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2011年5月

2011年5月27日 (金)

規律の文化と起業家精神

「ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則」に基づいた話を続けたい。テーマは、対立する関係にある規律の文化と起業家精神を組み合わせた組織をどう作るかということである。この2つがともに低い組織は、官僚的組織であるとされる。官僚的組織は、規律は高いのではないかと考える向きもあるだろう。しかし、著者のコリンズ教授は、自ら規律を守り、規律ある行動をとり、「針鼠の概念」に従って戦略的に合理的な行動をとる企業文化を規律の文化と定義しており、官僚制度は規律の欠如と無能力という問題を補うためのものと理解している。しかも、規律の文化には、一貫性のあるシステムを守るとともに、システムの枠組みの中で自由と責任を与える2面性があるとしている。

「針鼠の概念」については、少し説明を要するだろう。コリンズ教授によれば、自社が世界一になれる部分、経済的原動力になるもの、情熱を持って取り組めるものという3つの円の共通集合を組織として理解することを、針鼠の概念が確立しているという。針鼠は、さえない動物だが、肝心な時に針を立てるという単純な一貫した行動で身を守ることを知っている。このような理解は、戦略や目標の前提になる。コリンズ教授のいう規律の文化の中核に、針鼠の概念が位置するのである。大学の場合は、世界で1つしか生き残れないという競争環境に置かれているわけではないので、世界一という部分は、条件を緩和して考えるべきであろう。また、生み出しているものが経済的価値のみではないので、原動力は総合的な価値で判断すべきだろう。そのような修正を施せば、針鼠の概念は基本的に大学経営にも有効であると思う。しかし、多くの大学人は、自分たちの大学がどのような針で身を守るのか知っているだろうか。

国立大学に規律の文化があるかと言えば、過去に比べて少しは進歩してきたとは感じるが、いまだ十分ではなく、総じて否定的にならざるを得ない。大学の教育研究組織は、本来は起業家的組織のモデルで会ってもよいと思うが、起業家精神を持って実際に新しいことに挑戦している研究者は少数である。やはり一部の例外を除いて官僚的組織の性格が色濃いと思う。特に、自ら規律を守り、規律ある行動をとることは、これまで長きにわたって求められて来なかったようで、根付いていない。最近になって、コンプライアンスの徹底に悩みを抱える大学が増えていることからも、規律の文化が強調されなければならないと感じる。しかも、部局を超えた大学全体としての針鼠の概念が確立しているようには見えない。そもそも針鼠の概念が大学における学問の多様性を損なうのではないか、研究者という人間像は規律の文化になじまないのではないかという見方もあるだろう。しかし、私の知る限り、学問業績を上げ続けている世界的な研究者は、極端なほど勤勉で、驚くほど徹底して研究という仕事に取り組んでいる。彼らは規律の文化を間違いなく持っており、一人一人がビジョナリー・パースンであると思う。しかし、組織が大きくなればなるほど、規律の文化は確立することが難しくなる。

翻って大学職員について考えてみると、こちらも個人差が大きいが、規律の文化は全体としては不十分だと感じる。仮に規律を守ることができている場合も、主体的に行動すること、自由と責任を生かすことができていないのではないか。まず、針鼠の概念を確立することの意味を理解することから始めなくてはなるまい。そのためには、自らが属している大学の強みと弱み、機会とリスクに対して正しい認識を持たなければならない。大学職員の多くには、目標とする大学をベンチマークして自らの大学の課題を検討するというような視座が欠けている。こうしたことをワークショップのような機会を作って実践してみると良い。その上で、個人個人が当事者意識を持って主体的に行動できるように訓練しなければならない。

大学職員の業務は定型化されたものが基本であり、若手職員はそのルーチン作業をマスターすることから始める。ただ、こうした地味な仕事をおろそかにする、より高いレベルの業務目標を持とうとしない若手職員もいるようである。こんなものだと仕事をなめてしまうと成長を止めてしまう結果に陥る。こうしたことを防ぐためには、早めに大学経営の俯瞰的な視座を持たせて、針鼠の概念を共有させる機会を作ることが必要である。若手の人材育成と組織文化の変革を並行して進めると効果的であると考える。なお、業務をこなすために、官僚組織的な管理が前面に出て来る癖には注意が必要である。管理職は自重して行動しなければならない。規律の文化への取り組みは、組織全体を官僚組織のように管理強化するということとはまったく違う。コリンズ教授が規律の文化について示している、主体性や自由と責任にかかわる当事者意識を、職員に根付かせることが大切なのである。この違いが分からないと、管理職は務まらないだろう。

2011年5月24日 (火)

意志の強さと謙虚さ

「ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則」では、第5水準のリーダーシップという概念が出てくる。第5水準とは、事実から導かれた、経営者の能力の最高水準を意味する。コリンズ教授は、第5水準のリーダーシップには、職業人としての意志の強さ、個人としての謙虚さの二面性が必要であるとしている。私たちが想像する米国企業における経営者のイメージは、野心が人一倍強く、特別な才能に恵まれており、カリスマ的な個性を持つ人物ではないだろうか。著者はそのイメージを覆す意外な分析結果を提示しているわけだが、謙虚さについては、日本社会において最も重要な美徳の一つとされているため、当然に尊敬されるリーダーには欠かせない資質だと受け止められるだろう。したがって米国ほどには意外ではない。

我が国の教育組織のトップ、例えば、国立大学の学長・副学長・学部長等の役職員も大半の方は、十分な謙虚さを備えておられる。しかし、もう一方の意志の強さに関してはどうだろうか。どれほど困難であっても、長期にわたって最高の実績を生み出すために必要なことはすべて行うという固い意志を示している方は、極めて稀ではないだろうか。もちろん、世界企業のトップと比べれば、在任期間の長さが違う、権限と責任の大きさが違う、経営者としての経験の蓄積が違う、教員という職種の管理が特に難しいなど、言い訳にしたい点は探せば幾つもあろう。ただ、我が国の国立大学の変革のスピードが十分とは言えない重大な要因の一つは、変革への強い意志がトップ層にも一般の教員にも不足していることではないかと感じるのである。

特に私が懸念している点は、規模の拡大が行いえない状況の下で、全国の国立大学において教育研究組織全体を視野に入れた根源的な再編が遅々として進まないことである。教員にとって所属組織の改廃は死活問題になる。自分たちの部分社会の利益を最大化しようとするため、全体最適を目指した計画が学内のあちこちで抵抗にあって、実質のある取りまとめに至らないのである。私が経験した事務組織の再編でも似たような反応が職員の一部からあったが、幸いにも大きな反対のうねりには至らず、再編の考え方や必要性について職員全体に共有することによって、予定通りに実行することができた。教員組織については、意欲を持って検討を始めるものの1~2年で成果を出すことは非常に難しい。学長の任期満了とともに、それまで継続検討されてきた案はいったん棚上げになる運命である。グローバル競争に勝ち残る大学を作るならば、誰が考えても組織再編による競争力強化は避けて通れない。わが国大学の国際的比較優位が失われつつある現在、未だに変革が停滞していることから、既に時間切れで機会は失われた感がある。

第5水準のリーダーは、成功を収めたときは窓の外を見て、自分以外に成功をもたらした原因を見つけ出す、結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考えるという。こういう人になら、どんな茨の道でも喜んで付いていこうと思う。単に敵を作らないだけで組織のトップになったような人とはものが違うからである。3月11日以降の原発事故やその処理を巡っての混乱を眺めるにつけて、第5水準のリーダーは存在しないのかと無念に思う。我が国の不運は、災害をもたらした巨大な地震や津波ではない。頼りにできる人材がいないことである。プロフェッショナルとしての私たちの目標は、意志の強さと謙虚さを兼ね備えることだと思う。

2011年5月21日 (土)

正しい人をバスに乗せる

このタイトルを見て、出典にピンと来た人は多いかもしれない。古典的ともいうべき「ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則」(コリンズ・日経BP社)がもとである。偉大な企業への飛躍を導いた指導者は、「だれを選ぶか」をまず決めて。その後に「何をすべきか」を決めると述べられている。しかも、人事の決定は厳格で、疑問があれば採用せず、人材を探し続ける。人を入れ替える必要があることが分かれば、行動する。最高の人材は最高の機会の追求にあて、最大の問題の解決にはあてないとされている。なお、適切な人材の基準は、専門知識、学歴、業務経験よりは、性格(=姿勢と考えたい)と基礎的能力によって決まるのだという。

都内某大学での若手リーダーシップ研修において、この書籍を課題図書として参加者に読んでもらったところ、「だれをバスに乗せるか」という章に最も興味を持ったという人が多かったと記憶している。大学では、往々にして教職員人事は妥協の産物で、法人役員にしても事務局幹部にしても、権限を持つ人材がすべて正しい選択であったという前提には立てない実感があったがゆえに、そうした反応につながったのだろう。

国立大学法人については学長に教職員の人事権が集中しており、実際には権限の一部を任せないと人事が回らないわけだが、強い意志さえあれば、正しくない人をバスから降ろし、正しい人をバスに乗せることは可能である。ただ、すべての学長がビジョナリーカンパニー②を読んでいるかどうかは疑問で、私が教えた若手職員でも知っているマネジメントの知識を持っていないのかもしれない。あるいは、知識としてはあっても、実践するにはリスクを背負って筋を通さなければならないが、学内のしがらみで、それができないでいるのかもしれない。

制度に人材が追い付いていない傾向があるのであれば、制度を使いこなせる人材を養成するしかない。学長を補佐する立場、例えば、理事、副学長(理事と兼ねる場合が多い)、学長補佐(実務能力がある若手教授から選考されることが多い)などの経験が、大学全体の経営という視座を養う貴重な機会になる。さらに難しくしているのは、個々の教員は一般的に独立心が旺盛で、まとまりに欠ける傾向にあることである。学長(経営)が相手にしているのは、組織に雇用されている者(労働)ではなく、個人経営者の集団と考えた方が良い。したがって、常に縦割り組織への帰属意識が強く、利害に関しては部分最適の主張に流れる傾向がある。これと戦う気概を見せなければ、早晩、正しい人がバスに乗っていない状態に陥るのである。

事務局についても部局割拠ほどではないにせよ、縦割り意識が強く残っている。人事は概ね年功序列で、意欲のある若手にとっては風通しが悪い組織である。革命的にはいかないが、私は2年くらいをかけて、正しくない人を降ろして、正しいと考える人を、管理職というバスに乗ってもらうようにした。かつて公務員時代に全国の大学を管理職として渡り歩く地位を得ていた人たちの中には、新しい法人制度の中では知識や資質が管理職としてまったく通用しなくなっていた人もあったので、他大学への異動を進めて交代してもらい、学内からの立候補制による選考、学外からの公募による採用を積極的に実行して、正しい人がバスに乗っている状態を早く作ろうとしたのである。

もちろん、すべてがうまく行ったとは言えないだろう。歴史の審判を受けなければならない。しかし、もしも惰性に任せて無為に過ごしたとしたらどうなっただろうかと考えたとき、空恐ろしくなる。大げさかもしれないが、危機から目を背けて組織が腐りかけていたからである。これからも乗せたり降ろしたり、交代はあるだろうが、常に、より正しい人を乗せるために、人材を選抜し、養成し、経験させ、準備し続けなければならない。私たちのNPO法人の名称を、大学プロスタッフとしたのは、一つの大学法人でしか通用しない人間は真の人材ではない、プロフェッショナルとして組織の中で確かな専門性に基づいたリーダーシップを発揮できる人材になるべく自己研鑽していこうという意志を込めたからである。しかるべく姿勢と基礎的能力を磨いて、私たちの仲間が、正しい人としてバスに乗ってほしいと言われるようにしたいと願っている。

2011年5月18日 (水)

「仕事の報酬は仕事」って本当なのか?

社員のモチベーションを上げるにはどうするか、専門のコンサルタント会社があるくらいだから、企業でも試行錯誤を繰り返しているに違いない。そもそも、経済成長が見込めなくなり、給与ベースが上がらず、組織内のポストが不足する中で、どのような方策でやりがいを感じてもらい各自の潜在能力を最大限引き出すかという命題には、容易に解決策を見いだせない制約が宿っている。しかも、社員の側も、会社が前提としている社員像=人間観には不満を感じており、要は会社のために身を捨てるほどの覚悟など基本的にあろうはずがない。大学職員は総じて安定志向で、根拠なき楽観に基づいて転職することは少ないとは思うが、良く言えば謙虚、悪く言えば志が低い人間が、相当数を占めている。ぬるま湯体質に陥りがちな職場をどう変えるかは大きな課題である。

一般的に、社員満足度を構成する要因には、満足を強化する要因(仕事、評価、殊遇、自己の成長)、不満足を強化する要因(経営方針、対人関係、組織風土、福利厚生・労働条件、報酬水準)があるとされる(「ミドルを覚醒させる人材マネジメント」吉田寿・日本経済新聞出版社)。前者によって貢献度の高い人材に対して満足度を上げる、後者によって満足度の全体的な底支えを行うということである。

大学職員について考えてみると、集団主義的、平等主義的な色彩が濃く、満足を強化する要因については実質機能してこなかった、あるいは機能が限定的であったと思う。言い換えれば、突出したリーダーシップを発揮する人間を養成しようという考えが乏しかったということだろう。しかし、それでは大学という組織が回らなくなってきた。また、安定志向の人材だけでは、新たな業務分野の開拓、既存の業務分野の改革を成し遂げることは不可能である。したがって、採用から退職までの人材マネジメントの根本的な見直しが必要になっているのである。

コンサルタント会社に依頼すれば、社員満足度のいかなる要因に問題点があるのか、回帰分析によって数値化してくれる。職員からのアンケート調査では、上が考えているほど下は現状に満足していないという結果が必ず出る。これは、自分の貢献に対して十分に報いてもらっていないという問題提起の表現である。私ならそのこと自体には驚かない。むしろ、改革を進めるきっかけとして捉えて、改善方策を提案してもらう。大学ごと、あるいは職場ごとに処方箋は違うだろう。また、経営状態によっては、やりたくても福利厚生・労働条件や報酬水準の向上が難しいという制約条件もある。万能なものはないという前提で、具体的な方策をいくつか紹介しておきたい。

まず、事務局の役割を、「教員へのサービス提供」から「大学経営の実務全般」へと変革していくために、ビジョンを掲げ、職員に刷り込み、行動させる中で、改革に積極的に反応する職員に対して役割を与え、組織全体の推進役として位置づけを明確にした。モチベーションが高い人材に関しては、しかるべき役割を明確に与えることで、その潜在的な能力を遠慮なく発揮させることができる。単に自主的に行動するだけでは、せっかくの意欲が周囲からの抵抗・妨害などで損なわれる可能性が高い。

次に、平等主義的なマインドが支配的な風土に対して、高い目標・志を持つことを奨励するために、個人表彰制度の創設、昇格基準の年齢制限引き下げ、ボーナスによる報酬格差拡大、スキルレベルの高い職員の研修機会に関する優遇というような一連の改革を実行した。どういう職員になってほしいのか、基準を明示して首尾一貫したマネジメントをすることは大変重要である。先に変身していく職員の背中をしっかり押していくことが、出る杭を打とうという気分への牽制になるからである。

第3に、特に伸びてほしい若手職員の年代(具体的には30代半ば)に対して、リーダーシップ研修を連続8回のワークショップ形式で行い、職員として高い目標を持つための訓練を行った。人間は目標なくして成長なしだと思う。事務局全体として、パワーアップを合言葉にしたが、その意図の半分は、より高度の役割を担えるよう、個々の職員を育てるということである。育てるといっても、大人なのだから、自分の強みである専門分野を特定して、自覚的にスキルアップの努力を継続する、それに対して組織として支援するということである。30代できちんとした専門性を身に着けないと、その後の職業人生は強みが形成できないために難しくなる。これまでの職業人生を振り返って、目標を持って自分を磨くきっかけとして、各自には良い機会になったと信じる。職員として成長の階段を上ることが、正統なモチベーションを高めることにつながるだろう。

最後に、最初の問いに対する私の答えを述べておこう。答えは、平均的な職員を想定すれば、単純には「いいえ」としか言えないが、自ら学習し成長する職員が増えていくことで、答えが「はい」に変わってくる。本当に組織にとっていい仕事ができることを喜びとする職員が増えれば、パワーアップが成功したといえるだろう。モチベーションの質が変わることが、改革の定着のメルクマールになると思うのである。皆さんはどう考えるだろうか。

2011年5月13日 (金)

自主的な取り組みを阻害する要因を取り除く

今回はエンパワーメントについて取り上げようと思う。もともと権限を委譲するという意味であろうが、マネジメントにおいては、「自発的な取り組みを刺激する」(J.P.コッター教授)という意味で使われているようである。その場合は、権限の委譲も一つの方法になる。組織において改革に取り組もうとする場合、従業員の自主的な参加なくして成功はおぼつかない。そのために、ビジョンを定め、従業員に理解を求めて働きかけを行うのだが、従業員の行動は種々の要因で制約されている。改革を実現したいと考えていても、行動を阻むものとして、コッター教授が挙げているのは、4つの要因である。

まず、組織構造による制約である。多くの場合、縦割り構造の中で、部分組織(部・課)が横断的な取り組みの足を引っ張るということが起こる。大学の事務局においても、しばしば表面化しないまでも心理的対立が起こり、気持ちよく一体感を持って行動できない場面に遭遇する。例えば、国際や研究推進の担当部署と法規や経理の担当部署の間には、気質の違いなり、立場の違いがあると思われる。もちろん、職員の性格によって相違は緩和されるので、絶対的なものではないが、制度を柔軟に運用したいという方向と、制度の運用はルール通りに行いたい方向は、部分組織間の対立を生むことがある。無用な心理的対立の芽は未然に刈り取らなければならない。専門性を涵養するために部署の間での異動が少なくなりすぎると、心理的な対立が根深くなる。従来の国立大学ではそういう傾向が強かった。心理的な壁は低くしなければならない。

2に、従業員に必要なスキルが身についていないことによる制約である。言わば理念先行で兵站(訓練)が整っていない状況である。こうした状況に陥った場合は、一度、プロセスを前に戻して、きちんと準備をしてから行動に移るしかなかろう。意欲まで失ってしまえば、元も子もなくなる。改革を実務的に支えるリーダーシップを発揮できる人をチームの中核に置いておくことが大切である。たとえば、国際業務の充実を図るために、国際部を設置するにしても、実務能力が高い職員を揃え、外部機関に委託して英語によるビジネススキル研修を受けさせるなどしてマンパワーを重点的に補強しておかないと、形だけ作って機能発揮ができていないと教員から酷評されてしまうだろう。特定の職員に重要な業務が集中する傾向がある組織にも注意が必要である。全般にスキルが低すぎるために起こる問題であり、頑張っている職員に肉体的・精神的に疲労が蓄積して早晩機能不全に陥る。

3に、人事や情報システムが旧態依然のままであることによる制約である。すべてを一時に改革することは難しいが、ビジョンを実現するためには、人事や情報システムに関する見直しも必要になる。人事に関しては、人事評価制度の整備、表彰制度、ボーナス等への反映、昇任に関する年功制からの脱却など、改革をスピードアップする取り組みを検討・実施しなければならない。むしろ、人事マネジメントは改革の一丁目一番地と考えなければなるまい。情報システムに関しては、情報共有ツールとして活用するとともに、業務改善やコスト削減の有力ツールとして、人材育成を含めて取り組むべき重要なポイントである。私の経験では、過去の残骸のような業務システムが分野ごとにできており、システム上にあらゆる例外措置を取り入れようとするために、システム導入でコスト増になる馬鹿らしい例を見たことがある。その大学では既にそうしたことはないはずだが、人事と情報システムに関する専門性が低い組織では要注意だと思う。

4に、問題のあるボスによる妨害による制約である。この場合は、否応なくボスとの対決で状況を切り開かなければならない。ストレスがたまる仕事である。課長島耕作シリーズには、しばしばこうした場面が出てくるが、主人公の人間的な魅力で状況が切り開かれていく。私自身は、幸運にも影響力のあるボス的な人物による反乱は経験したことがない。ただ、改革についていけない人たちは必ずいるものである。その人間がしかるべき地位にある場合は、多くの場合、部下たちから疎んじられている。小さなことがきっかけで、部下の不信感が爆発することがある。そうなれば、結局、その人物は地位を去らねばならないことになる。改革を進めるには、八方美人ではいられない。リスクを負って、自発的に改革へのリーダーシップを発揮している職員たちの後ろ盾になって、姿勢を示さなければ信頼を得られない。

2011年5月11日 (水)

人材育成は人の成長を支援することに尽きる

前回の続きで、人材育成に必要な核心を突く質問と支援について考えたい。いずれも、おなじみのマクスウェル先生が述べていることである。あくまで主体は育成される側であって、育成する側は、そのきっかけを与え、励まし、見守るという支援者の役割を果たすことが適当だと考えられている。D.カーネギーの「人を動かす」には、人を動かす原則として、(1)批判も非難もしない。苦情を言わない。(2)率直で、誠実な評価を与える。(3)強い欲求を起こさせる。の3点が挙げられている。この意味は、人間は、裁かれることを好まず自尊心を持っているので、他人に認められたいという欲求を刺激して重要感を持たせることが、成長を促す最良の方法だということであろう。

核心を突く質問の中で興味深いのは、「耳以上のものを使って相手の話を聞いているか」というポイントである。最近のマネジメントの言葉で言えば、「傾聴する」ということだろう。大学の事務局でも人事評価制度が定着し、期首・期末には、管理職が個々の部下に対して業務実績や職務能力に関する面談の機会を持つ。管理職の「傾聴する」姿勢が大いに問われる場面の一つである。もちろん面談において、注意散漫に陥る、いたずらに敵対的になるなどは論外であるが、私の経験からは、傾聴のスキルというべきものがあるように思う。経験が少なければ形から入るのも一つのやり方であろう。例えば、自由に話せる環境・雰囲気を作る、相手の話の腰を絶対に折らない、メモを取りながら聞く、相手の話を要約して理解を示す、キーワードについて関心を持って質問をする、自分の失敗談も紹介する、普段の働きに感謝の言葉を述べる、相手を注意した後では必ず褒めるなどの工夫ができる人とできない人では、面談の効果には天と地の差が出てくるだろう。

実際の面談の場面でこうしたスキルが縦横無尽に発揮できるようになるには、試行錯誤の場数を踏んで自分の引き出しを増やすしかないが、人事評価制度のように新規に導入された制度の運用では、部下の立場で同じ場面を経験していないので、どうしても管理職は自己流に陥りがちである。そのため、一つの方法として、全員参加の課長研修において、具体的なテーマを与えて、多様性のある部下に対する核心を突く質問の方法を討議してもらった。各人の流儀をお互いに知ることができて、自己流を見直すきっかけになったはずである。他人の工夫をまねて自分でやってみている者もいるに違いない。

最後に、人材育成に関する支援について触れておきたい。大学職員の成長を促すための支援としては、例えば、学内外でスキルアップの機会を与える、重要度の高い業務を担当させる、能力の高い上司の下に配属する、外部組織を経験させるなどが考えられる。方法は種々でよいが、ドラッカー先生が指摘するように、「貢献を人材開発のベースにする」(プロフェッショナルの原点)ことが、成長を促す支援の正しい道である。すなわち、仕事のニーズに根差した基準によって、一つの領域で卓越した能力を身に着けるように支援することである。

多くの大学では職員の専門性の涵養に着手しているが、目標とするレベルが高いとは言えないし、年功をベースにした賃金体系が維持されているために専門性への評価が十分にできていない。そうした制約はあるが、もはや時代は変わりつつある。次第に事務職員が専門性を高めることで、従来は教員が担当してきた法人の経営に関する事項を、事務系が相当こなせるようになるだろう。そうした職員の力を生かすことが、教員の能力を教育・研究・貢献の面で真に生かす道でもある。その際には、大学の事務局においては、専門性が高い企画・調整機能と専門性が低い一般事務機能とが分化して行くことになるだろう。企業と同様に、一般事務機能の多くは、非正規職員で担ってもらう、あるいは外部にアウトソーシングするという時代が訪れるかもしれない。

したがって、特に若手の大学職員は、専門性の高い職員=プロスタッフを目指さなければならないと肝に銘ずるしかなかろう。卓越性は、教員のみに求められる資質ではなくなっているのである。ドラッカー先生は、こう述べている。「平凡な仕事に対しては、ほめることはもちろん、許すこともあってはならない。自らの目標を低く設定する者や、仕事ぶりが基準に達しない者をポストにとどめておいてはならない」(現代の経営)。どうですか、本当はとても怖いドラッカー先生なのである。大学職員の相当多くがヒヤッとしたに違いない。

2011年5月 9日 (月)

人材育成は管理職の気付きから始まる

たびたび引用しているマクスウェル先生の「あなたがリーダーに生まれ変わるとき」によれば、組織における人材育成のポイントは、適切な仮説を立て、核心を突く質問をぶつけ、状況に応じた支援をするという3点だとされる。今回は、適切な仮説を立てるという点に注目したい。

マクスウェル先生は、「ほとんどの人は自然に意欲をわかせるもの」としており、意欲をわかせるのは、大きな意味のある貢献、目標達成への参加、生産的な不満(不満のある人こそ意欲満々)、称賛、明確な期待であるとしている。別の言葉に直せば、内発的に動機づけられている状態であろう。一方、部下を見くびる、操作しようとする、鈍感になる、成長に水を差すのは、やる気を失わせるとしている。このあたりの指摘は、D.カーネギーの名著「人を動かす」にも一致する見立てである。性善説っぽい感じもするが、全く箸にも棒にもかからない人は稀だと思うので、以上の仮説は大抵の組織に当てはまると思う。

リーダーシップの要素として、人材の育成は欠かせない。私の都内某大学での経験でも、管理職に対しては達成目標に人材の育成を必須事項として掲げてもらった。しかし、人材の育成を意識的にやったことがない人が多かったと思う。もともと公務員の組織は、体系的な研修が行われているとは言えない。語学などのスキルを除いては、OJTが大半で、特定の専門性を磨くこともおろそかにされている。組織内部の人間の専門性が低いために、緊急の事件が起こってしまうと対応に苦慮する事態が起こることがある。構造的な欠点であろう。それが国立大学法人の組織には受け継がれており、その欠点に気付いている大学では、何とか是正しようと業務に必要な専門性を向上させる策を打っているところなのである。管理職としての行動に必要なマネジメント・スキルも不十分な状態である。

したがって、上記のような仮説モデルを参考に、個々の職員を観察しながら、自分なりの仮説を立てて、実際の場面に試行錯誤で適用していくことで、経験値を高めてもらうしかない。その意味では、私自身が、人材育成という課題に対して管理職の意欲をわかせるための試行錯誤を、先達の知恵をもとにやっていたということになる。最も手ごたえを感じたのは、全課長を2回に分けて実施した12日の管理職研修であった。人事評価制度の運用をテーマに、人材育成の心構えや状況に応じたスキルについて、集中的に討議したことで、人材育成に関する経験の棚卸ができたこと、人材育成の目標・方法論の共通基盤ができたこと、管理職としてお互いに信頼感をもって団結して人材育成に取り組む意識が高まったことなど、日常業務の中では難しい成果を得ることができたと思う。

部下を主役にする雰囲気を作って、内発的動機付けで成果を上げていくというマネジメント・スタイルが、今の大学の事務組織にも適合的だと感じる。かつてのように定型的な業務を淡々とこなす仕事ばかりではなくなっているからである。環境の変化に強い適応力がある自己学習する組織を作るには、個々の構成員が組織全体への当事者意識を持たなければならない。全員が経営者の視点を持てれば、その組織は強い。

組織として内発的動機に溢れた人材育成を実現するには、私は管理職から変わらなければならないと思う。そのためには、まず、自分の役割に目を開かせなければならない。目を開く機会は自分の経験を語り合うところからになるだろう。人材育成のスキルを学ぶのはその後である。管理職の気付きの機会を作ることなしには、なぜ、うちの若手職員はやる気をなくしているのかと悩み続けることになる。その間、若手職員は伸びる機会を失っていく。組織にとっても個人にとっても、嗚呼もったいない。

2011年5月 6日 (金)

本当に時間がないのか

業務の見直し、効率化を進めようとすると、判で押したように聞くのが、日常業務に追われて取り組む時間がないというセリフである。確かに、業務量は増大しており、正規職員数は減少しているので、労働生産性を上げないと、超過勤務ばかり増えてコストがかさむ上に、業務が集中する職員の健康にも差し障りが出てくるだろう。それにしても、働き方を変えられないものだろうか。

「もしドラ」がアニメにもなって、既に2005年に他界されたP.F.ドラッカー先生に再びスポットライトが当たっている。私は高校野球のマネジャーがドラッカー先生を読んだとしても甲子園に行けるとは信じないが、著書の「マネジメント」や「プロフェッショナルの原点」は、大学の事務改革に大いに役立つと思う。私の経験から、特に、「仕事を整理する」、「仕事を任せる」、「人の時間を無駄にしない」の3つが重要だと思うので、紹介しておきたい。

「仕事を整理する」については、組織として、個人として、2つの局面がある。組織としては、優先度の低い仕事を、廃止する、時間をかけるのをやめる、非正規職員に委ねる、外注するなどの方法で、整理することになる。私のように見切りが早い人間は、こうした仕訳をされても何ら抵抗を感じないが、多くの人は自分が携わっている仕事が整理されることに抵抗する。他にやってもらいたいことがあるにも拘らず、仕事がよくできる人にも整理には心理的な抵抗があるようである。対話によって納得を得る努力が必要である。個人としては、To Do List を作ったり、緊急度を意識して業務への時間配分を決めたりする。細切れになっている時間を集めて、ひとまとまりの業務をこなす工夫もする。工場のラインのように全員が同時に動く必要はないので、意識すれば効率的に働くことはかなりできるはずである。要は、その人にそうしたスキルが身についているかどうかである。かえって育児などで時間に制約のある人ほど、時間の使い方を工夫していて、単位当たり時間の生産性が高い。Work Life Balanceの重要性が高まっている中で、まさに職員の鏡とすべき人材である。

「仕事を任せる」については、まさにドラッカー先生が言うとおり「人にできることは人に任せるしかない」と肝に銘じて行動することである。中堅幹部として本人自身の力量以上に成功している人は、チーム全体で仕事をこなすために、非正規職員を含む人間関係を良好に保ち、業務処理上の調整を巧みに行っている。私などは、50歳を超えて簿記の勉強をしてみて悟ったが、細かい数字に強いとは言えないので、経理業務に習熟している人には処理能力でまったくかなわない。この場合は、自分にはできないので、人に任せるしかないのであるが、専門家への敬意を表しつつ、堂々と任せることにしている。しばしば仕事を抱え込んでいる人がいるが、それでは任せられる人が育たない。組織として困るし、当人への評価も下がる。一般に、自分に自信がある人ほど、人に任せられるものである。自信がない上司には、部下が不信感を抱く。結果として、チームの業務遂行力は上がらない。だから、人に任せなければならないのである。

「人の時間を無駄にしない」については、私の最も好きな言葉の一つである。初めて目にしたときは、これが私の生きる道だと思ったほどである。組織には無駄が多い。落語の「百年目」で大店の主が大番頭に語るように、無駄が無駄でないという場合もある。確かに冗長性と強靭性は重なるところがあるだろう。しかし、私の経験によれば、大半の無駄は、単なる時間と労力と経費の無駄である。東日本大震災の原発事故対策において、ロシアの関係者が「ロシアでは5分で決まることが、日本ではいつまでも決まらない」と評したという報道があった。ロシアが素晴らしいと手放しでほめるわけにはいかないが、大学では、専ら教員らによるものを含めて、本当に効率的な会議が少ないものである。大学職員の業務分析をすると、会議に直接要する時間は全体の10%以上である。会議は、回数×出席者×所要時間が、組織の業務コストに跳ね返る。おまけに、会議の結論をまとめずに終わるケースさえ、大学ではよくある。言語道断である。民間での工夫を参考にすれば、容易に効率化に取り組むことができる。問題は、人の時間を無駄にしてなんとも思わなかった過去ときっぱり決別する意思を持つことであろう。

以上のように、今、本当に時間がないのではない。効率性を高めて、時間が無駄にならなくなって始めて、大学はグローバル競争に負けない基礎体力がつく。そのために我が国に残されている時間があまりないことを、心配した方が良い。

結果が出れば人はついてくる

 コッター教授の「企業変革力」には、短期的成果を上げることが重要であると記されている。何しろ改革には時間がかかる。大学のような大規模な組織においては尚更である。やるべきと思うことをやっていても、その成果が明確にならないと、だんだんと飽きてくる。私自身も同じことを何年もやるのは御免だというタイプで、進取の気性がある人間ほど成功か失敗か早く見極めたいという気持ちになるのは理解できる。その種の人たちは、早く見極めて、その先に進みたいのである。今回は、何がどの程度うまくいったか、誰が顕著に成功に貢献したのか、こうしたことを「見える化」して、改革へのモチベーション向上に役立てた、都内某大学での経験を紹介したい。

 まず、職員全員に出すメッセージにおいて、定期的に改革の短期的な成果を情報共有することは、当たり前のことだが重要である。皆が一つの船に乗っているという感覚になれる。こういう場合は、改革を先導している一部を取り出してほめるのではなく、皆の成果だと強調した方が良い。平均的な人にも、改革の動きに乗っていくほうが有利であると、感覚的に分かってもらうためである。短期的な成果を、タスクフォースで、きちんと分析・確認・公表することも、大切である。取り組みをやりっぱなしにしてはいけない。たとえば、初年度は中途半端に終わってしまった業務改善についても、2年目には、そうした分析をすることができたために、次の取り組みにつなげ、横への展開をすることができた。プロセス全体が全体に情報共有されることによって、課やグループがタコツボ化して、一部が取り残されるのを防ぐ効果があると思う。

 次に、若手から中堅の職員に対して、研修や提案の機会を設けて、改革への視座を持てるように知識と経験を与えることである。その際に、自分として、どのように貢献したいかという観点で考えさせるとより効果的である。大学職員の多くは、企業におけるマネジメント改革の手法に関して情報・知識を持っていない。いきなり業務改善の提案をしましょうといっても、前例踏襲の殻にこもっているタイプの人からは、なかなか意味のあるものは出てこない。企業からの転職組の中には、そうしたセンスを持っている人もいるが、若くて職位が低いので、後ろ盾になってやらないと提案が生きてこない。そうした新しい風をうまく取り入れてくれる中堅幹部が増えれば、短期的な成果を実感できる人が増えて、組織は急速に変わっていく。

3に、短期的な成果を挙げた個人には大いに報いることである。たとえば、学長による職員表彰(正式に人事記録に残る)を設けて、ボーナス査定では自動的に最高評価を与えることにした。業務改善運動についても、成果を分析の上、グループとして表彰し、レベルに応じてボーナスに反映させた。実際には職員の間で組織への貢献度はかなりの差がある。表彰されているような職員のおかげで、組織がうまく回っているのである。これまで、そのことが適切に表現されていなかったために、業務の効率性は停滞し、職員の業務遂行能力の向上は期待薄の状態が続いてきた。相当な格差がある以上、事実に即した処遇をするのが、真の意味で公平・公正なのである。力量を短期的な成果の形で示してくれた職員には、より早く、より重要度の高い、本人が希望する業務に従事してもらい、次代のリーダーとして育成するという方針を実行することで、伸びるべき人がどんどん伸びる環境が整ってきている。

 まとめると、短期的な成果をきちんと整理して情報共有すること、職員に短期的な成果を実感させる機会を設けること、短期的な成果への貢献者には大いに報いることが、重要である。また、改革への取り組みを継続させる場合には、飽きさせないための工夫をしなければならない。ただ、やみくもに動かせばいいものではない。下手なやり方で失敗しようものならば、足をすくおうと機会を狙っている人たちが、大学の中にはいるからである。

2011年5月 2日 (月)

ビジョンがなければ始まらない

どこの組織でも同じだが、改革にはビジョンが必要である。もちろん、その内容はとても重要だが、作成のプロセス、ビジョンの伝達・徹底の方法も同じくらい重視しなければならない。この点について、都内某大学での私の経験をお伝えしたい。

まず、改革の時間軸を考えて検討をスタートしなければならない。いつまでに、どの程度のことを達成したいか、そのためにはどのくらいの時間が必要なのか、見積もらなければならない。少なくとも短期的成果を確認して、PDCAサイクルを一回回すくらいまでの時間が必要である。新しい組織に入った場合は、通常、3か月は観察に集中する方が良いとされる。

私は、年度末に繁忙期が来ることを考慮して、1か月目からスタートを切ることにした。改革ビジョンの作成には、前例にとらわれない積極性がある職員からなるチームが必要である。中核となるメンバーの推薦を得たが、私はあえてチームを閉じたものとせず、職員ならば誰でも参加可能(従って時間外に開催)ということにした。2か月ほどの間に、業務の効率性アップ、職員個人の業務遂行力のアップを2本柱とする基本方針をまとめたが、何らかの参加をしてくれた職員は、全体の12%程度で、50人を超えた。組織全体への浸透を考えて、改革のスローガンはPower Up、柱は2本だけというシンプルなものとした。ビジョンの骨格は、誰にでも分かるものでなければならない。

次に、自主的には動いてこない職員たちにも参加意欲を持ってもらうために、管理職を除く全職員との対話を89人単位で1時間ずつ実施した。この対話の中で、追加的な改革のアイデアを拾うとともに、改革の趣旨を伝えて、改革に参加することの意義を説いた。職員の個性は実に多様であったが、少なくとも直接話をする機会を設けることは総じてプラスに働いたと実感する。職階を飛び越えて気軽に話をすることができれば、組織の人間関係に由来する問題の解決には良い環境ができるだろう。40数回の対話によって得られたアイデアは、できる限り広く拾って、文書に整理してフィードバックした。誰しも、自分が述べたアイデアが取り入れられれば、改革に参加している実感が持て、さらに何かしたい意欲を持てると考えたからである。アイデアは、すべてが実行されたわけではないが、個々の職員に具体的な改善案を考え、上の人間に提案する経験をしてもらったという大きな財産が残った。この経験は後の業務改善の取り組みにつながっていく。

3つ目に、掲げたビジョンの実行について、定期的にメッセージとして電子メールで発信した。特に、「いつまでに、何を、どれほど」という事前予告をして、時間軸に沿って実行に移し、事後に成果を確認することで、皆に情報が共有されるようにした。これらメッセージは、「これは責任を持って実行します、それには皆さんの力が必要です。」という約束と呼びかけである。さらには、「皆さんの貢献でここまで達成しました、ありがとうございました、また頑張りましょう。」という確認と称賛と期待の表現である。直接的に人間的なつながりを持つことが、改革への信頼感につながり、改革に背中を向けたままの人は少なくなっていった。

4つ目に、ビジョンを理解してもらうには、言葉が大切である。しかし、人間は言葉=理性だけでは動かない。信頼感がなければリーダーシップも効果を上げない。だから、言葉と行動は、一致させなければならない。また、ビジョンの実現のための具体的方策は、できる限り現場レベルに任せることも必要になる。何から何まで直接指示する愚は避けなければならない。現場を信頼できなければ、現場からの信頼も得られないからである。改革のスケジュールは管理せざるを得ないが、組織改革案の策定に関して、敢えて時間ぎりぎりまで具体案が出てくるのを待ったこともあった。多くの部署の言い分を聞きすぎて、調整不能になりつつあったが、プロセスにおいて小さな失敗をすることも、すべて組織にとっての経験と割り切ることにした。若手のリーダーたちは失敗からも学んでくれただろう。最終的には大枠を指示して間に合わせたが、任せるための我慢は自分の経験値を高めてくれたと感じる。なお、任せるための条件整備については、別の機会に論じることにしたい。

以上をまとめると、改革ビジョンの作成と実行は、責任と権限を持って進めなければならないが、他方で、絶えず「公開」と「参加」によって、職員の意欲と組織の潜在力を引き出すことが、ビジョンの実現に不可欠である。種々のスタイルがありうると思うが、私は、静かな雰囲気で対話をすることから始めたい。

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