« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »

2021年9月

2021年9月28日 (火)

著作権の権利保護と利用促進のバランスをどうするか?

10月14日までの期間、文化庁が、「簡素で一元的な権利処理」の在り方に関する意見募集を行っている。単に、政府として決まった方針を示して異論のある人たちのガス抜きをするという性格のものではなく、権利者や利用者の立場からの意見を、幅広く募集するものだという。著作権分科会基本政策小委員会の今後の検討において、これらの意見がどう使われるのかは不明だが、この機会に、デジタルアーカイブの構築を進め、オンライン教育等の新しい手法の普及を図り、民間資格であるデジタル・アーキビストの活用を後押しする意味で、以下のコメントを提出しておいた。ご参考までに、ここに転載しておきたい。

 

パブコメは知らないうちに行われ、知らないうちに締め切られ、出したコメントが実際にどう取り扱われたのか分からないことが多い。文化庁の発信力が絶対的に不足しているので、このパブコメも世の中にほとんど知られていないだろう。著作権に関して問題意識があって、発信力のある人には、ぜひパブコメの存在を広めてほしい。

 

1.授業コンテンツ(オンライン教育を含む)の二次的利用

 

オンライン教育を含む授業コンテンツの二次的利用(複製、公衆送信など)は、教育ビジネスの拡大に止まらず、生涯学習社会の実質化に重要な意味を持つ。授業の範囲内では、権利制限や補償金制度により扉が開かれているが、その先の利用については、制約が大きい。この点も、特段の意思表示がない場合は、実質的に、報酬請求権(又は補償金制度に組み込む)として扱えるようにされたい。

 

2.入試問題の二次的利用

 

入試問題に他人の著作物を利用することは現行法でも可能だが、その二次的利用は範囲外になっている。この制約を解除できれば、入試問題の種々の二次的利用によるビジネス展開の可能性が高まる。また、受験生、学校関係者らにとっても利便性が上がる。入試問題の二次的利用を禁止するなどの特段の意思表示がない場合は、実質的に、著作者の権利を報酬請求権と扱うことにされたい。

 

3.特定のデジタルアーカイブの構築における特例の創設

 

公益性を有するデジタルアーカイブの構築に当たっては、集中管理されていない著作物(権利者不明の場合を含む)に関しては、特段の意思表示がなければ、実質的に、報酬請求権として扱えるようにするのが適当である。こうした特例を与える特定のデジタルアーカイブに関しては、民間資格であるデジタル・アーキビスト(上級)を有する者を専任で配置することを条件の一つとされたい。これにより、著作権の権利保護の枠組みを遵守しつつ、公益性を有するデジタルアーカイブの構築に係る経済的・時間的なコストが大幅に低減できる。なお、報酬請求・支払いが終わるまでの間の利用は、暫定的利用という位置づけでも差し支えない。

 

4.UGC等のデジタルコンテンツの利用促進

 

ネット上に公開されているコンテンツ(特段の意思表示がない場合)について、暫定的利用を広く認めることには賛成するが、利用する側に、民間資格であるデジタルアーキビスト(上級)の資格を有する者が配置されているなど、著作権法制の趣旨を踏まえた利用が確保されるように条件を付すことが適当である。あくまで著作者の権利を尊重しつつ、意思表示のデフォルトを利用促進の方向へと舵を切るのであるから、運用に関して無法・脱法的なことが行われぬよう歯止めをかける必要がある。

2021年9月17日 (金)

国公立大学を変質させているのは何か?

駒込武編「「私物化」される国公立大学」(岩波ブックレット1052号)は、下関市立大学、京都大学、筑波大学、大分大学、北海道大学、福岡教育大学、東京大学における最近の事例を挙げて、学長の専断や恣意性によって、国公立大学の公共性が失われつつあるとの警鐘を鳴らしている。詳しくはお読みいただくとして、国立大学法人法が、第1に、学内外の学識・有識者で構成される学長選考会議で学長が決定されるシステムを採用していることによって、構成員の意見が何ら反映されない選考結果が珍しくなくなっていること、第2に、教職員の人事権を始めあらゆる権限が過度に学長に集中されるシステムを採用していることから、このような紛争が各地で起こっているものと考えている。


いわゆる法人化当初は、実態として、構成員の意向(すなわち選挙結果)が選考会議における決定にも一定の影響を及ぼしていたが、近年は、権限に基づき独自の判断で候補者を絞り込んでいく傾向が強まっている。法制的には問題はないが、大学という自治的な組織=学問の府において、構成員の支持が薄い人物がトップとしてふさわしいかは大いに疑問である。加えて、選考プロセスが公表されないことが多いので、構成員から疑念や批判が出ても不思議ではない。さらに、ブラックボックスで選考された人物が、大学法人の経営及び教学に関するすべての権限を与えられているため、形だけを見れば、世界の大学でも稀な独裁型のガバナンス構造になっており、私物化(学長独裁)に陥りやすい。かつての学者タイプの学長ならば、謙抑的な権限行使を心掛けるだろうが、昨今多くなってきた経営者タイプの学長になれば、本部対学部、法人対教学などの間に紛争が起きてもおかしくない。


大学で内輪もめをしているだけならば、外部の人間には関係がないが、国公立大学は、我が国の人材養成や学術研究の中核を担う存在であるだけに、アウトカムの低下が懸念される。損をするのは、国家であり、国民である。具体的な批判の中身を見れば、人事権の行使が恣意的である、予算配分が偏向しており不公平である、教学の運営が不適切である、軍事研究を容認しているなどであるが、これらは単なる現象であって、問題の根源にあるのは、国立大学法人法の制度自体である。


具体的には、第1に、学長選考会議という装置を利用して、学外からの影響力の行使を広く認めている点である。学外とは、大学OBOG、地域の自治体関係者、有力な学識者・経営者などであり、いずれも、現職学長の知人・友人・支持者であることが多い。大学法人は、地域にとっては相当規模の経営体であり、学長選考が真に中立・公平に行われる保証はない。委員は、それぞれの立場で思惑を持って参加しているからである。第2に、国立大学法人は、法人(経営)の長と教学の長を兼ねる存在として学長が任命される仕組みになっており、役員・教職員の人事から学内の予算配分まで全権を握ることが認められている。このような存在は、独立行政法人のかたちを移したものだが、世界の大学では極めて珍しかろう。私立学校法でも、経営と教学は、理事長と学長に権限が分離されている。国の権力分立の仕組みとも違って、国立大学法人は、学長=全権・独裁体制なのである。加えて、学校教育法の改正によって、国公私立大学の学部教授会の権限を限定した点も、国立大学法人の学長による独裁体制を補強することになった。以前から指摘してきたように、学長が暴走したら学内の誰にも止められないのである。所管する文科省は、国立大学法人に対して、せいぜい運営費交付金の予算配分と法人評価システムを通じて一定の牽制が可能だが、学長をコントロールすることは実質的に不可能である。


学長の任期の制約をなくしたりして、長期化すれば、本人が知らぬうちに虎の威を借りる輩によって、私物化も腐敗も起こるだろう。私には、中期計画期間の6年を超えて長期に学長をやりたいという気持ちは理解できないが、皆のために何かを成し遂げるためではなく、手にした権力の魔力に取りつかれているのではないかと懸念している。システムとしての欠陥が明らかになっている国立大学法人法は、早期に全面的な見直しが必要である。例えば、学長選考には構成員の意向を何らかの形で酌むことが必要であり、法人と教学の責任者は私立学校法に倣って区分するなど権力分立のシステムを取り入れるべきである。さらに、法人の長の任期には上限を設けるべきであり、もちろん、ロシアのプーチン氏のようなルールの回避策も禁止する必要がある。国立大学を変質させているのは、現在の法制度自体である。問題が顕在化している今、無為無策は許されない。

 

 

2021年9月10日 (金)

悲劇的な科学技術指標のデータは当然の結果ではないか?

 

 

オリパラとコロナ禍に明け暮れていた20218月に、文科省の科学技術・学術政策研究所は、「科学技術指標2021及び科学研究のベンチマーキング2021」という報告書を公表していた。研究開発費や研究者数においては、米国、中国に次いで第3位のままだが、トップ10%論文のシェアに関しては、インドに抜かれて、第10位となってしまった。10年前は、第5位だったが、その後、イタリア、オーストラリア、カナダ、フランス、インドに抜かれたことになる。そのシェア自体も、4.3%から2.3%に低下している。論文数は、第4位で、第3位だった10年前と比べてもほぼ同数を維持しているが、そのシェアは、6.3%から4.1%に落ちている。

 

 

この結果は、日本の研究開発費のアウトプットが、量的に低下するとともに、質に関しては著しく低下していることを意味する。要は、長い下り坂をただ転げ落ちているのである。ギョッとするデータだが、専門家は、10年以上前から今日の凋落を予想して、警鐘を鳴らしてきたで、まったく驚いていない。ただ、無念に感じるだけである。日本にとって悲劇的なデータは好まれないので、見て見ぬふりをされがちである。メダルラッシュに沸く報道に水を差すようで、こうしたまじめで深刻な事実はスルーされてしまう。この結果は、研究開発費の多くを支出している企業における戦略が、基礎的な研究から資金をシフトしてしまったことが要因の一つである。また、深刻の度を増している大学の疲弊が、時間とマンパワーと費用をかける必要のある独創性のある研究への取り組みを困難にしていることも要因である。特に、有望な学生が博士課程への進学を回避するようになって久しく、大学の研究体制があまねく弱体化していることが、こうした結果の根本要因であろう。

 

 

以上のことは、安宅和人氏の「シン・二ホン」(News Picks Publishing)にも、論理的に詳しく記述されているが、実は、そこに記された見解は、10年前から科学技術政策に関する関係者には共通認識として共有されていたと思う。それにも拘らず、インドにも抜かれて、悲劇的なデータを目の前にして、結局、「変われない国」だという苦い思いがこみ上げるばかりである。安宅氏の指摘はまさに正鵠を射ており、「G7で初めて引退した国になった」と外国人から揶揄されても仕方がない。私自身はシニアの仲間入りをした人間だが、「老人を生かさんがために、若者を犠牲にするような国に未来はない」(安宅氏が引用するローマの将軍マルケルスの言葉)という箴言に心から共感する。

 

 

政策を転換するには、強い政治的意思が必要である。与党でも野党でもよいが、科学技術指標2021の結果を踏まえて、逆襲のシナリオを描く政治家にぜひ未来を託したい。このままでは、日本は引退どころか沈没するしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月 2日 (木)

地方国立大学は地域で経営してもらったらどうか?

 

 

中教審の大学分科会は、「魅力ある地方大学を実現するための支援の在り方について」という中間的なペーパーを8月に公表したが、中身を見ると、設置者としての国の責任は棚上げして、地方自治体や地域の産業界によって、魅力ある大学の実現シナリオを作ってほしいというメッセージになっている。

 

 

現在の地方国立大学の成り立ちは、戦前に置かれていた教育機関を県単位で束ねたものが多い。地方にあるからと言って、新構想に基づいて設置されたものは、厳密には地方国立大学とは言えないが、自ら定めたミッションによって、地方色を強めて生き残り戦略を展開しているケースもあるだろう。文科省の方から見れば、学問の自由を尊重するゆえに、教育研究の内容に関して、あれこれと注文はできないし、財務面での支援・誘導も思うに任せず、結局、国立の性格が希薄化していく一方である。真に魅力ある大学づくりへの支援を検討するならば、設置者として国の責任が前面に出るべきだが、それについてはペーパーではスルーされている。今まで以上の支援は、現実的に見込みがないということだろう。これまでも、予算が終われば継続は困難だというものの、地域貢献プロジェクトへの支援によって、一定の特色ある教育研究の姿は見せてきたと思われる。ただ、打ち上げ花火のような時限付きの取り組みを繰り返しても、成果を上げ続けることができないので、地方自治体等に、口も出しつつカネも出すことを促そうとしているのが、このペーパーの趣旨である。

 

 

地方に任せるなら、国は一切注文を付けずに、白紙で丸投げすればよいが、地域課題の解決、地方創生への貢献、イノベーションの創出、人材育成での連携協働、SDGsの実現など、言わずもがなのポイントを、もっともらしく挙げている。挙句の果ては、「地域の産業社会構造をグローバル・DXに導いていくような人材育成」をするなどと、地域の枠を遥かに超える目標さえ、述べている。気宇壮大は結構だが、絵空事はやめた方が良い。国立大学は、県域を越えて入学することに制約はないので、地方大学を卒業しても、人材として当該地域に残るとは限らない。稀には、世界で大活躍しているスーパー人材もいる。道州制の検討が進んでいた時代には、国立大学を道州の単位でグループ化して、地域主導で教育研究体制の再構築を検討するというような構想もあったはずだが、都道府県の単位で、学部学科構成が固まっている地方国立大学を社会のために活かす計画を立案することは容易ではなかろう。

 

 

そもそも国家・国民に奉仕することを使命とする国立であることと、県単位の人材育成や産業育成への貢献という役割との間には、相容れない面がある。もしも、文科省が、地方国立大学を、専ら都道府県単位の課題に取り組むべき存在だと位置づけるなら、経営自体を都道府県に委ねたらよい。その上で、県立大学等との統合による新たな大学のかたちを構想してもらったらよい。国は、設置者の立場は捨てて、財政支援などで、転換された地方国立大学を間接的に応援すればよい。国立として形式的には抱え込みながら、地域の教育研究機関としての性格を強めるのは、アクセルとブレーキを同時に踏むようで、政策的な矛盾である。ペーパーを作成した大学分科会には当然分かっているだろう。もっとも、魅力のない国立大学は引き受けてもらえないかもしれない。その時は、国立大学法人として解散するのも良かろう。地方国立大学は、それくらいの覚悟を持って自己改革していかないと、地域のお荷物にさえなってしまうだろう。

 

 

 

« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »

最近のトラックバック

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ