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震災後、アフターマスの人生と周囲5

まあ、結局俺もその流れにべったりと乗って生きているのだが、本当の意味でこれからは考えなくてはならないと思っている。
「津波てんでんこ」まあ、津波が来たときは家族だろうが何だろうが、それぞれが自分のことだけを考えてまず逃げろってなことなんだが、今の社会もそんな感じだと思う。

俺の日常の自分ごとのレベルでも、数年先に毎日通っている会社があるかどうか怪しいものだし、逆に数十年先まで自分の会社があるっていう想像が難しい。

他のみんなもそんな感じじゃないだろうか?

若い時分にもう少し頭が良ければ、俺もこんなこと長く続くはずがないって人生の早い段階で分かったかもしれないね。

少なくとも、俺にとって震災の経験、といってもそこまで苦境に立たされたわけでもないのだけれど、俺の身の回りの周囲の物事が一時的にも機能不全に陥った瞬間だった。

そして、実は世の中が「不測の事態への対応」が上に行けば上にいくほど出来ていない証拠も突き付けれたようなそんな期間でもあった。

そして、結局この国を覆っている「合理性」のなんてのは、津波で流された原発の非常電源の話を聞けば程度が知れる。
厳然たる自然学に基づいているはずの技術の世界でさえも、この体たらくぶりなのだから、俺たちってのはそれだけ脆弱な物事の上に立っているわけだが、これらについて今更どうこう言っても始まらないから、

世の欺瞞を受けとめて、時には自分の信じたものと決別し、フラットな考え方から自分が何をすべきなのかを見つけて、何より行動することがこれからは大事じゃないかな。

人間のやることに絶対はなく、自分たち自身も間違いに行き着くこともあるのだけれど、とにかく行動する奴ってのは強いもんだ。

これからは、きっとあの津波のような苦難の時代が来るような気がしている。そして、俺たちはともすれば信じたものに放り出されるかもしれないのだから。

震災後、アフターマスの人生と周囲4

では、今度は震災直後からその後の周囲について考えてみたいと思う。

震災のような危機的状況ではその人間性が試されるところだと、本当に思う。

話に聞けば、あの震災直後に「這ってでも出社してこい」と言われた人もいたり、命からがら被災地域から避難してきた次の日に、被災地域に戻るように仕事場から命令を受けた知人もいた。これには開いた口が塞がらなかった。

記憶に新しい今年の10月の台風の時も、危険な中を出社させる企業についてあれやこれやネットの書き込みがあった。

なんだか、震災の津波に飲まれて死んでしまった人たちのことを考えると、ずいぶんとやるせない気分になったものだ。

付け加えていうならば、俺の住む岩手も雪の多い地域で、朝の出勤時には、ガードレールに突っ込んだ車や玉突き事故を起こしている現場をよく見かける。多ければ、同じ日に3回もスリップ事故と思しき状況に出くわすこともある。

こんな中で、一度も冬場の交通事故を起こしたことがない自分をよくよく考えてみると、ある意味奇跡としか考えられない。
巻き込まれたことはあるのだけれどね。

雪が深くて車が立ち往生した渋滞の最中に救急車が走ってくることがよくある。道を開けようにも路肩の雪の積もり方が尋常じゃないので避けようがない。ぎりぎりの隙間を先を急ぐはずの救急車がそろりそりとゆっくり抜けていくのだ。

ここまでくると、たかが雪も災害のレベルだよなと俺は考えている。

こういう時は、緊急車両とか必要性、重要度の高い車両のために、比較的重要性の低い業種は、営業時間をずらすとか、そういうことを考えてもいいようなものだし、現に毎年スリップ事故がそこかしこで起こっているのだから、出勤そのものが危険な日として休みにしても良いような気がする。事故られたほうが後々の損害じゃないか?

こうしてみると、世の中の上位のものとか中枢ってのは、実は物事を大して考えてない、乱暴な言い方をすると頭が実は良くない、理に合わないところが多くあって、その陰で多くの犠牲者がいるってことに気付かされる。

この過去20年を経っても景気対策の上手くいっていないところを見ると、この社会の上層部の無能ぶりが見て取れる気がするし、身近なところでいえば、偉そうに構えている中小企業の社長だって、自分の会社の業績不振をどうにもできていなければ、結局は経営陣の至らなさに他ならない。

デフレ時代に他の切り抜けかたを考えずに、「能力主義だ」だとかもっともらしいことを言ってリストラしたり、当時の若者に「コミュニケーション能力だ」「協調性だ」だとかそういう自分たちは如何なものか?と問いたくなるようなことをしでかした結果としての「出生率の低下」が、今の「人手不足」という状況を生み出したわけで。

そこんとこ考えると、実は世の中ってはハリボテみたいなもんだったんだなと思う。

震災ってのは多くの犠牲を払ったが、特にも被災地域のこの地方は、震災前の状況に戻すことではなくて、震災を境に新たなものを模索するべきだったのかもしれない。俺は今のこの時になってそう思えてならない。
金は人を大事にするための手段の一つであるということを、あの時の俺は学んだ。そして、人を大事にしなかった結果「出生率の低下」という形で人がいなくなってしまった。自明の理である。

「絆」なんて言葉があの後に流行り出したのだが、今の周囲を見ると到底その言葉に似つかわしい世の中のようには感じられない。最近ではあれだけテレビで流れていた「絆」という言葉も成りを潜めたか…

俺個人としては、来年から何か転換期に入りそうな気がしているが、

この人間をあらゆる面で危機にさらす社会との分離やある種の決別を選択する人間ってのが、若年を中心に出てくるような気がしないでもないな。

俺も俺で個人の生活や人生を守る手段を本気で考えていかないとな。一応、震災経験者だしな。

「あなた達はどうする?」って津波に飲まれた人たちに俺らは問われているようなそんな気が、俺はしている。

震災後、アフターマスの人生と周囲3

震災の当日のこと、俺はと言えば車で親戚の家に届け物の最中だった。
交差点に差し掛かり、車がゆさゆさ急に揺れ始めた。

うわ!!エンジンいかれたか?こりゃあ修理代がいくらかかるやら
という金銭的恐怖の漆黒の闇が心を覆った。

急な揺れで地震を疑わず、車の修理費用を心配するとは、我ながら、なかなかのミスター資本主義者ぶりだが、
フロントガラスの向こうの前の車もギシギシと揺れているのを見て、なんだ地震かあ 車の修理費用を心配せずに済むと
と、ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間

なんか長いし強いし、道路脇の美容室から頭が泡だらけの女の人たちが出てくるわで、なんか異常じゃない?ってそう感じた。

間髪いれずに、目の前の信号機が消えた時には、「ついに日本は終わった」と思った。

信号機が消えた時には、「これもしかしたら地震じゃなくて、核攻撃かもしれん」と思って、
車の外気導入を切り替えて、放射線対策の知識に乏しい自分に後悔に近いに感情を抱いた。

親戚の家にとりあえず着くと、無人だった。
自動車のカーナビでニュースを見ていると、停電でテレビが見れないらしいその隣人が「ちょっと、見せてくれ」と言ってきたので、
見せた。

「いやあー、俺、核戦争でも起きたのかと思ったよ。」とその隣人に話したら、なんか大袈裟な奴だなぁみたいな表情をされたが、
この後、あながち外れてもいない事態が実は別のところで起こっていたわけでね。

しばらくしていると、空で大砲のような音、もしくは山か地盤が折れたのではないか?というような音が聞こえてきた時、大きな地鳴りの後に地震が起こる、ってな昔に聞いた話を思い出した。

「これ、また地震くるよ」と俺が言うと、案の定2発目の地震が来た。

そのあと、自宅のアパートに戻り、商売をやっていたので店に徒歩で物を取りに行くと、自衛隊のヘリコプターが大雪の中を低空でホバリングしていた。被害状況を確認していたのだろう。

停電の最中なので、店にあったロウソク、電池、お茶、燃料の類を持って帰った。

近くの大型量販店はクローズし、普段なら不夜城のように電気がついているコンビニも電気が消えてクローズの状態だった。
とにかくそれから数日は、ほとんどの店が休業状態だった。逆に産直は営業していた。

不思議な光景だった。

まず、お金があっても買えるものがないのだから、この瞬間はお金が役に立たないシステムになった瞬間だった。
国が崩壊状態の地域ではドルやその他の紙幣よりも、塩や砂金のほうが信用されているなんて話を聞いたことがあったが、まさにこれがそんな状況だったのだろう。恐らく、もう2歩でも状況が悪ければ、そうなっていたかもしれない。

夜の7時ごろだろうか、車のカーナビでニュースを見ようと外に出ると、息も詰まるような暗黒の世界が敷き詰めれていた。
空間ってのを認識できる光ってのがないと、逆に閉塞感が半端じゃないな。

カーナビでニュースを見ていると福島第一原発のことがニュースになっていた。
あれ?震災のニュースは?何が起こっている?と全容をつかむのに大変だった。

次の日、俺の住んでいる地域の電力が戻ったところで、親戚が携帯の準電にやってきた。
その日の夜は居間の電気をつけて大きなカーテンだけを閉めて、台所だとかの窓のカーテンは閉めずに
明かりが外にも漏れるようにしておいた。

というのも前日の停電中、駅前のビルの屋上には電灯がついていたからだ。恐らくそのビルの自家発電機の電力なのだろうが、どこかに電力があるっていうが見えてるだけ、そのうちきっと戻るっていう安心感があったからな。

電力の復旧していないエリアの誰かが、俺の住むアパートの電灯を見たとき、「ああ、いずれこっちも戻るかぁ」って気になってくれればと思ってのことだった。

赤の他人の絶望感を気遣うって意味で、簡単でささやかな行動を起こしたのはこの時が初めてだったかもしれない。

電力が戻って次の日、震災から2日目のあたりなのだが、一向にガソリンも食い物も贖えない状況に変わりがなくて、タバコの残弾数も心細くなっていた時だった。禁煙パイポで気を紛らわせながらアパート横のバス亭のベンチに座っていた。天気がいいので日向ぼっこしていた。バスが来たときは、ベンチから離れないと乗客と間違われるな、なんて感じたが、ああそうだ、ガソリンがないからバスも走ってねえんだよな。と世の中が平常運転じゃなかったことを思い出す。

しばらくベンチに座っていると、近所のママさんが子供と一緒にビニールに野菜を持って歩いている。食い物見せびらかして、平和そうな顔して歩いてるとこみると、まだまだこの辺りも殺伐とした状況ではないらしいことを感じた。あれ?ビニールに野菜?
前を通る、親子に「天気が良くていいねえ。買い物かい?」と聞いてみると、「そこの産直、営業してましたよ」って話を聞いた。
ほう、そりゃいいことを聞いた。その日は何を買うでもなくその産直にいってみた。驚きだった。野菜が揃っていた。

そうか、そうか産直はやっていたか。明日、買い物に来ようなんて考えながら帰っている途中、コンビニや量販店の横を通る。
開いてない。

地元の産直は営業しているのに、大手のはずの店舗ってのはやってないんだなあ。そのように感じた。
でもこれは、後々聞くに量販店だけの話ではなかったらしい、大手のガソリンスタンドは営業できない状態だったようだが、個人の燃料屋は手動のポンプなんかで対応できていたらしい。

まあ、あった事実をまとめて考えてみると、「大手企業」も通常運転だからこそ機能できるものであり、「非常事態」だとこの通り頼りにならない。そんな状況だった。
まあ、被災地域で無理に営業しようとして、負債を抱えるよりはってのが利益追求って考え方もあったかもしれないけれどね。

原発にしてもそうなのだけれど「非常事態」への対応力ってこんなもんだったんだな、てのを垣間見た瞬間だったね。

お金、大手企業、原発だとか物事の「万能性」の真偽を見つめるいい機会になったよ。

そして、あの時の政治家たちの対応を見て、いよいよ以って「政治家、専門家の限界」ってのも見えたかな。

震災後、アフターマスの人生と周囲2

ちょいと今回は、いつも批判的に見ているスピリチュアルの見方も借りて、震災前、震災中、震災後について考えてみたいと思う。

震災前はというと、バブルが崩壊があってデフレそして、深刻な不景気に陥った。バブル崩壊の直後は、俺は中学生の時代であり、
「リストラ」「能力主義」という言葉がよく聞かれるようになった。
高校のあたりになると、「派遣労働者」という言葉がニュースでよく聞くようになり、9.11直後に「自己責任」という言葉が出てきた。
この「自己責任」という言葉は、「行ったら危険だ」と言われているにも関わらずそこに行った人間に対して使われた印象があったが、それが通常の日常生活の場面においてもいつの間にか言及されるようなった、そんな風に見える。
俺の中学の時代に大卒じゃないとまともな企業に入れないという風潮があったが、高校の始めのあたりは「大卒の上、資格を持つもの」じゃないと採用しないという風に変化し、「資格ゲッター」などの番組がテレビで放映され、いわゆる「資格ブーム」が幕を開けた。高校の終わり頃には「大卒の上、資格もあり、さらに実務経験者しか採用しない」という、新卒は仕事にすらありつけないという不遇な時代であり、また中高年層の失業率が深刻化したこともあり、若年層よりも中高年層を優先的に採用するよう、助成金や補助金の政策を政府が取ったため、若年層の就職難は益々厳しいものとなった。
このあたりに面接の質問事項や社内の評価項目に「コミュニケーション能力」や「協調性」、ともすれば「人脈の有無」という冷静に考えれば、これって人生かけての人間としての課題なんじゃない?って思っちまうようなそんな言葉も出てきた。
そのような質問を投げかけて評価の基準とするならば、当然「満点となる、もしくはそれに準ずる基準」をその人たちは知っているということだと思うし、良質な「コミュニケーション能力」と「協調性」ってのがあるというのが前提なはず。その結果が最近問題視されている「モラハラ」「パワハラ」なわけで。「これらが、あんたらの言うコミュニケーション能力や協調性のあるべき姿なんですかね?」と皮肉の一つでも言いたくなるな。「人材が足りない」「人手がない」「業績悪い」会社も、持っているらしい有用性ある「人脈」とやらで解決できなかったのだろうか?
そんな中、若年層の主な就職先といえば、「接客業」が殆どであり、身分も「アルバイト・パート」なんてもんで、「社員」といっても社員としての大変な仕事は要求されるが、待遇はバイト並み、「社会保険」なし「厚生年金」なし悪ければ「労災」すら下りないという肩書だけ損をしてしまうそんな状況だった。
「サービス残業」「過労」がメディアに取り上げられるようになったのは、俺にとって最近のことのように感じているが、この時代の多くの企業でこういったことが水面下で多くあった。特にも「過労死」に関しては「健康の自己管理不足」みたいに片付けられたのが殆どなんじゃない?
思い返せば、そんな状況の中、当然のように結婚率も極端に下がって出生率も下がり、地方の高校生であるバカなガキでしかなかった俺でも「不景気だから、結婚も子作りも困難なのだろう」と、概ねの結論に達することが出来たものだが、政府がその結論に達するまではその後10年の時間を必要とした。地方の高校に通うアホな少年でも出せた結論を、政治家のおっさん達は対策チームという組織をつくり、相応の費用をかけ、そしてそこに行きつくまでに10年かけたわけだ。
まあ、この出生率の低下が後々の平成末期・令和の問題として具現化してくるのだが…
この頃から「母親の育児放棄」という現象も顕著になってきた。この時、まだ若い俺が直感的に感じたのは「育成しない社会になったのだから、社会の最小単位の個人であるところの母親が、子供の育児放棄ぐらいしても仕方ないだろう」と感じた。
先にも触れたが事実上、経験者のみが採用される世の中だったのだから。
しかし、隠れた弊害として「育成しない」としていた社会が、後に「育成できない」社会になってしまったのじゃないか?と、俺はここ数年で肌で感じるようになった。だから、「人間」という不確定要素を概ね持たないとされているAIに委ねたがるのは、自明の理なのかもしれない。
話は少し外れるかもしれないが、「育成」ってのは手段や仕事手順を知っているだけの人間にはできないことだと思っている。それぞれに合った教え方を工夫したり、時にはその人間の成長を待つという人間としての素質も問われるものだと思っている。
俺がよく日常で聞いた言葉に「これだから、ゆとり世代は!!」ってのがあるが、こういう人間ほど人間としての懐の浅さを感じずにはいられない。いや、そもそも人に物を教える能力は著しく低いのだから本来の業務に戻ったほうが、お互いのためだろう。
「人を変えることはできず、自分を変えるしかない」ってな言葉を聞いたことがあるが、俺はまさにその通りだと思っている。
やっぱり人に物を教えるってのはその人の人生に変化の自発的変化の可能性を与える大事なのだから、その教える人の人間性も問われることだと感じる。やっぱり、教えるのが上手い人ってのは人柄もマスター級だもんな。
「俺教育係だから、これ読んどけ」っていって教えたつもりの奴には、インスタントラーメンでも食わせて、この世のどこかにお湯をかけて3分待てば一人前になる人間がいるらしいって教えてやればいい。きっと、有給とってでも探しにいくことだろうぜ。

話がそれちまったな。

高校を卒業して、一年後あたりだろうか、イギリスで「ニート」という社会問題があり、日本にもそんな若者がいるという話題がニュースでやっていた。「ニート、引きこもり」そんな言葉がネットでも見かけるようになった。

専門学校を卒業し、同級生たちと比べて1か月ほど遅れて、地方の新聞社に就職が決まったその日、ニュースでは「福知山線の事故」が報道されていた。記者会見にいた記者の「何笑ってんねん!!人が死んでんねんで!!」という怒号が飛んでいた。
これも蓋を開けてみれば、「人命の安全よりも、時間の厳守」っていう社内文化ってやつ?それが根底にあったようだ。

それから数年して、「秋葉原連続殺傷事件」が起き、「年越し派遣村」と流れていった。

そこから、政権が「自民党」から「民主党」に変わったあたりまでのことは、俺は世間で起こっていたニュースについては、ほぼよく覚えていない。

政権与党が「自民党」から「民主党」に変わった時に覚えていたことと言えば、王と民衆の間にある恐怖のようなものを感じたよ。
あの時の印象としては、選挙の直前まで世間は政治に対して静かになったような気がしたんだ。
そして、あの結果を見て
静かになった民衆が、それぞれの家の中で王の首を切る刃物を研いでいる様子を想像してしまった。ゾッとしたねえ。王様なんてなるものじゃないな…。

震災前のことを今になって、形而上的な要素も含めて考えると、

「金と人間の優先順位を間違えていた」もしくは「人間よりも金の価値のほうが高いとされていた」そんな世の中だったのだろうと思う。実際に、金が故に人命が損なわれたことがあったのだから。そして人間の尊厳も奪われた。
それは「金さえあれば」という「金万能神話」とでも言おうかね。そんなものが蔓延していからだろうな。

その後に起こる震災によって、ちょっと見えてくるものがこの後あるのだが





震災後、アフターマスの人生と周囲

今年も残す所、1日ってところだな。
みんなにとって、今年はどんな年だっただろうか?

今年の俺はといえば、前半はそれなりに悪くはなかったが、後半は絵に描いたような暴落ぶりだった。
年末年始なのだから一時休止というような雰囲気はなく、年を越す前に新たな争いに引きずり込まれるという、戦の神もびっくりな状況に巻き込まれている。

とはいえ、具体的に話して聞かせても互いに暗い気分にしかなれないから、これについては機会があればってなとこだな。

そんなこんなの中で、ふっつらと震災の時のことを、ついつい思い出してしまった。

震災当時は、俺は内陸部の盛岡にいたものだから、沿岸に住む連中とは違って、精々「ガソリンがない」「電気がない」「物がない」の程度だった。しかも、そんな状況は1週間続くか続かないかのモンだった。

翻って沿岸地域の連中はといえば、俺の味わった困難なんて比にならないほどの苦難を味わい、そして未だに解決されない問題の中に叩き来れている、そんな状況だ。

俺がちょいと、考え込んでしまったのは津波に飲まれていった奴らのこと。

「あいつら、まさか今日死ぬなんて思ってなかっただろうな…」

震災から何年も経つのに、今頃になって俺はそんなことを考え始めた。

残業に次ぐ残業の会社からの帰り道、不景気のせいかクリスマスらしさも大みそからしさも年々雰囲気を失っていく市街地を車で走りながら、

あいつら、こんな風に寒い時期に水に飲まれたんだよな…
死んじまうまでに何秒かかったのかな…
俺も溺れたことあるからなあ…
苦しんで死んだのかな…
楽に死ねたかな…

あいつら、どんな人生だったかな…

そんなことを考えていた。

少なくとも、俺よりも上手に生きただろう。俺よりも周囲の上手くやっていただろう。俺よりもちゃんと生きていただろう。
そんな奴らが、海沿いに住んでいたがために、

冷たいに水の中で窒息死なんて、俺は想像もしたくないような死に方をして、
窒息死は免れても、水に濡れた体のまま寒空の中で、日が昇る前に凍死した奴らや

とにかく、筆舌に尽くしがたい死に方をした連中が大量にいて

そんで、内陸にいた俺は生きていたんだな。

震災の直後は、自分の身の回りとか原発のこととかで、津波に飲まれていった連中については「成仏してください。また、チャンスがあればこの世のどこかに…」そのくらいのことしか考えていなかった。

苦しんで死んでいった人のその死に価値や意味を見出すことを考えていなかったなあ、とそんな風に思った。

俺がもっと若かったとき、「人の血が流れずに、国や時代が変わることなどあり得ない」と思っていた時のことを思い出した。

この震災で沢山の人が死んでいっただよな。何か変わっただろうか?

あんまり、変わった気がしないんだよな。

ま、何かを変えようしているのではなく、元に戻そうとしているのだから、変わることってのが殆どないのか…

でも、それで良かったのかな?むしろ事がさらに悪くなっているんじゃない?ってな気分になってきて、
あの時の、経験から今までのことをちょいと自分なりにまとめてみないとって、そんな気になってきた。

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moz84

Author:moz84
Screamerと牛頭鬼八です。岩手県に生まれ、とりあえず生きてます。

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