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scmrの時間の考察について追記というほどでもないが

ま、何というか啓示というわけでもないのだが、
時間は自分の外側にあるのではなく、内側にあるのではないか?
つまりは、Time is on my side
時間は俺たちサイドが持っているもの ってな感じで

俺が昔聞いていた曲だ

Time is on my side
聞いてみてくれ

Time is on my side/Irma Thomas
原曲バージョン聞いてみてくれ

次は、そうな この世界と魂の関係と構造について考察しようかね

市井の形而上学3 生命と非生命の境界線についての考察

訳あって、生命体と非生命体の境目について考えてみた。とりあえず、今のところの俺の結論からいうと

行き着いた結論
・生命の起源について考えるのはナンセンスかもしれない
・宇宙を満たしていたのは非生命ではなくて生命、つーか生命エネルギー
・俺たちは非生命から生命が発生したと考えがちだが、むしろ非生命などといのはない
・そもそも、俺たちが非生命体と考えているものも生命体
・宇宙の生命を考える時、地球上の生物学の定義で考えると混乱する
・地球が生命、太陽が生命と考えるならば宇宙の初動となったビッグ・バンも生命じゃね?
・ビッグ・バンの破片みたいなものであるところのエネルギーってもんそのものが生命力じゃね?

とりあえず、今のところこう考えている。

scmrのここ数日

なんか、妙な感覚がここ数日している。

というのは、

そうなあ、何かが心の中でひっくり返ってしまったような、そんな感覚だ。

今までの、自分の感覚では普通じゃなかったことが、
なんか心の中で起こっているというか…

ま、俺は哲学、心理学、スピリチュアル、オカルトの類の深い関心をもっていたのだが、
それは

職場とか、金のなさとか、人間関係のトラブルとか
そういう物質世界でのアクシデントに対応するための、補助的な要因として
扱ってきたつもりだった。

ま、簡単にいえば辛い現状を乗り切るために「神様は見ている」と自分に言い聞かせて、自分を騙して乗り越える、
みたいな感じかな。ちょっと、違う気もするが概ねそんな感じだった。

まあ、形而上学的な知識は現実世界を生き抜くための道具として、日々の糧を得る職場だとかをメインのフィールドにしていたわけだ。

無論、それは今の現実も変わらず、俺は金のため、残業も今日の日銭をどのくらい稼げるかが勝負だと思って出勤している。

ところが、

心のどこかで、難解な問題を経験したいという気持ちが少しずつ、湧いてきている。
難解な人間関係のトラブル、無理難題な仕事、完膚なきまでの失敗と敗北、それらを心のどこかで求め始めている。
だからといって、自発的に問題を作り出そうとは思わないが、

そんな感じだ。

その心を探ってみると、それらの問題を通して、または経験して練習しようとしている気持ちってのかな、
そんなのがあった。

これらが起きたら、事はどのように流れていくのか冷静に見つめたい、とか
こんな問題に置かれた時、どのように自分が対処するのか体験したいとか

そんな感じだ。

なぜかなあ、って考えてみたら

どうも、職場と今いる人間との間で発生するトラブルの経験を沢山溜め込んで、後の自分のやりたいことに生かそう。
だから、トラブルや問題に貪欲になろうと、どうも自分が考えているようだ。

現実世界を後の自分の活動(一体、何をやるのやら…)に生かすための道具という、
以前と比べると、逆転した考え方になっているようだ。

俺自身は本末転倒な考え方に、自分は今大丈夫だろうか?と心配になることもあるが、
それともこれが今起きている自分自身の変化なのかもしれないと、少々悩んでやいる。

今日も平穏無事で肩透かしを食らったような気分だが、ちょいと今見えている不安の前兆と、これがどうなってどういう結末に行き着くやらという、静かなワクワク感もある。

なんか自分自身に妙な感覚がある。


家に帰ったあともそうだった。
プログラマーの美徳的心がけの一つを、つい思い出した。
「道端にゴミが落ちていたら無視せずにゴミ箱に入れろ、汚れているところを見つけたら綺麗にしろ」
プログラムってのは膨大な問題の塊みたいなもの、つまりはトラブルを引き起こす原因となるプログラム部分やバグの原因の巣窟みたいな見方をしなくてはいけない部分があって、
ゴミの片づけ、掃除を通して問題に対して敏感に反応する目を養い、そしてそれを見つけたならば対処する癖をつけるのだそうだ。
プログラマーにもそれなりの体作りがあるようなのだ。後の大問題を引き起こさないために

俺のような不安症や心配性、ペシミストには、案外向いている仕事かもな

ま、それを思い出した。そんで、
「俺は掃除当番の時は、会社のトイレを掃除しているのに家のトイレを俺が自身が掃除したことがロクにないな」と感じ、
家について早々、トイレを掃除してみた。

ま、何か綺麗にするっていう疑似的動作を通して、意識の中の汚れを落としたいようなそんな気分でもあったからだ。

特にトイレの掃除と、逆転した考え方と何の関連性もないが、第一トイレ掃除も三日坊主で終わるかも分からないしな。

週末は、人に会うことが多かった、たまたま以前世話になったコーヒー屋のおやっさんに会って、
「君はもっと怪しさを売りにしたほうがいい。見かけの恰好をもっと考えたほうがいい」と言われた。

そこから、そうなあ今後のための普段の俺ではない、キャラクターの作りを考えることとなった。

いの一番に考えたのが、やはり内面的なところ、そこから出る言動について変える必要があるかなあ、なんて考えていたら

またまた昔、俺が散々悩ませて苦労と世話をかけた俺の元ケースワーカーと会った。今はその人は違う職業をしているのだが、個人的な付き合いがその後も、ままあった。

あれやこれや昔話をしたそのついでに、自分のこれからのキャラ作りについてそれとなく、意見を賜った。
「何々といえば、何々」みたいな関連性の強いキャラを目指してみれば?と言われた。
簡単に言えば「手塚治といえば、アトムの作者そして漫画家」ってな即座に関連性のある連想をされる、そんな存在を目指せば?
とのことだった。

そうだな、それが一番いい。俺はそう思った。

すると、頭の中に「町の豆腐屋さん」が浮かんできた。
この「町の豆腐屋さん」ってのは、俺が社会とかビジネスとか流通とか技術の世界とか、経済とか政治とか公共性とか
まあ、そんなものを考える時の指標というか、考察モデルというかモデルケースというか何というか、
とにかく何かを考える時に非常に役に立ってくれる頭の中の豆腐屋さんだ。

いつも、社会的なこと考える時は、例えていうならば、
いつもその「町の豆腐屋さん」の店に寄り道をして、そこで働く顔の分からない店主やお客さんや、粒さにイメージしたこともない店の外観を眺めてから、答えという名の目的地に歩いていく。そんな感じだ。

唐突に心の中に「豆腐といえば、町の豆腐屋さん」という俺本人以外が耳にしたら、全くもって分けわからん言葉が思い浮かんだ。
まあ、「町の豆腐さん」の詳しい話は機会があれば、ということにして

その人に自分の考え方や言動、いわゆる内面を変化させようかと思っていると、話してみたら
「内面や言動を自分に合わないものに変えるのは、常に演技をしていることになる。その演技を無理に続けているとそのうち自分がくたびれてしまうよ。」と言われた。

それもそうだな、長続きさせるならば無理な方向に自分を捻じ曲げないほうが賢明だな。

「それよりも、変えやすい服装とかそっちのほうがいいと思う。それならば、心や言動をありのままにして、見た目で人は認識してくれると思う。」

やはりか、そう来たか。
ま、外見はゆっくりと考えるとして、

自分が自分に人に認識してもらいたいキャラクターを考えるに差し当たって参考までに、他人の俺に対するキャラ的な認識について、その人に尋ねてみた。

「そうだなあ、見た目は近寄りがたい心の中身がエケコ人形の男、だな。タバコもよく吸うし」と言われた。

とりあえず、俺は「近寄りがたいエケコ人形」という見方を手に入れた。
縁起物で良かったよ。

コーヒー屋のおやっさんの言葉をそこに加えると
「怪しく、近寄りがたいエケコ人形」になるな。

そういえば、かなり昔
夜の仕事をしながら、虎視眈々と反骨精神むき出しの画家の道を模索していた俺を友人が
「モグラだな。」といっていたな。

SCMRの考えてもみれば

唐突だが、以前このブログでも書いたクラマなのだが、

ま、知らない人に簡単に説明すると、

数年前に俺のところに来た霊的な存在。もしかしたら、魔物かなぁ。

そんなのが俺にはついているようで、
とはいえ 霊的なものを知覚できない俺にとって本当に身近にいるのか…
考え過ぎか…
俺にはどちらとも言えないのだが、

ま、仮に実際に存在すると仮定して…

そんなのがいる。いるってことにしておいて。
じゃないと、話が進まないから

こいつはいつも、出てくるわけじゃない。
出てくるといっても姿が見えるわけではない。
イメージってやつかなあ。

でも、なんとなくいつも近くにいて、俺を守ってくれているような
そんな存在だ。

最初に会ったのは、家の玄関。
まあ、俺は見たわけじゃないが

黒くて長い毛で、赤い目をして
そして、刀で切られたような傷があったらしい。

らしいってのは、俺には見えないからなあ

風雅な芸や歌をこよなく愛する、優しいお公家さんのペットだったようで、
しかしながら、こいつは犬だったのか熊だったのかも分からない、そんな奴だったようで

その優しい飼い主は、近しい人間に裏切られて殺され、その時にクラマも殺されたと聞いた。

まあ、そのクラマはそのご主人を探していたようだが、どういう巡りあわせか俺について
くれることになった。

俺が人の世で情けない思いをした時は
「お館さまは立派な方です。」とか言っていたような、言っていなかったような

そんで、また人の世で理不尽な思いをした時は
「お館さまのお許しがあれば、私が行ってきます」みたいなことを聞いたような気がした時は、
「こんな下らないことにお前を巻き込みたくないから…」と心の中で言って、
彼をなだめたりした。

最近、ちょっと色々とあって
ついつい、久しく忘れていたクラマを意識する機会が増えて、
こいつは一体何者なのだろうと、真剣に考えるようになった。

クラマと出会ってから暫くして、
クラマの姿が見える奴に聞いた時、俺が聞いていた黒くて長い毛の獣の姿ではなく
水干を着た童子の姿だったようで、刀を持っていたらしい。
牙を刀に変えたのだろうか

考えてもみれば、今まで全体像をぼんやりとしかイメージできてなくて、
細かにイメージしたことがなかったなあと思い、

これも何かの機会だと思って、クラマをイメージしてみた。
年のころは、13歳か14歳くらいだろうか
平安時代のことは分からないが、その年で童子ってのは大きいほうかもしれない

なんか、きつい目をしているようなそんなイメージだ。

13歳くらいとなると、まあ年の頃だよな、
ちょいと、いたずら心で クラマの横に同じくらいの娘を置いてみた。

クラマは照れるでもなく、表情一つ変えずに彼女に対して無関心だった。
いや、相手にするような気がしなかった。

嫌がらせの無関心を装うのではなく、主人であるところの俺以外に興味を示さない。

なんだか彼がこんな風になってしまったことに、嫌なものばかり見せてしまったせいだろうかと
ちょっと自責の念にかられた。

クラマの横でどうしたらいいか困惑している娘には退場してもらって、

彼を突き動かしている感情はなんだろうかと、イメージしてみた。
彼の心にあるのは「かたき討ち」つまりは「報復」の心だった。そして、その奥には「悲しみ」と「怒り」と「痛み」、そして冷え切ってはいるがわずかばかりの「希望」があるような気がして、でもそれを彼自身も押し殺しているような
そんな風に感じた。

「これ果たせば、我の生涯終わり」みたいな表情をしてる彼に
「これからは一緒に何かやろうと」持ちかけてみた。彼は俺に対しては従順だ。
思い起こせば、俺の方からクラマに働きかけるのは初めてかもしれない。

さあて、クラマと何をするかね。

そういえば、高校の時に聞いていた歌とクラマと俺の関係にピッタリな感じの歌があった。まあ、載せておくよ

トキハナツ(筋肉少女帯)

市井の形而上学2 時間の変化

前回に引き続き

時間の流れを変える
(時をかける30代男計画)


だが、前回の記事を書いてから翌日のこと、ちょっとのっぴきならないような
仮説に至ったので、方法を修正。あまり関係がなさそうな方法には線を引いた。

試そうとしている方法
・イメージングか瞑想等を用いて、自分のエネルギーか、もしくは魂の大きさを変える
・多分、小さくすると時間の流れは遅くなり、もしくは遅く感じる
・おそらく、大きくすると時間の流れは速くなり、もしくは早く感じる
・魂やエネルギーの体積を増やすため、「ポジティブな意識」を使う
・魂やエネルギーの体積を縮めるため、「ネガティブな意識」を使う

ま、全てだった。なので、新しく

試そうとしている方法
・時間を早く流すには、意識に「指向性」を持たせる
・時間を遅く流すには、意識に「拡散性」を持たせる
・意識に指向性を持たせるには、何かに「集中」すること
・意識に拡散性を持たせるには、何にも「集中」しないこと


そして、俺の時間に関して
「この空間、世界に時間なんてものはない。時間を持っているのは俺たちの意識や脳だ」
という仮説に行き着いた。

そのいきさつを詳しくいうと、
どうしても、俺は「時間を操る方法」を探求したくて、
コンピュータのプログラムをいじってみた。とはいえ、俺には物理とか量子論の詳細な知識はないから、本当に簡単なものだった。

(閑話休題、一時間後あたりにまた書くよ)
(一時間たったので、再開)

その前にだ

昨日、時間ってやつの正体についてあれやこれや考えていたのだが
「絶対時間」やら「相対時間」やら
自分主体に時間を考えると、やはり他人との時間のずれや差異についての矛盾というか、何というか
どうも、すっきりとしなかった。

考えに考えあぐねいて、結果
頭の中がすっかり煮詰まってしまったので、ちょいと考え方を変えてみることにした。

「自分の信じているものを疑う」「この世界は幻想」の言葉に従って、
俺はこの世界に時間があると信じているが、その考えそのものが間違っているのではないか?

そこから考えてみることにした。

「この世界には時間などない」という乱暴な観点から、考え直してみた。

時間のない世界のモデルとしてこんなプログラムをしてみた。


0




ま、こんな感じに黒い背景に数字の0なのだが、これは次の数字の1になったりはしない。
つまりはずううっと0のまんま。だから0には過去も未来もない。だから、およそ時間のようなものはないわけだ。


0






ま、この「Count Up」っていうボタンをクリックしてもらうと分かるが、押せば普通に数字が1ずつ加算されるわけ。
つまりは今の数字の1つ前は「過去」で1つ後は「未来」になるわけだ。

でも、である。

このある種の時間に相当するプログラムは背景の黒い部分にはない。
時間というプログラムを持っているのは、この数字だけである。

つまりは、この黒い背景を俺たちが住んでいる宇宙空間と捉え、数字を俺たち人間としたならば、
空間には時間はなく、時間を持っているのは人間、もしくは物体ということなのでは?
と思った。

ま、単純に簡単なプログラムをしただけに、過ぎないのかもしれないが、それでは次


0







この「Count Up2」というボタンをクリックすると、1回につき1つ数字が加算される。「zero clear」を押すと数字は0になる。
数字を2つ加算、つまりは未来に2つ進めたければ、2回クリックするわけ。
逆に押さなければ、数字はそのまま。時間が止まっていることと同等だ。

時間を止めるとなると、またちょっと別な問題が出てきそうだが、例えれば「光速移動」とかね。
でも、時間の流れの早さを変えていることには似ているかもしれない。

とりあえず、ここまでで俺の立てた仮説は「時間は俺たちの外側を取り巻く空間にはなく、俺たちの内側にあるのではないか?そしてそれはコントロールがある程度できそうだ」
ということである。

では、具体的にどうすれば時間の流る速さをコントロールできるのかそれについて考えた。

時間のない世界で、時間を進める方法は
自分が時間の存在しない世界を前に向かって歩くしかない。
それは、道路をスタート地点を「0秒」としてゴール地点を「1時間後」とした時、やはりゴール地点に向かって歩いていくしかない。

ここで、応用できそうな話が 光の周波数と距離の関係だった。
光は周波数が高いほど届く距離は短く、周波数が低いほど届く距離が長くなる

しかし、注目すべき点は「周波数」ではなくて「波形」と「直線」である。
例えればロープ、同じ長さでもロープを波の形に蛇行させると、左端と右端の距離は短くなる。
直線的ならば左端と右端の距離は長くなる。

俺は、さっさとゴール地点であるところの「1時間後」に到達したいのだから、意識を直線的にするしかない。つまりは、「指向性」を強めるのだ。意識が時間を作り出しているのなら意識の指向性を強めるしかない。

「直線的意識」でイメージしたのが結局は、

「集中」だった
結局これに行き着いた。

どう集中したら、時間を前に進めることができるだろうか?
そう考えたらちょっと閃いた。
それは時間の経過を「感じる」ことを多く体験することなのではないか?と。

「時間」というものが人間の意識や脳の感覚や幻想のようなものならば、目で見て 耳で聞き 肌で感じ 五感で体験できる形で、時間の経過を納得できることを体験するしかないのではないか?

そのように感じた。

経験的にもそうだ。昔ラーメン屋で働いていたこともあったが、味噌ラーメンつくって、しょうゆラーメンつくって、ネギ刻んで、タンタンメンつくって、もやしラーメンつくって、ネギ刻んでってやっていたら

「もう、こんな時間だよ!!!!」ってことがあった。これはつまりは、時間の経過を納得できる感覚を多く体験したからだろう。

そうすると、「やべえ、時間ねえよおおお」という嫌な状況でも、「楽しいいいいいい」っていう状況でも、時間の流れが早くなることや、ネズミや象の時間の流れが違うという事も案外説明がつくかもしれない。

元々ないものを 生き物や非生命体が作り出しているのだとすればね。

とりあえず、自分の仮説を試してみるか

結局、「時間なんて存在してないんじゃないか?」っていう180°の方向から考えて 「集中」なんていう結局 360°の結論に戻ったような…再発見というか、堂々巡りというか…


市井の形而上学1  時間の変化

自分のためにも、また他の人のためにもと思って、自分の思いついたものをリファレンス。
つまりは辞典みたいにして備忘録にでもしようかと思った。

時間の流れを変える
(時をかける30代男計画)


試そうとしている方法
・イメージングか瞑想等を用いて、自分のエネルギーか、もしくは魂の大きさを変える
・多分、小さくすると時間の流れは遅くなり、もしくは遅く感じる
・おそらく、大きくすると時間の流れは速くなり、もしくは早く感じる
・魂やエネルギーの体積を増やすため、「ポジティブな意識」を使う
・魂やエネルギーの体積を縮めるため、「ネガティブな意識」を使う


と、いうのを考えてみた。
ま、理由ってのがしょうもない理由で、ただ ただ つまんねえ時間を早く流したいなあ
って思っただけだ。

ま、時間てのは「絶対時間」ってのと「相対時間」ってのがあるようだ、これらの知識はちょいと、後で勉強しておくが、
まあ「相対性理論」とか、ま、そっち関係の話だ。

ま、今回はリファレンスらしく「具体的な目的」を書いて、「それをするための具体的な行動」を書き、理屈は後ろのほうに回そうとおもったわけだ。

とりあえず、時間の流れの早さだとかには、人間の感覚的なものもあるようだが、
時間ってのは衝撃によってずれたり、重力によって変化したりするようだ。

重力での変化の寓話みたいなものは「浦島太郎」だろうか

海底の時間は流れが遅く、地上の時間は流れが速いという話だ。

実際、潜水艦と航空機の中では、潜水艦の中の時間の流れは遅く 航空機の中の時間の流れは早いらしい

これは、地球の中心に近いほど時間の流れは遅くなり、地球の外側に近いほど時間の流れは早くなる、ということのようだ。

時間の流れに関するたとえ話にこんな話がもう一つある、直接的に関係するかどうかは分からないが、
「象とネズミが新年のあいさつに来たら」という例え話をきいたことがある。時間の流れは体重に関係するらしく

ネズミはあいさつに来て1時間くらいで「ああ!!もう一日中いちゃった」と言い
象はあいさつ来て1日中いても「まだ、こんな時間ですか」と言う

というものだ。ネズミの時間は早く、象の時間は遅いというものだ。

つまりは、どうも 重さもしくは質量は 時間の流れに影響を与えるということのようだ。

子供の時の1年は長く、大人の時の1年は感覚的なものもあるかもしれないが短いらしい。

因みに自分の足と頭では時間の流れは違うらしい。

さて、ここからが要の部分なのだが、

ま、魂とか人間のエネルギーとやらには「引き寄せの法則」とか「引力の法則」とか、
そういう言葉が絡むのだが、

惑星の引力と、魂とか人間のエネルギーってのは同じような性質だったとしたら? と思ったわけだ。
まあ、確かめようがないのだが

このエネルギーや魂の体積(そもそも、度量衡で測れるようなものではないが、ある例外を抜いては)
を変化させれば、引力や重力のような作用が起こって、時間の流れの早さをコントロールできるのではないか?
そのように思ったのだ。

んでだ、

量子の関係の話なのだが、細かい説明は今回は省くとして、

現実に流れている時間や、過去は観察者の意識によって変化するかもしれない、という話がある。

つまりは、俺はこのように考えた

「絶対時間」「相対時間」だとか色々とあるのだが、「時間」は人間の意識で変化できるのではないか?
と考えた。

それって、結局「感覚としての時間じゃないか?」って思うかもしれないが、そうではなくて
意識によって本当に流れている時間に影響を与えられるのでは?そう、思った。

暇にまかせて、ずううううううううううっとこんな事を考えていた。

そもそも、この宇宙空間は「仮想現実」だという話もあるし、「時間」ってやつは俺たちの意識が作り出している
幻覚のようなものかもしれない。

他に人間もいるこの世界で、そんなことが起こったら、個人個人の意識によって時間がずれまくるじゃないか!!
って意見もあろうが、

物理学の世界では「世界が存在できるのは、それを見ている観察者がいるから」
という話がある。逆にいえば、
「その世界を終わらせる方法は、観察者がその場所から去る」ということのようで

俺の見ている仮想の世界は、俺が見て意識しているから存在している、という観点からみれば、
他者の見ている仮想の世界に、大した影響は直接的に与えないのではないか?

と直感でしかないが、そのように思った。

ん? 仮想世界と自分と他者か…
これは、また考察すると面白そうな事になりそうだ、これについてはまた後でだな。

それはさておき…

どうやれば、魂なりエネルギーの体積を大きくすることができるか? なのだが、

これは温度と熱エネルギーと圧力の関係にヒントがあると、踏んだ。

圧力と温度の関係なのだが、

温度(エネルギー)が上がると、圧力が上がる。
逆に圧力が上がると、温度(エネルギー)が上がる。
どちらも体積が増える。

温度(エネルギー)が下がると、圧力が下がる。
圧力が下がると、温度(エネルギー)が下がる。
どちらも体積が減る。

というものを応用すると、ポジティブな意識を持てば、時間は早く流れ
ネガティブな意識を持てば、時間は遅く流れるのではないか?

しかし、矛盾点がある。つらい時間ほど遅く感じるのは経験的に納得できるとしても、

「楽しい~♪」の時は、時間の流れが速くなるが、
「やべえ、時間がねえよ!!」の時も時間の流れが速いよなあ、
後者は決してポジティブな状況ではないのだが、
「やべえ」って感じている時点で、エネルギーが活発になっているとか、「意識を支える強い意識を、宇宙は実現する」の原理か
まあ、そういうのもあるかもしれないが、

このあたり、もっと説得力ある理論を考察しねえといけねえかなあ。もう少し、考える余地がありそうだ。

とりあえずのたたき台として、

「ポジティブな意識は時間の流れを早め、ネガティブな意識は時間の流れを遅くするか?」

を掘り下げておこう。では、この話題は後程



しかしながら、ネガティブによってが質量が大きな魂やエネルギーの体積を縮めると、魂のブラックホール化が起こるのでは?とも思った。
どんな理由かは知らないが、地球がこのままの質量のまま、手の平サイズまで縮めるとブラックホールになるっていうからなあ





いじめの処方箋について考えてみた

子供でも大人でも社会からいじめがなくならない世の中ではあるが、いじめというのは随分古くからある現象だというのは、想像に難くない。世の中に不要なものはなくなり、必要なものは存在し続けるという観点から考えてみたとき、
「社会がいじめを必要としているのではないか」という考えに至った。
まあ、これを言ううととんでもないことを言っていると感じるかもしれないが、俺は以前知人より「マグロ漁船のいじめられ役」というの聞いたことがある。遠洋で海で長い期間、船上生活をしているとどうにもフラストレーションがたまるらしく、これを解消しないと互いに殺し合うようなそんな事態になりかねないらしく、わざと「いじめられ役」を乗せるらしいのだ。彼は船上生活でいじめられまくるわけだが、それによって漁師たちのフラストレーションのはけ口としているらしい。

しかし、これはマグロ漁船の話に限ったことではないのではないか?と思った。学校や会社などあらゆる組織は、フラストレーションのピークに達するスパンに差はあるかもしれないが、大体のところでパワハラぎりぎりだったり、本当のいじめだったり、正直いじめがないところなんてないのではないか?と俺は考えている。

仕事の良し悪しは時の運であると思う。

「うちの組織にはいじめがあります。いじめですっきり、ストレスフリー」なんていうことを宣伝する組織などない。つまりは、あってもない事にされてしまっているのだ。

では、どんなタイプがいじめの対象になるかというと、ま毛色が違うとか、ちょっとした間違いを犯した。とか、そういう些細なところからであろう。「弱そうだったからいじめる」というのも理由にはなると思うが、それだと自分の良心呵責を覚えるだろうから、「あいつは間違った」「あいつはそこが悪い」だから「正義の鉄槌を下しているのだ」という論理を自分に自身に言い聞かせることができれば、いじめる側の自尊心も傷つかずに済むのだろう。ま、本当は弱そうであれば誰でもいいのではないだろうか?

その証拠として、今までいじめられていた人間がその場を去ったあと、別な誰かがいじめのターゲットとなるのはよくある話だ。

それで、もう一ついじめがはびこっている組織は大体上手くいってないような気もしている。会社ならば業績が悪い。学校ならば生徒に負荷がかかるような体制があるとか。

逆に考えるといじめの有無が、その組織の内情を表す部分もあるのではないか?

もし、このいじめれ役がいなかったら、組織内そこかしこで衝突が発生しまくって、組織そのものが立ち行かなくなるだろう。
誰かを生贄とすることでその組織が保たれているとしたらどうだろうか?

フラストレーションのはけ口として、見た時に俺はいの一番に想像したのが、
仕事終わりのサラリーマンに「お前、バカだな」とか言われている飲み屋のねーちゃんだった。
そのサラリーマンはそうすることによって自尊心を保っているだろうことは、想像に難くない。
そして、そのねーちゃんは商売とはいえ、実はそのサラリーマンの人生を救っている存在なのだと考える。
まあ今更、何当たり前のこと言ってんだ、ってみんなから言われそうだけれどね。

さて、ここで「いじめる側」と「いじめられる側」のどちらに問題があるかという話だが、
俺としては「いじめる側に問題がある」ということは当然として、「いじめる側は問題を抱えている」と思うのだ。

冷静になって考えてみると
まず、俺が誰かを「憎い」とか「好きだ」と感じるのは俺個人の内省的な事柄とか、問題である。そして、それは誰にも関係ないのだ。「俺がどう思っているか」それ以上でもそれ以下でもないはずだ。

にもかかわらず、それを言動として外に出すというのは、その人個人が重篤な問題を抱えていて、もう溜め込むことが出来なかった結果のように思える。

ま、結構いじめる側ってそいつ自身がかなりの問題を抱えていることが多いように思えるが、手っ取り早い安易な方法をとったものだと、俺個人としては呆れる。だが、しかし言動の逆というものを考えてみると
いじめる側は「いじめ」という表現手段を用いて、「自分は傷ついているんだ、自分は追い詰められているんだ、自分は理解してほしいんだ」と悲鳴を上げているのかもしれない。ま、別に同情するつもりはないが

いじめという手段をとった人間の心は、「愛されたい、認めてほしい、強くみせたい、誰よりも幸せだと虚勢を張りたい」という劣等感複合体なのだろう。そしてそのフラストレーションを最も自分が納得できる方法で解消しようとするのだろう。

つまりは、「自分との向き合い方が上手くいっていない。もしくは、自分と向き合うことに失敗した人格」なのかもしれない。

さていじめられる側なのだが、これは不運としか言いようがない。心中お察しします。というのが俺の思いだ。
まあ、こんなこと言っても気休めにもならないのだが、あなたの犠牲によって今日、あなたの組織は保たれました。あなたがその場を去った時、別な誰かがあなたの代わりとなります。ただそれだけの事です。特別、あなたが何かの罰を受ける言われはないのです。いじめる側は自分達を正当化するため、もっともらしい事を必死になっていいます。でも、そんなことはアテにならないのです。

因みになのだが、俺は
仕事の出来具合と人格はイコールではありません。
ピンチの時、追い詰められた時こそ、人格が試されます。
いじめをするしないは人格を表します。
と、考えている。

しかし、この「いじめ」というのを「捕食者、被捕食者」の関係を表したりする「生態系」モデルを使うと、いじめの根本的原因が見えてくるかもしれないな。
プロフィール

moz84

Author:moz84
Screamerと牛頭鬼八です。岩手県に生まれ、とりあえず生きてます。

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