学校教員の質をどう確保するのか?
かつてほど教師という職に魅力がなくなっていることは、世の中の常識になっている。長時間労働の対価が得られないなど、待遇面で相対的に不利な条件が影響していることは間違いなかろう。ただ、それにも増して、教師という存在への社会的な評価が下がってしまっていることが、非常に大きいのではないか?想い起こせば、50年ほど以前は、牧歌的な時代で、地域社会における教師はインテリであり、敬意を持って接するべき対象と認識されていたように思うが、昨今では、痴漢行為等によって懲戒される者も枚挙にいとまがなく、教師としての能力不足から担任交代を親たちから迫られる者も少なくないなど、教員に向けられる目はとても厳しくなっている。
教師の社会的な信用失墜への悪循環が起こっている一つの原因は、我が国の労働法制の運用の実態にもあると思う。親や子供から忌避される教師でも、公務員法で重大な懲戒対象にならない限り、学校や教育委員会という組織から放逐されることはない。かりに校長や教育長が教師として資格なしと評価しても、いったん裁判に持ち込まれれば、現場復帰が認められてしまうかもしれない。大学においても、学生への教育指導に問題があった(アカデミックハラスメント)ことに基づいて免職にしたとしても、裁判所に処分を覆されている例がある。雇用側としては、二度と教壇には立たせたくない人物を、教授に戻すような裁判が行われる国だから、教師という職への信用はどうしても落ちることになってしまうのである。かつては、大規模な組織には余裕があるので、何らかの業務には使ってやれるという事情があったのかもしれないが、教師に関しては、他の業務の担当に転換することは難しく、労働法制の歪みが、限界を超えている例だと言える。労働者保護の観点から、不必要なマンパワーを組織に抱えさせた結果、2000年代以降の組織のスリム化の中で、組織全体の労働生産性を低下させる原因を作っている。教師という知的労働を担う存在ですら、時代遅れの労働法制で守っていれば、新陳代謝が遅れるのは当然のことである。その上、教師集団は、教育委員会という首長から独立したシステムによって、一種の共同体(独立王国)のようなものが、形成されている。その共同体自体への親たちの不信感も強くなっている。先生たちの常識は、世の中の非常識だという声もよく聞く。かつての敬意は失われているのである。
教師の不人気は、長時間労働やストレスに由来するメンタルヘルスの不調で休職する者の多さも原因になっている。健全性を欠く職場に入りたい人間はいない。親からのクレーム、同僚からの苛め、教育委員会からの教育指導(人事評価)など、教師への心理的圧力は、かつての牧歌的な時代とは比べようもない。それらに適切に対処できないのは、教育委員会という教師の世界しか知らない人間たちの限界とも考えられる。親からのクレームへの対処にしても、いちいち真に受けて現場を絞るだけでは、無用なストレスを増幅しているだけである。教師のメンタルヘルスの不調の原因を緩和する取り組みなくして、新たな適材の採用は不可能だろう。新規採用者の質が下がれば、教師への不信感が増し、悪循環のサイクルは止まらない。
教師から自由な時間を奪い、ストレスで余裕をなくせば、新しい知識技能の習得への意欲を持つことは期待薄になる。本来、教師は知的な職業であり、生涯にわたって学び続けようとしない者には向かない。教科指導の知識のリニューアルはもちろんのこと、学校における種々の活動に関する知識技能(例えば、ICT、防災、SDGs、心のケア、マネジメントなど)を、自分なりに習得する努力を行うことは、一般企業にホワイトカラーとして勤務する親たちの目には、当たり前のことではないかと映る。しかし、実態は、程遠いと言わざるを得ない。学校が社会の変化から取り残されているのも、教師の多くが変化についていけていないからである。そのことが、また、親たちの教師軽視を招くのである。
このままでは、教師という職に適材が得られず、学校教育の水準が下がり、学校への社会的信用が低下し、教育予算が削減され、最終的には、学校制度が崩壊することになりかねない。今、私たちが直面しているのは、教員採用という一局面の不具合ではなく、制度疲労が進んだ学校システム全体のリノベーションという課題である。ひどく重い課題であり、一体、誰がこれを解決に導いてくれるのだろうか?思いつくのは、コンピューター付きブルドーザーと言われた、かつての宰相だが、そういうタイプの政治家は、2022年には、ついぞ見当たらない。
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