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2022年2月

2022年2月24日 (木)

学校教員の質をどう確保するのか?

かつてほど教師という職に魅力がなくなっていることは、世の中の常識になっている。長時間労働の対価が得られないなど、待遇面で相対的に不利な条件が影響していることは間違いなかろう。ただ、それにも増して、教師という存在への社会的な評価が下がってしまっていることが、非常に大きいのではないか?想い起こせば、50年ほど以前は、牧歌的な時代で、地域社会における教師はインテリであり、敬意を持って接するべき対象と認識されていたように思うが、昨今では、痴漢行為等によって懲戒される者も枚挙にいとまがなく、教師としての能力不足から担任交代を親たちから迫られる者も少なくないなど、教員に向けられる目はとても厳しくなっている。

教師の社会的な信用失墜への悪循環が起こっている一つの原因は、我が国の労働法制の運用の実態にもあると思う。親や子供から忌避される教師でも、公務員法で重大な懲戒対象にならない限り、学校や教育委員会という組織から放逐されることはない。かりに校長や教育長が教師として資格なしと評価しても、いったん裁判に持ち込まれれば、現場復帰が認められてしまうかもしれない。大学においても、学生への教育指導に問題があった(アカデミックハラスメント)ことに基づいて免職にしたとしても、裁判所に処分を覆されている例がある。雇用側としては、二度と教壇には立たせたくない人物を、教授に戻すような裁判が行われる国だから、教師という職への信用はどうしても落ちることになってしまうのである。かつては、大規模な組織には余裕があるので、何らかの業務には使ってやれるという事情があったのかもしれないが、教師に関しては、他の業務の担当に転換することは難しく、労働法制の歪みが、限界を超えている例だと言える。労働者保護の観点から、不必要なマンパワーを組織に抱えさせた結果、2000年代以降の組織のスリム化の中で、組織全体の労働生産性を低下させる原因を作っている。教師という知的労働を担う存在ですら、時代遅れの労働法制で守っていれば、新陳代謝が遅れるのは当然のことである。その上、教師集団は、教育委員会という首長から独立したシステムによって、一種の共同体(独立王国)のようなものが、形成されている。その共同体自体への親たちの不信感も強くなっている。先生たちの常識は、世の中の非常識だという声もよく聞く。かつての敬意は失われているのである。

教師の不人気は、長時間労働やストレスに由来するメンタルヘルスの不調で休職する者の多さも原因になっている。健全性を欠く職場に入りたい人間はいない。親からのクレーム、同僚からの苛め、教育委員会からの教育指導(人事評価)など、教師への心理的圧力は、かつての牧歌的な時代とは比べようもない。それらに適切に対処できないのは、教育委員会という教師の世界しか知らない人間たちの限界とも考えられる。親からのクレームへの対処にしても、いちいち真に受けて現場を絞るだけでは、無用なストレスを増幅しているだけである。教師のメンタルヘルスの不調の原因を緩和する取り組みなくして、新たな適材の採用は不可能だろう。新規採用者の質が下がれば、教師への不信感が増し、悪循環のサイクルは止まらない。

教師から自由な時間を奪い、ストレスで余裕をなくせば、新しい知識技能の習得への意欲を持つことは期待薄になる。本来、教師は知的な職業であり、生涯にわたって学び続けようとしない者には向かない。教科指導の知識のリニューアルはもちろんのこと、学校における種々の活動に関する知識技能(例えば、ICT、防災、SDGs、心のケア、マネジメントなど)を、自分なりに習得する努力を行うことは、一般企業にホワイトカラーとして勤務する親たちの目には、当たり前のことではないかと映る。しかし、実態は、程遠いと言わざるを得ない。学校が社会の変化から取り残されているのも、教師の多くが変化についていけていないからである。そのことが、また、親たちの教師軽視を招くのである。

このままでは、教師という職に適材が得られず、学校教育の水準が下がり、学校への社会的信用が低下し、教育予算が削減され、最終的には、学校制度が崩壊することになりかねない。今、私たちが直面しているのは、教員採用という一局面の不具合ではなく、制度疲労が進んだ学校システム全体のリノベーションという課題である。ひどく重い課題であり、一体、誰がこれを解決に導いてくれるのだろうか?思いつくのは、コンピューター付きブルドーザーと言われた、かつての宰相だが、そういうタイプの政治家は、2022年には、ついぞ見当たらない。

2022年2月22日 (火)

まだ新しい大学を作る必要があるのか?

ある私学が撤退する跡地の利用に関して、新しい大学の設置計画を策定している市町村があると聞いて、大学を作る意欲は買うとしても、常識的には、競争が激しくなる一方の業界に、周辺の背景人口が減少する中で、些か無謀な話ではないかと感じている。詳細な資金計画を聴いたわけではないので、いわゆる特区制度でも利用して、現在の大学設置基準に捉われない新概念の大学を構想しているのかもしれないが、文科省もやすやすとそのような新概念の大学を認可するとは思えない。コロナ禍の影響もあり、親の収入で県境を越えた大学を志願することは困難になっている。これからも事態が好転する見込みは立ちにくいので、同じ県内での志願者の取り合いになるようなら、新設大学だけでなく、巻き込まれる大学の経営にも大きな影響が出るだろう。2020年代に新設しようという大学が、20世紀の設置基準に縛られて、無駄なインフラ投資を強いられるなら、既に内部蓄積があり、卒業生の人脈もできている大学には、競争力で太刀打ちできないだろう。

以前から述べているように、大学間の競争は、信賞必罰で、健全に行うべきであり、教育研究の質に関する公的な評価制度をきちんと機能させて、公的な資源は評価の高い大学に集中して、標準以下の大学は遠慮なく退場させるべきだと考える。そのような新陳代謝を図ることを前提にするなら、新たな大学の参入も歓迎すべきである。ただ、その場合、旧式の設置基準に縛り付けることは無用に願いたい。岸田内閣は、大学の学部再編という課題を掲げているようだが、評価を通じて、アメとムチで価値のある再編を実行すればよい。そもそもレベルに達しない大学なら、公的な資源を切ればよい。変な延命措置は意味がないからである。人口減少のデータに鑑みれば、例えば、東京大学の学生の質を維持するには、医学部などでの例外は認めるとしても、入学定員を6~7割にするのが適切だろう。また、大学院を拡大しすぎたので、適正規模に修正することにも、早く着手した方が良い。現状は、国からの資源配分の減少を恐れて、各大学の身動きがとれない状態が続いているように感じる。岸田内閣のうちに、私学を含めて、我が国の主要大学について、かたちを整え直す構造改革が行われることを望みたい。それには、政治と学問の信頼関係が必要だが、まずは、安倍・菅内閣の時代に痛んでしまった関係を修復する政治的意志が求められるだろう。

日大問題を契機とする私学のガバナンス改革に関する議論が迷走しているが、法案になる際には、大山鳴動して何とやらの状態になっているのではないだろうか?不祥事が発覚するたびに、私学を縛ろうとするが、そうはさせじと知恵を働かせて、制度の運用によって学校法人の実効支配を保とうとするに違いない。表と裏、建前と本音の二重構造を黙認するくらいなら、資金提供者の権利が、理事長としての地位でしか確保できない仕組みを改めたらどうか?それが認められないなら、「改革」は上滑りさせられてしまうだろう。文科省は、また、やったふりで決着させるつもりだろうか?高等教育の拡大期に、大学産業ともいうべき私学に、学生の約8割を委ねてしまったために、人口減少期に入って、日本の大学は世界から取り残されつつある。大学経営には金がかかり、その多くを負担させられてきた親の所得が伸びていないことが原因である。また、AOと推薦の7割の入学者を確保しているような大学が珍しくない状況では、かつてのように大学入試で学力水準が保たれなくなっている。残りの3割を一般入試で合格させるのだが、入学後の成績は一般入試組が高いわけでもない。要するに、人口減少によって、入学が容易になっている弊害が明らかなのである。中堅レベルの大学でも、明らかに、入学定員はダブついている。本気で教育研究の質を向上させるためには、入学者数を抑制する措置(学部ごとにメリハリをつけても良い)が取られるべきだろう。

そうした抑制策が実行されるならば、新しい大学設置構想も歓迎である。ただ、人口減少の国で、新参の大学の経営が簡単に軌道に乗るとは限らない。既に、実績を上げて世界で認知されている大学を伸ばすための資源を手厚く与えることが、国家政策としては、正しいやり方になるだろう。その一方、経済格差による教育格差が深刻化していることに鑑みれば、親の懐状態を気にせず、安価に通える大学(具体的に就職を意識したものになる)を地域にバランスよく作るような政策が、喫緊の課題になっていると認識すべきだろう。新しい大学設置の意欲を、その政策にこそ誘導してもらいたい。

 

 

2022年2月 9日 (水)

なぜ選手に謝らせるのか?

北京冬季五輪に出場していたジャンプの高梨選手が、混合団体戦の1回目の素晴らしいジャンプについて、スーツのレギュレーション違反を理由に失格処分となり、得点を取り消されたことに関して、気の毒なことに、申し訳ないというようなコメントを発している。相当数の誹謗中傷の類が、サイバー空間に流れたとも聞く。もちろん、それをはるかに上回る数の激励のコメントも溢れている。不運なヒロインをみなで慰めて一件落着となるのかもしれないが、そもそも満足な成績を残せなかったアスリートに謝罪のようなことをさせるのは、社会の恥であり、間違いではないかと感じている。真の理解者、応援者であれば、期待に応えられなかったアスリートの無念は十分すぎるほど理解しているはずである。

そもそも、オリンピックの場でなければ、大騒ぎにならないのかもしれない。しかし、オリンピックに対して、マスコミを中心として、幻想の共同体を作って至高の大会だと持ち上げすぎてはいないか?人気のあるスポーツは、シーズン中に世界を転戦して、総合でチャンピオンを決定するので、勝てば金メダルが勲章にはなるが、元来、オリンピックは単なる一つの大会に過ぎない。幻想の共同体から外れてみれば、他のメダル候補の国の有力選手とともに失格処分を受けてしまった高梨選手に、遠くの他人が何かものを言う資格さえないことがよくわかる。卑劣な行為は決して許されるものではないが、誹謗中傷する人間も、日の丸を上げてほしいという願望を募らせて、可愛さ余って憎さ百倍になったとも解釈できる。結局、幻想の共同体の住人である点は、彼らも同じなのである。ただ、他人への思いやりに欠けるという意味で、病的だというだけである。落ちた悲運のヒロインを叩くのは、いじめに加担する心理とよく似ている。

もう一つ、今回の騒動から学ぶべきことがあると思う。それは、JOCなりスポーツ庁なりの正規の組織が、公式にリアクションを起こそうとしていないことである。傍観者で良いのだろうか?日本の隣国は、ショートトラック競技の判定に関して、即座に、組織として正式に抗議するというスタンスを明確にしている。国民性の違いは明白だが、日本人はいつからこれほどおとなしくなったのだろうか?オリンピック命のような幻想を膨らませている割には、妙に冷めている。女子選手を狙い撃ちにしたスーツのチェックによって、面白いはずの国別対抗戦がハンデ戦になってしまい興味を著しく殺いでしまったのは、オリンピックの競技運営としては実に下手なやり方だった。怒りを直接ぶつけるのは賢明ではないが、ルールや検査の方法等に関して見直しを提案したいというようなコメントはできるのではないか?国際社会で自己主張できない組織は、存在しないも同然である。加えて、選手個人への誹謗中傷は絶対に許さないというような擁護の主張も即座にすべきではなかったのか?気まぐれなテレビのコメンテーターに任せっぱなしでは、統括組織たるJOCやスポーツ庁として些か情けないのではないか?

以上を踏まえて、次の点を提案したい。

第1に、JOCやスポーツ庁は、あらゆる誹謗中傷から選手を守ることを宣言する。選手の所属団体やスポンサーに委ねるのではなく、スポーツ界全体で守るという意思を示すことが重要である。これは、選手のメンタルヘルスの保護にも大きな意味を持つ。

第2に、誹謗中傷をした人間に対しては、警察とも連携して、必ず罪を償わせることを明確にし、そのために必要な体制や予算を確保する。他の業界でも、卑劣な人物を特定して、刑事告訴する例が出始めている。確かにコストがかかるが、選手を守るには必要な経費である。

第3に、選手に対しては、スポーツに関する判定や結果について、決して個人的に謝罪と受け取られるような言葉(申し訳ない、御免なさい、済みませんでした等)を発しないように、行動規範を設けて研修などで徹底する。もちろん、故意による傷害のようなケースは別である。スポーツマンシップに反するような行為が許されないことは言うまでもない。

第4に、何らかの事件・事故などが発生した場合に、適時的確に公式の発信できるよう、責任と権限を明確にした体制(広報官など)を整える。社会からの誤解を招かぬよう、一定の間は、関係する選手からは個々に発信しないように、組織的な統制の指揮も執る。

第5に、オリンピックでは、その精神にのっとり、選手には、参加する喜びを感じて、楽しむことを徹底する。それぞれの競技結果は、あくまで副次的な目標とする。競技に参加している選手たちは、みなが切磋琢磨する共演者であるという感覚を持つことが、スポーツの社会的な価値を高めることに繋がる。このことは、今の日本が陥っている幻想の共同体への解毒剤にもなるだろう。新種の競技の選手たちには、すでにそうした空気が共有されており、彼らには、スポーツの未来への可能性を強く感じる。

最後に、悲運のアスリートに対しては、むやみに声をかけず、そっとしておくことが、何よりの対応であろう。特に、遠い他人に過ぎない人間は、そういう大人の配慮を心掛けるべきである。特に、突撃取材が好きなマスコミには自覚が求められる。人間が深い失望から立ち直るには、結局、時間という薬に頼らざるを得ない。

 

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