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2018年6月

2018年6月26日 (火)

高等教育のグランドデザインについて勝手な案を作ってみた(5)

上記のカテゴリーに属する大学の入れ替えは、定期的に行えばよい。第1カテゴリーの大学であっても、すべての教育組織が強力であるとは限らない。選択と集中で評価を高めるための自己改革が欠かせない。情報通信による遠隔教育を積極的に取り入れて、移動時間に隔てられているキャンパスの距離を乗り越える教育機会を保障できれば、再編された大学群の教育力は格段に強化されるだろう。学生本位の学びのスタイルへの改革も併せて推進する必要がある。AIの発展によって雇用の未来に大きな変化が予想されている今、大学教育の在り方にも大きな危機と新たな機会が訪れようとしている。20世紀の工業化社会への人材養成を担った大学の構造を、新しいモデルに変革するのは今である。2018年の将来構想とは、本来そうした変革の道標となるものではないか?

高等教育のグランドデザインについて勝手な案を作ってみた(4)

これによって、想定される大学再編の動きは次のとおりである。もちろん、枝葉末節については様々な変化がありうる。

 

(1) 1カテゴリーを目指す大学の候補は、旧帝国大学、東工大(又は4大学連合)、早稲田、慶応義塾等になるのではないか?筑波大は、大学院の規模が学部に比して小さいので、このカテゴリーにはなりにくいのではないか?

 

(2) 地方の国立大学、公立大学の大半は、第2カテゴリーの中核大学の候補になるのではないか?第2カテゴリーの私立に関しては、規模、地理的環境、分野、教育の質で、優れたもの(13道州で各5~6校か?)だけが選別されるのではないか?国立大学については、地域ごとに1法人に統合される(大学としては統合しない)のではないか?

 

(3) 第3カテゴリーについては、旧帝国大学等から切り離された学部教育については、束ねて1法人の下に2~3の大学としてまとめるのではないか?国立では、東京芸大など限られた特殊なものだけが、このカテゴリーに入るのではないか?私立に関しては、総定員8000人以上の大規模なものが、このカテゴリーに入るのではないか?規模拡大のために統合するケースもありうるのではないか?

 

(4) その他の大学については、中期的に経営が立ち行かなくなり、統廃合の対象になるのではないか?小規模といえども教育の質が担保されているものは、第2カテゴリーの大学に再編される可能性があるのではないか?

 

高等教育のグランドデザインについて勝手な案を作ってみた(3)

(4)その他の大学は、機関補助の対象とはしないが、激変緩和の観点から完全廃止までの経過期間を設ける。経営状態が悪化している大学に関しては、基準を踏まえて特定し、事業承継、学生募集停止等に至るプロセスの管理を行う。

 

(5)個人補助に関しては、基本的に、すべてを低利子の所得連動返済型ローンに統一する。フィナンシャル・プランナー等による相談を経て、学納金と生活費の全額まで借りられるようにする。返済に関しては、自己破産によっても義務が残るという設計にする。保証人は不要とする。返済不能となるリスクは、最終的に国が負う。給付型は、貧困かつ優秀な学生に限定して、生活費も含めて優遇する。機関補助の中に、学生個人に対する支援予算も積算して、使途は大学が自由設計可能にする。特に、大学院への進学を重点支援することを推奨する。質保証の基準に達しない大学に入学した学生に関しては、個人補助の対象外とする。入学後の基準未達は当該学生への支援には影響させない。

 

(6 外国人労働者については、単純労働も含めて制度設計し、外国人留学生の労働時間は抑制する。学納金に充てる手持ち資金が不足している者は、稼いでから大学に入学するよう促す。

 

以上を骨子とするグランドデザインにより、次のことを実現しようと目論んでいる。欲張りすぎているかもしれない。人口減少の影響で長期的に不況業種となっている大学という教育サービスが、このまま放っていくと世界との競争にも時代の変化にも後れを取ることが目に見えているので、文字通りの構造改革が必要だと考えるからである。文部科学省は相変わらず項目ごとに改革テーマとして扱う姿勢のようだが、それでは到底遅れを取り戻せないのではないか?

 

(1) 重点支援による世界トップレベルの大学の強化。

 

(2) 大学院重点大学(研究を重視)と学部重点大学(教養教育を重視)の峻別。

 

(3) 高度専門人材とは博士・修士であるとする線引きの明確化。

 

(4) 国・公・私立を総合した地域の高等教育機会の保障。

 

(5) 特色ある単科大学の法人統合による経営の強化。

 

(6) 国・公・私立を通じたカテゴリー別による公財政負担の共通基盤化。

 

(7) 機関補助、個人補助の役割・機能の整理。

 

(8) その名に値しない大学の退場プロセスの整備。

 

(9) 外国人専門人材の育成による国内定着への貢献。

 

(10) 大学質保証の実態化。システム化による「標準」としての定着。

 

(11) 2025年以降を見据えて国立大学の分野ごとの収容定員の見直し

高等教育のグランドデザインについて勝手な案を作ってみた(2)

次に示すグランドデザインは、上記の種々の問題を総合的に解決する手段として描いたものである。誰と相談したものでもないので、勝手な案である。大学関係者から、この部分には絶対反対という反応も予想される。これで合意をとろうというのではない。危機感を共有して解決に向かう議論のベースになればよい。そもそも関係者から賛成の声ばかり出るような試案では改革のきっかけにならない。反対の論者は自身の案を示せばよい。文部科学省もリスクをとらないから、地味な官庁だのダメな官僚だの言われるのではないか?

 

(1) 世界の大学ランキングで100位以内を目指す大学(第1カテゴリー)は、学部教育の規模を大学院の半分程度に縮小して、大学院に重点化する。ただし、医・歯・薬学の規模は現状維持とする。学部入学者は、基本的に大学院博士課程(又はMBAのような修士課程)に進学する。大学院を途中でリタイアする場合は、修士の学位を授与する。大学院の課程に関しては、基本的に国際認証(またはそれに準ずる評価)を受ける。それに値しない課程は、廃止するか、別カテゴリーの大学に移管する。なお、他大学から大学院の課程を統合するなどの再編も推進する。第1カテゴリーの大学(再編後)は10程度とする。何らかのランキングで200位以内に入っていない大学は対象外とする。国は、機関補助の形で重点支援する。

 

(2) 地域の中核大学グループ(国・公・私立)については、域内の教育機会の確保に責任を持たせる。地方自治体を含む協議会を設けて計画を策定して、域内の大学の役割分担、整理統合を進めるとともに、空白域が生じないようにサテライトの設置などにより、教育機会を保障する。私立に関しては、教育の質の観点から、域内の大学のうち、真に中核とするにふさわしいものに限定する。地域については、全国を13程度に分割する道・州を基本単位とする。中核大学は、地域に必要な人材供給を目的として、学部・学科構成を調整・再編する。大学院も、地域人材の観点から分野・規模を適切に絞り込んで再編する。なお、学部卒業後、第1・第3カテゴリーの大学院に進学する可能性を開く。以上の地域の中核大学は、第2カテゴリーの大学とし、機関補助の準重点対象にする。公財政支出を充実する以上、私学であっても人件費を含めて経営の自由度は制限される。

 

(3) 全国から学生を集めている大規模な私立大学、特定の専門分野を担う国立大学(第1、第2カテゴリーに入らないもの)については、第3カテゴリーとして、専門人材育成の中核大学と位置付ける。後者の国立大学群は、1法人の下に統合して、強みを生かした独立性のある大学として運営する。このカテゴリーは、機関補助の対象にする。ただし、質保証の観点で基準を満たさない学部・学科は、対象から除外する。このカテゴリーの私学経営への関与は強まることになるので、それを嫌えば、その他カテゴリーを選択する可能性がある。第1カテゴリーから切り離された学部教育部分を幾つかに束ねて教養教育を担う大学群として1法人に再編する場合は、第3カテゴリーとすることがありうる。

高等教育のグランドデザインについて勝手な案を作ってみた(1)

中教審大学分科会の論点整理(20162月)には、次のような問題があると感じていた。間もなく出る予定の将来構想部会の中間まとめにも、同様の問題があると思う。

 

(1) 大学・大学院の分野ごとの収容定員について考え方を示していない。

 

(2) 国・公・私立の役割分担について考え方を整理していない。

 

(3) 高等教育機会の地域のバランスに関して考え方を示していない。

 

(4) 財政負担の在り方に関して考え方を示していない。

 

(5) わが国の大学・大学院の質保証について考え方を示していない。

 

本質的な問題から逃げていても、産業界等から突き付けられている大学改革への的確な答えにはたどり着けない。また、文部科学省自身が主導権を握ることもできない状況に陥っている。官邸の威光を利用して介入されるのを、長いものには巻かれるしかないと半ばあきらめつつ、あわよくば骨抜きにしようと受け身の姿勢を貫いているだけである。いつになったら主体的に行動するのだろうか?

 

大学改革について、私が常々感じてきている構造的な問題を列挙すれば、次のとおりである。グランドデザインでは、これらの課題への解決策を一巻のシナリオとして提示しなければならない。それだけに、皆がハッピーになる答えにはならない。

 

(1) 世界の大学ランキングで、わが国の大学の評価が下降している。研究力の低下が最大の原因であるが、言語も外国人の参入障壁となっている。

 

(2) 人口減の地域では、充足率が低下して経営困難に陥る私学が増えている。人材の首都圏等への流出が止まらない。

 

(3) 大学の名に値しない教育内容に陥っているものが排除されていない。質保証システムが真に機能していない。

 

(4) 外国人留学生制度が、外国人雇用の抜け穴として利用されている。本来、大学・大学院は、外国人の専門人材を育成して、わが国に定着させる役割を担うべきである。

 

(5) 財政支援に関しては、機関対象、個人対象とも国立に偏しており、家計負担が重くなりすぎているために、対象者を広くとる所得連動返済型のローンの導入が検討されている。また、貧困層には給付型で進学を支援する方針である。しかし、こうした検討において、国立偏重の財政支援への変革はあまり意識されていない。

 

(6) わが国では大学院の社会的な価値が高まらない。かたや海外に出た際には、博士・修士の学位を有していない者は、一人前と認められない。

 

(7) 国立大学の学部・学科の構成・規模は、今日の人材需要に必ずしも適合していない。大学任せでは既得権が打破できないため、根本的な変革ができない。

2018年6月23日 (土)

給付型奨学金の拡充は何をもたらすだろうか?(2)

最も懸念されるのは、私立大学への進学に関して、授業料、施設整備費等とも、満額は支給されず、所要額との差額が自己負担になるという点である。私立大学では在学中の天災等による家計の変化には学納金の半額免除等の措置で対応しているが、入学時から授業料免除などの特例措置を適用するのは、特別な才能を有する学生のみが対象である。また、生活費への支援が視野に入っているのはよいが、いまだに「所要額を精査する」という結論である。この主語は、役割を終えた専門家会議ではないだろう。住民税非課税世帯の子供ならば、就職を選択すれば直ちに給与所得が期待できるので、それを捨ててまで大学等への進学を選択するには、よほど手厚い支援が必要なのではなかろうか?さらに、年収300万円未満世帯には3分の2、年収380万円未満世帯には3分の1を支給するとしているが、私立大学の初年度納付金は文系でも100万円を優に超えており、家計年収を前提にすれば負担分が大きすぎるのではないか?この差額をJASSOの貸与奨学金で埋めるというのでは、結局、程度の差こそあれ、学生ローンに依存して進学する現状が維持されるだけで、無償化の理念を放棄するに等しいのではないか?

 

支援対象者の要件は、総じて厳しいものになっている。家計には経済力がないのだから、支給を停止されれば、退学・除籍は免れない。休学には至らないが、心身の故障があり単位修得が遅れた場合、努力するものの成績が下位4分の1から上がらない場合など、個々には種々の事情があると思われるが、従来の奨学金システムの運用上の経験則に依拠して、バッサリと切り捨てている印象を持つ。大学時代の成績が社会に出てから、そんなに意味を持つだろうか?修業年限で卒業できないのは本人も困るだろうが、大学等にも教育面での支援を求めて、最後の最後までチャンスを与えるべきではないのか?貧困の連鎖を断ち切ることが目的であれば、とことん切り捨てられる身になって制度設計に当たってもらいたかった。この制度が誕生することで、始めて大学等への進学の道が開ける子供たちからの声は、本当に聴き届けられたのだろうか?

給付型奨学金の拡充は何をもたらすだろうか?(1)

6月14日付けで、文部科学省から、「高等教育の負担軽減の具体的方策について」という報告が公表された。これは、同名の専門家会議によるもので、昨年12月8日の「新しい経済政策パッケージ」(閣議決定)に示された「真に必要な子供たちに限って高等教育の無償化を実現する」という方針の具体化に当たる。専門家会議には、奨学金政策に精通した専門家というよりも、業界の代表者6人が参加している。「無償化」ではなく、「負担軽減」に表現が後退していること、措置対象の大学等の具体的要件が明確化されたことが特徴である。

 

貧困の連鎖を断ち切るために、所得が低い家庭の子供たちを支援するならば、文字通り「無償化」しなければ、高等教育への進学は難しいのではないか?予算が限られているからと言って、「負担軽減」で進学できるくらいならば、真に必要な子供たちに限ったことにならないだろう。また、大学等の要件として、実務経験のある教員が担当する科目が1割以上、理事のうち2人以上を外部から任命、成績管理の厳格性、経営情報の開示の4点を求めているが、経営指導の対象であり、かつ、継続的に定員充足率が80%未満の大学等は、対象外とするようである。経営状態が悪い私学の救済措置ではないことを明確にする意図かもしれないが、この施策で進学が可能になる子供たちの事情を踏まえた条件設定なのだろうか?彼らにとっては、4点の大学等の要件や大学の定員充足率は、肝心の教育の質保証とは関係ない些末な話に聞こえるのではないか?専門家会議の結論は、閣議決定の詳細に過ぎる条件設定を、実質的に骨抜きにしようとした結果なのかもしれないが、貧困の連鎖を断ち切るという崇高な理想から出発した政策が、大学への介入という別の意図に利用されるばかりで、無償化の恩恵を被るべき子供たちの立場がどれほど顧みられているのか、甚だ疑問を持つ。

2018年6月15日 (金)

これで将来構想なのか?

中教審大学分科会将来構想部会の「今後の高等教育の将来像の提示に向けた中間まとめ(案)が文科省のホームページに公表されている。6月下旬には、案が取れて正式な中間報告がなされるはずである。中身が残念な内容なので、コメントは短くしたい。

 

多少はスパイスの効いた内容が期待されたが、当事者意識が希薄な評論家の作文のようである。統一したヴィジョンもなく、委員の個別的なアイデアを適当に書き散らしたという印象である。文科省高等教育局の劣化の表れと受け止めるしかなかろう。何しろ、問題解決策が示されていないのだから、おかずのない弁当のようである。コンサルタントなら契約を打ち切られている。

 

例えば、地域の高等教育機会の保障の枠組みについて、地域の単位を決めかねるというのだから、何をか況やである。ああでもない、こうでもないと、遊んでいる暇はないので、「決める、進める、自民党」というキャッチコピーをポスターにしている与党の方々に決めてもらったらどうか?具体的な施策らしき、学位プログラムについては未だに本格導入への道筋が描けず、大学連携推進法人の中身も不明である。会議のお世話などしなくていいから、国家公務員だけで早く詰めたらどうか?議論百出する論点には、きわどい球を投げて、社会の各方面の反応を見てから、施策を最終的に選択するというやり方もある。「中間まとめ」だけに、世の中の議論を喚起するインパクトのある仕掛けをしようとは、少しも思わなかったのだろうか?

 

学外理事複数制だけは、やけに具体的だが効果のほどは全く検証されていない。教育無償化(私学への進学者は差額負担が必要な設計で無償とは言えない)に伴って、学外理事複数制を強行する模様だが、理事長のお友達を入れるだけなら意味のない「改革」だろう。産業界が使えない社員を処遇するために、大学に理事ポストを確保したいだけではないか?そんなつまらない話に、中教審が付き合う必要はない。

 

今さら言っても仕方がないが、重点課題を設定して、その解決策のAからZまでを詰め切らない限り、報告書を出さないことにすればよい。時間がないから中身のない文書を出していると、文科省、中教審の看板に泥を塗っているのと同じである。

 

 

2018年6月12日 (火)

文科省の変化はどこが興味深いか?(2)

文系理系の区分を弱める試みは、従来から大学側でも行われている。東京大学では入学後の進学振り分け制度を維持しているし、九州大学では、文理融合型教育コースの流れをくむ共創学部を設けている。ただ、学部レベルでの文系理系の二刀流はカリキュラム編成も大変で、現実的には学生にとっても履修が難しい。学部レベルは幅広く学べる機会を保障して、大学院レベルになって専門を深堀する、2分野の学位取得も可能とする方が、現実的ではないかと考える。学部レベルの促成栽培に、さらに文理融合を持ち込むのは、無謀・無理ではないかと危惧するからである。大学院博士課程の充実は、喫緊の政策課題でもあり、そこに目が行かないのはなぜだろうかと感じる。学部レベルの教養教育の充実は、新たな教養部の復活(又は学位プログラム制による全学出動?)の議論が避けられない。学位プログラム制に関する文科省の立ち位置も曖昧な状態が続いており、政策判断として、目標と手段をどう整理して実現に向かうのか問われることになる。

 

さて、後半の部に入りたい。まず、個人データを含めて学校教育が保有するビッグデータを積極的に利用させるという姿勢は大いに評価すべきである。これまでの文科省は、学力テスト結果の公表の在り方を始めとして、非常に慎重な姿勢が目立っていた。それが転換されるなら、それだけでも、今回の政策提言には価値がある。セキュリティ対策を含めて、データの蓄積・利用の具体的システムの設計をどうするのか、実務的な課題は多いが、この提言を、始めの一歩にして前に進んでほしい。次に、情報通信を活用したオンラインの教育について、超エリート教育への偏りはあるものの、極めて積極的な姿勢を打ち出している点に、重要な変化を感じ取ることができる。5G時代を迎えて、大学を含めて授業のオンライン受講への道が広く開かれることを期待したい。そのためには、文科省が柔軟な発想で推進役を務める必要がある。最後に、わが国の超エリート層のあるべき進学・就業パターンを、超エリート高校(WWL)→海外の一流大学→海外の一流大学院→グローバル企業(いわゆる日本企業とは限らない)と設定している点が、極めて刺激的である。日の丸命と見られがちな文科省が、ここまでリベラルな姿勢を示して、日本の有力大学をスルーしているのは、これまでになかったことで、特に国立大学関係者には強烈なインパクトになるだろう。以上の3点は、前半に指摘した種々の欠点を補って余りあるポイントである。この提言が、参画した文科省の近未来を担う課長クラスのモチベーション・アップにつながるとともに、上記3点に関連する施策が力強く実行されることを大いに期待したい。

 

 

 

 

文科省の変化はどこが興味深いか?(1)

6月5日に文科省から、「Society5.0に向けた人材育成」と題する大臣懇談会・省内タスクフォース名の政策文書が公表された。中教審のようなお座敷とは異なり、多少思い切ったことを言うのではないかと思いながら、目を通してみたが、些かおとなしい印象ではあるが、変化の兆しを感じ取れるものになっている。メンバーの構成が初等中等教育に偏っているために、高等教育の視点が弱いとも感じる。まずは、突っ込ませてもらってから、後半では興味深い点を指摘してみたい。

 

最も違和感を持ったのは、今求められているAI開発やビッグデータ活用事業の最前線で役に立つ即戦力を育成する必要があるはずだが、答えが初等中等教育の施策になっている点である。短期的な人材育成には、大学院博士課程の拠点強化が真っ先に思い浮かぶが、大学入学前の文系理系の分離の是正から取り組むというのである。将棋で言えば、駒組みからやり直さないと求められている専門人材は育成できないということだろうか?

 

新たな超エリート高校を60校程度作るという提案には、既にある各地のエリート校に更なる支援が行くのだろうから、今更何のためにという疑問が湧く。英語でも授業をする(中身の理解は減衰するのでは?)、生徒は海外の高校に留学する(費用負担はどうなるか?)、卒業後は海外の一流大学への進学を目指す(どれほど希望があるのか?)という高校に、魅力を感じる人はいるだろうが、文科省の政策的予算を重点配分するのは行き過ぎではないかと感じる。エリート養成を重視する傾向は、全国の高校教員から見れば、文科省がほんの一握りの生徒だけしか見ていないように受け止められる恐れがある。それも覚悟の打ち出しなのだろうか?

2018年6月 7日 (木)

情報通信技術の発展で大学教育はどうなるのか?(3)

さて、モジュール化された知識体系を学習しやすい形で提供することに、情報通信の高度化は大きな武器になるが、AIが種々の職業にとって代わる時代には、大学はどのような戦略で生き残っていくのだろうか?恐らく単一の正解はない。更なる知識を求めて冒険の旅を行う学術研究の場を提供するもの、既存の知識を活用して社会的な価値の創造に挑戦する力を身につけさせるもの、AIに代替されにくい職業・資格の技能を含む基礎力を与えるものなどが考えられる。スポーツや芸術文化等、教育課程以外の魅力で学生を引き付けようとするものもあるだろう。あるいは、学部レベルでは、実社会では役に立たない古典的な教養教育に立ち返るものもあるかもしれない。職業・資格が目的ならば、むしろ専門学校のような場がふさわしいからである。外国語の習得に時間を費やす必要がなくなれば、一人で2つ3つの専門を習得することも、それほど難しいことではなくなる。通信で学習するのが当り前になれば、大学の同窓生の人格的な紐帯を強化するために、オックスフォード大学のような学寮制に未来を求めるものもあるだろう。その姿は、大学の先祖返りのようである。最も長い歴史を持つモデルが、21世紀の最新型の大学なのかもしれない。他方、マンモス大学には、教育機関としての特色・個性や同窓生の文化・価値の共有というような存在の意味が薄くなる。高度成長時代に高等教育の急拡大の受け皿として成功した日本の大規模私学モデルには、歴史的な試練が待ち構えているのである。○○大学らしさとは何か、学生をどのように導くのか、18歳人口の減少に苦しむ中で、いよいよ問われる。5G時代は、大学教育のモデルを革新するために活用しなければならない。それに気が付いている大学の経営者がどれほどいるだろうか?

 

 

情報通信技術の発展で大学教育はどうなるのか?(2)

コンテンツの充実は、他大学、大学以外の教育機関のコンテンツを連携協力によって導入することで可能になる。理屈の上では受講者数に限界はないが、評価に基づき単位認定を行う以上、現実には自ずと限界はある。モジュール化した知識体系に関しては、ほぼ完璧にテレラーンで代替可能であろう。もし、参考文献・動画なども添付できれば、5Gの授業は電子図書館のような機能も持つことになる。学生にモチベーションさえあれば、学習効果は上がるだろう。通信を個別指導に生かすことも可能である。男性教員が研究室において1対1で女子学生を指導するのを避けるには、非常に優れたツールになる。教員も学生も、お互いに時間を効率的に使える。こうしたパーソナルな接点を増やすことも、通信を利用すれば容易である。学生との個人対個人の接触が多くなれば、一人一人が何を考えているのか、何に悩んでいるか把握しやすくなり、中退・除籍率の抑制にも効果があると考えられる。

 

経営面からは、文部科学省が煩いことを言わなければ、コスト削減効果が期待できるとともに、遠隔地の学生や多忙な社会人を取り込みやすくなる。大学間の単位互換も進めやすくなる。通信により、多くの人の目に触れることになれば、授業内容が教員の価値を決めることになるので、手を抜けなくなる。学生からのアンケートと突合すれば、授業の良しあしは容易にあぶりだされるので、究極のFDの機会になる。また、そう遠くない将来、自動翻訳ソフトが普及すると予測されるので、通信に乗った授業は言語の壁を越えて流通可能になる。そうなると、学習の導き手としての教員の真の実力が試される。一人一人の教員の授業評価のランキングさえできてもおかしくない。学習塾や予備校のようであるが、学生から人気のある教員は特別の待遇が当たり前になり、優秀な教員の引き抜きもありうる。

情報通信技術の発展で大学教育はどうなるのか?(1)

間もなく5Gの時代がやってくる。大学教育はどう変わるだろうか?中期的には、これまでの授業コンテンツが最新技術の翼に乗ることで得られる恩恵に浴することになると思うが、その先では、AIの高度な発達による幅広い知識依存型の職業の消滅を考慮せざるを得なくなる。特定の知識体系を教え込むことに注力してきた大学教育は、大きな曲がり角を迎えることになる。

 

まず、情報通信技術の恩恵に浴する話をしたい。大学が賢く立ち回れば、学生は教室に来て授業を受けなくてもよくなる。テレワークならぬテレラーンが可能になるはずだからである。学生にとって利便性が増すとともに、テレワークのメリットである大学施設面積の削減が理論的には可能になる。タイムシフトでの視聴も可能にすれば、履修の自由度は更に高まることになる。ただし、コンテンツの使い回しを許せば、教員の人件費を節約しようという経営側の動きを誘発するので、基本はライブ視聴になるだろう。授業の中では、スマートフォンを使って学生からの応答を求め、きちんと理解しているかをチェックするような工夫もするだろう。学生はゼミのような場と実技科目以外は、テレラーンで学習するかもしれない。大学には、図書館等の施設を利用したり、大学の友人と会ったり、スポーツ等のサークル活動に参加したりするために来ることになる

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