになる。一人一人の人間の命にもし普遍的価値が在るならば、価値観に普遍的法則があるならば、そもそも法律や道徳なんてものに頼る必要はないだろう。それが無いからこそ、法律や道徳、権利などという概念が必要とされる。
つまり、其々の人間の価値観にはそれほど大きな差異があるということだ。だから他人の価値観を嘲笑することほど浅はかなことはない(まあ自分もその浅はかなことをしてきたし、これからもしたりするんだろうけど)。何故ならそれを嘲笑する者の命でさえ、他の誰かの価値観からすれば何の価値も無いものでしかないからだ。だがそれでは自分の命や人生もまた他人から侵害され、否定されてしまうことを避けられないだろう(少なくともその可能性が高まる)。だからこそある程度統一化された最低ラインを設け、それを守るべきだという動きが生じてくる。他人の価値観を尊重することが重要だという考えが生まれてくる。所謂「情けは人のためならず」というやつだ。「他人のため」というのは、実のところ「自分のため」を出自とする形でしか生まれてこないのだ。
だがそれは逆に言えば、自分の存在価値を否定する者はそれらをあっさりと否定することが出来てしまうということでもある(ex.死刑覚悟の無差別殺傷事件)。そういった者の元に法や道徳による非難が正当なものとして届くはずもない。何故なら、誰かがその存在価値を失った時、その者にとってみれば、それを守ることを目的として生まれて来た法や道徳もまた同時にその存在価値を失ってしまうからだ。感覚上はともかく理屈上は。
まあだから自分としては、彼の持つ一風変わった価値観を嘲笑うことは出来ないし、彼が起こしたこの行為もまた(結局死に切れなかったとはいえ)、少なくともそれを道徳的に非難することは難しいだろうと思ってしまうのだが。
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