規律の文化と起業家精神
「ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則」に基づいた話を続けたい。テーマは、対立する関係にある規律の文化と起業家精神を組み合わせた組織をどう作るかということである。この2つがともに低い組織は、官僚的組織であるとされる。官僚的組織は、規律は高いのではないかと考える向きもあるだろう。しかし、著者のコリンズ教授は、自ら規律を守り、規律ある行動をとり、「針鼠の概念」に従って戦略的に合理的な行動をとる企業文化を規律の文化と定義しており、官僚制度は規律の欠如と無能力という問題を補うためのものと理解している。しかも、規律の文化には、一貫性のあるシステムを守るとともに、システムの枠組みの中で自由と責任を与える2面性があるとしている。
「針鼠の概念」については、少し説明を要するだろう。コリンズ教授によれば、自社が世界一になれる部分、経済的原動力になるもの、情熱を持って取り組めるものという3つの円の共通集合を組織として理解することを、針鼠の概念が確立しているという。針鼠は、さえない動物だが、肝心な時に針を立てるという単純な一貫した行動で身を守ることを知っている。このような理解は、戦略や目標の前提になる。コリンズ教授のいう規律の文化の中核に、針鼠の概念が位置するのである。大学の場合は、世界で1つしか生き残れないという競争環境に置かれているわけではないので、世界一という部分は、条件を緩和して考えるべきであろう。また、生み出しているものが経済的価値のみではないので、原動力は総合的な価値で判断すべきだろう。そのような修正を施せば、針鼠の概念は基本的に大学経営にも有効であると思う。しかし、多くの大学人は、自分たちの大学がどのような針で身を守るのか知っているだろうか。
国立大学に規律の文化があるかと言えば、過去に比べて少しは進歩してきたとは感じるが、いまだ十分ではなく、総じて否定的にならざるを得ない。大学の教育研究組織は、本来は起業家的組織のモデルで会ってもよいと思うが、起業家精神を持って実際に新しいことに挑戦している研究者は少数である。やはり一部の例外を除いて官僚的組織の性格が色濃いと思う。特に、自ら規律を守り、規律ある行動をとることは、これまで長きにわたって求められて来なかったようで、根付いていない。最近になって、コンプライアンスの徹底に悩みを抱える大学が増えていることからも、規律の文化が強調されなければならないと感じる。しかも、部局を超えた大学全体としての針鼠の概念が確立しているようには見えない。そもそも針鼠の概念が大学における学問の多様性を損なうのではないか、研究者という人間像は規律の文化になじまないのではないかという見方もあるだろう。しかし、私の知る限り、学問業績を上げ続けている世界的な研究者は、極端なほど勤勉で、驚くほど徹底して研究という仕事に取り組んでいる。彼らは規律の文化を間違いなく持っており、一人一人がビジョナリー・パースンであると思う。しかし、組織が大きくなればなるほど、規律の文化は確立することが難しくなる。
翻って大学職員について考えてみると、こちらも個人差が大きいが、規律の文化は全体としては不十分だと感じる。仮に規律を守ることができている場合も、主体的に行動すること、自由と責任を生かすことができていないのではないか。まず、針鼠の概念を確立することの意味を理解することから始めなくてはなるまい。そのためには、自らが属している大学の強みと弱み、機会とリスクに対して正しい認識を持たなければならない。大学職員の多くには、目標とする大学をベンチマークして自らの大学の課題を検討するというような視座が欠けている。こうしたことをワークショップのような機会を作って実践してみると良い。その上で、個人個人が当事者意識を持って主体的に行動できるように訓練しなければならない。
大学職員の業務は定型化されたものが基本であり、若手職員はそのルーチン作業をマスターすることから始める。ただ、こうした地味な仕事をおろそかにする、より高いレベルの業務目標を持とうとしない若手職員もいるようである。こんなものだと仕事をなめてしまうと成長を止めてしまう結果に陥る。こうしたことを防ぐためには、早めに大学経営の俯瞰的な視座を持たせて、針鼠の概念を共有させる機会を作ることが必要である。若手の人材育成と組織文化の変革を並行して進めると効果的であると考える。なお、業務をこなすために、官僚組織的な管理が前面に出て来る癖には注意が必要である。管理職は自重して行動しなければならない。規律の文化への取り組みは、組織全体を官僚組織のように管理強化するということとはまったく違う。コリンズ教授が規律の文化について示している、主体性や自由と責任にかかわる当事者意識を、職員に根付かせることが大切なのである。この違いが分からないと、管理職は務まらないだろう。
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