市井の形而上学4 幸運と掃除についての考察
よく、トイレ掃除をすればとか、ゴミ拾いをすればとか
自分の運を良くする方法として本に載っているが
俺は守護霊とかそういうものを五感で知覚できない質だから
陰徳だとかそういうことについては分からない。
自分のやった事は良くも悪くも3倍になって返ってくるとか、
そういうも何となく信じてはいるほうだが、メカニズムについては
これだ!!ってすんなりと納得できるような答えは、未だに見つかってはいない。
家のトイレ掃除、はっきり言って毎日ブラシでゴシゴシするのも正直、現実的ではない。
というのも、これが家にお客さんがひっきりなしに来る、商売たとえれば
自宅を改修した喫茶店とかだったら、まだ毎日ブラシでゴシゴシするのも納得できるが、
基本的に家の者しか使わないトイレを毎日ゴシゴシすることに疑問が湧いてきたのだ。
週に一度くらいが適当だろうと、考えるようになった。
なぜかというと、一回入念に掃除すれば、そこまで汚れないからだ。
にも拘わらず、掃除ばかりしていたら、洗剤の減りは早くなり、現実問題として、金運が上がるどころか
財布の金が洗剤代へと消えていく。これはかなり厳しい。
やっぱり何でも、適度にそこそこにしておいたほうがいい。
それに、である。
トイレや水回りの掃除を漫然としていても、金を得るための行動そのものを疎かにしていたら、金運も幸運も
あったものじゃない。
トイレを掃除する度に天井からお金が降ってきたら、それほど楽なことはないが、
金に限らず幸運とかの殆どは人と人との間の中にあるものだと俺は思う。
まあ、それらの観点から俺自身は、「問題を見つけたら対処する」ための体づくりというか、脳の癖付けというか
そういう部分が正味なのだろうという風に考えている。
しかし、自己実現「毎日、できる限りトイレ掃除をする」と自分に課してみたのだから、トイレ掃除自体は、変な話だがやりたくて仕方がない。会社のトイレはどうか?残念ながら掃除当番という厳格なルールがあり、
まあ、最近はどこの会社も同じようなものだが、目的のためのルールではなく、ルールを忠実に守るためのルールがあるために、掃除当番でもない俺がトイレ掃除をすると、まあ上の人間から怒られるわけだ。
俺も俺で、良かれと思ってしたことに対して、結果的に嫌な目にあう理不尽な思いはしたくないので、「ルールのためのルール」を守り続ける彼らに対しては、彼らが幸せであることを祈るより他なく、下手に掃除もしない。
しかし、この自己実現欲求はどこかで晴らさなくてならない。
たまたま入ったコンビニでトイレを使った。見るとトイレが汚れていた。
「問題を見つけたら、できる限り対処する」に従って、トイレットペーパーと手洗い石鹸を借りて、見えた汚れだけでも掃除してみた。
終わったら、便器のフタを閉める。
トイレを出た後、やはり自分のその行動の異質さを感じてはいた。普通、やらないよな。
しかしである、まあこういうのもナンだが、世の中で成功を収めている人間はそこまで他者の目や批判を気にせず、自分の信ずる所をやったその結果ならば、
この異質なトイレ掃除は、
「一般的、多数派」の行動から、離れるための訓練のようなものではないか?
そのように考えた。よくビジネス啓蒙書に書いてある「他人と同じことをしていてはだめだ。」と言葉を思い出した。
そうだよな、そうだよなと
日々、どうしたものかと考えていたが、
一般的な慣習や慣例を超えて、概ね他者に迷惑をかけない範囲で、人に親切にしたり、道徳的な行動も出来なければ、結局自分はその流れに飲まれ続けるのだということに気付いた というか 思ったというか。
「人の目を気にし過ぎて、親切も働けない人間に、大したことが出来るのか?」
と、何かに頭を殴られたような、ショックというか、言葉というか
ガツーンと頭の中に入ってきた。
トイレの掃除が思わぬ学びというか、答えというか
そんなものに結び付いた気がしている。
はっきり言って俺のしていることは変人的だ、そのように自分自身を多少批判的に見て言動を精査しないと、
独善性がエスカレートすることにもなりかねないから、そういう目線は持ちつつ暫く続けてみようかと思っている。
しかし、考えてみると「トイレ掃除」家から外へと出ていったとうか、溢れだしたというか
でも、これは社会を良くするためとかそういうのではなく、自分自身の障壁を突き崩しくためのリハビリみたいな
もんだよな。
とはいえ、例え「ルールのためルール」を守る人も、突き詰めていけば「和」を尊ぶ人たちであることを認識して、また
そういう人たちがいるおかげで、他者と自分自身の性質的な違いを良くも悪くも、見出すことができること忘れてはいけないな。
他者がいての自分ってのがこの世界では往々にしてあることだから。
自分の運を良くする方法として本に載っているが
俺は守護霊とかそういうものを五感で知覚できない質だから
陰徳だとかそういうことについては分からない。
自分のやった事は良くも悪くも3倍になって返ってくるとか、
そういうも何となく信じてはいるほうだが、メカニズムについては
これだ!!ってすんなりと納得できるような答えは、未だに見つかってはいない。
家のトイレ掃除、はっきり言って毎日ブラシでゴシゴシするのも正直、現実的ではない。
というのも、これが家にお客さんがひっきりなしに来る、商売たとえれば
自宅を改修した喫茶店とかだったら、まだ毎日ブラシでゴシゴシするのも納得できるが、
基本的に家の者しか使わないトイレを毎日ゴシゴシすることに疑問が湧いてきたのだ。
週に一度くらいが適当だろうと、考えるようになった。
なぜかというと、一回入念に掃除すれば、そこまで汚れないからだ。
にも拘わらず、掃除ばかりしていたら、洗剤の減りは早くなり、現実問題として、金運が上がるどころか
財布の金が洗剤代へと消えていく。これはかなり厳しい。
やっぱり何でも、適度にそこそこにしておいたほうがいい。
それに、である。
トイレや水回りの掃除を漫然としていても、金を得るための行動そのものを疎かにしていたら、金運も幸運も
あったものじゃない。
トイレを掃除する度に天井からお金が降ってきたら、それほど楽なことはないが、
金に限らず幸運とかの殆どは人と人との間の中にあるものだと俺は思う。
まあ、それらの観点から俺自身は、「問題を見つけたら対処する」ための体づくりというか、脳の癖付けというか
そういう部分が正味なのだろうという風に考えている。
しかし、自己実現「毎日、できる限りトイレ掃除をする」と自分に課してみたのだから、トイレ掃除自体は、変な話だがやりたくて仕方がない。会社のトイレはどうか?残念ながら掃除当番という厳格なルールがあり、
まあ、最近はどこの会社も同じようなものだが、目的のためのルールではなく、ルールを忠実に守るためのルールがあるために、掃除当番でもない俺がトイレ掃除をすると、まあ上の人間から怒られるわけだ。
俺も俺で、良かれと思ってしたことに対して、結果的に嫌な目にあう理不尽な思いはしたくないので、「ルールのためのルール」を守り続ける彼らに対しては、彼らが幸せであることを祈るより他なく、下手に掃除もしない。
しかし、この自己実現欲求はどこかで晴らさなくてならない。
たまたま入ったコンビニでトイレを使った。見るとトイレが汚れていた。
「問題を見つけたら、できる限り対処する」に従って、トイレットペーパーと手洗い石鹸を借りて、見えた汚れだけでも掃除してみた。
終わったら、便器のフタを閉める。
トイレを出た後、やはり自分のその行動の異質さを感じてはいた。普通、やらないよな。
しかしである、まあこういうのもナンだが、世の中で成功を収めている人間はそこまで他者の目や批判を気にせず、自分の信ずる所をやったその結果ならば、
この異質なトイレ掃除は、
「一般的、多数派」の行動から、離れるための訓練のようなものではないか?
そのように考えた。よくビジネス啓蒙書に書いてある「他人と同じことをしていてはだめだ。」と言葉を思い出した。
そうだよな、そうだよなと
日々、どうしたものかと考えていたが、
一般的な慣習や慣例を超えて、概ね他者に迷惑をかけない範囲で、人に親切にしたり、道徳的な行動も出来なければ、結局自分はその流れに飲まれ続けるのだということに気付いた というか 思ったというか。
「人の目を気にし過ぎて、親切も働けない人間に、大したことが出来るのか?」
と、何かに頭を殴られたような、ショックというか、言葉というか
ガツーンと頭の中に入ってきた。
トイレの掃除が思わぬ学びというか、答えというか
そんなものに結び付いた気がしている。
はっきり言って俺のしていることは変人的だ、そのように自分自身を多少批判的に見て言動を精査しないと、
独善性がエスカレートすることにもなりかねないから、そういう目線は持ちつつ暫く続けてみようかと思っている。
しかし、考えてみると「トイレ掃除」家から外へと出ていったとうか、溢れだしたというか
でも、これは社会を良くするためとかそういうのではなく、自分自身の障壁を突き崩しくためのリハビリみたいな
もんだよな。
とはいえ、例え「ルールのためルール」を守る人も、突き詰めていけば「和」を尊ぶ人たちであることを認識して、また
そういう人たちがいるおかげで、他者と自分自身の性質的な違いを良くも悪くも、見出すことができること忘れてはいけないな。
他者がいての自分ってのがこの世界では往々にしてあることだから。