前回に引き続き
時間の流れを変える
(時をかける30代男計画)だが、前回の記事を書いてから翌日のこと、ちょっとのっぴきならないような
仮説に至ったので、方法を修正。あまり関係がなさそうな方法には線を引いた。
試そうとしている方法・イメージングか瞑想等を用いて、自分のエネルギーか、もしくは魂の大きさを変える・多分、小さくすると時間の流れは遅くなり、もしくは遅く感じる・おそらく、大きくすると時間の流れは速くなり、もしくは早く感じる・魂やエネルギーの体積を増やすため、「ポジティブな意識」を使う・魂やエネルギーの体積を縮めるため、「ネガティブな意識」を使うま、全てだった。なので、新しく
試そうとしている方法
・時間を早く流すには、意識に「指向性」を持たせる
・時間を遅く流すには、意識に「拡散性」を持たせる
・意識に指向性を持たせるには、何かに「集中」すること
・意識に拡散性を持たせるには、何にも「集中」しないことそして、俺の時間に関して
「この空間、世界に時間なんてものはない。時間を持っているのは俺たちの意識や脳だ」という仮説に行き着いた。
そのいきさつを詳しくいうと、
どうしても、俺は「時間を操る方法」を探求したくて、
コンピュータのプログラムをいじってみた。とはいえ、俺には物理とか量子論の詳細な知識はないから、本当に簡単なものだった。
(閑話休題、一時間後あたりにまた書くよ)
(一時間たったので、再開)
その前にだ
昨日、時間ってやつの正体についてあれやこれや考えていたのだが
「絶対時間」やら「相対時間」やら
自分主体に時間を考えると、やはり他人との時間のずれや差異についての矛盾というか、何というか
どうも、すっきりとしなかった。
考えに考えあぐねいて、結果
頭の中がすっかり煮詰まってしまったので、ちょいと考え方を変えてみることにした。
「自分の信じているものを疑う」「この世界は幻想」の言葉に従って、
俺はこの世界に時間があると信じているが、その考えそのものが間違っているのではないか?
そこから考えてみることにした。
「この世界には時間などない」という乱暴な観点から、考え直してみた。
時間のない世界のモデルとしてこんなプログラムをしてみた。
ま、こんな感じに黒い背景に数字の0なのだが、これは次の数字の1になったりはしない。
つまりはずううっと0のまんま。だから0には過去も未来もない。だから、およそ時間のようなものはないわけだ。
ま、この「Count Up」っていうボタンをクリックしてもらうと分かるが、押せば普通に数字が1ずつ加算されるわけ。
つまりは今の数字の1つ前は「過去」で1つ後は「未来」になるわけだ。
でも、である。
このある種の時間に相当するプログラムは背景の黒い部分にはない。
時間というプログラムを持っているのは、この数字だけである。
つまりは、この黒い背景を俺たちが住んでいる宇宙空間と捉え、数字を俺たち人間としたならば、
空間には時間はなく、時間を持っているのは人間、もしくは物体ということなのでは?
と思った。
ま、単純に簡単なプログラムをしただけに、過ぎないのかもしれないが、それでは次
この「Count Up2」というボタンをクリックすると、1回につき1つ数字が加算される。「zero clear」を押すと数字は0になる。
数字を2つ加算、つまりは未来に2つ進めたければ、2回クリックするわけ。
逆に押さなければ、数字はそのまま。時間が止まっていることと同等だ。
時間を止めるとなると、またちょっと別な問題が出てきそうだが、例えれば「光速移動」とかね。
でも、時間の流れの早さを変えていることには似ているかもしれない。
とりあえず、ここまでで俺の立てた仮説は「時間は俺たちの外側を取り巻く空間にはなく、俺たちの内側にあるのではないか?そしてそれはコントロールがある程度できそうだ」
ということである。
では、具体的にどうすれば時間の流る速さをコントロールできるのかそれについて考えた。
時間のない世界で、時間を進める方法は
自分が時間の存在しない世界を前に向かって歩くしかない。
それは、道路をスタート地点を「0秒」としてゴール地点を「1時間後」とした時、やはりゴール地点に向かって歩いていくしかない。
ここで、応用できそうな話が 光の周波数と距離の関係だった。
光は周波数が高いほど届く距離は短く、周波数が低いほど届く距離が長くなる
しかし、注目すべき点は「周波数」ではなくて「波形」と「直線」である。
例えればロープ、同じ長さでもロープを波の形に蛇行させると、左端と右端の距離は短くなる。
直線的ならば左端と右端の距離は長くなる。
俺は、さっさとゴール地点であるところの「1時間後」に到達したいのだから、意識を直線的にするしかない。つまりは、「指向性」を強めるのだ。意識が時間を作り出しているのなら意識の指向性を強めるしかない。
「直線的意識」でイメージしたのが結局は、
「集中」だった結局これに行き着いた。
どう集中したら、時間を前に進めることができるだろうか?
そう考えたらちょっと閃いた。
それは時間の経過を「感じる」ことを多く体験することなのではないか?と。
「時間」というものが人間の意識や脳の感覚や幻想のようなものならば、目で見て 耳で聞き 肌で感じ 五感で体験できる形で、時間の経過を納得できることを体験するしかないのではないか?
そのように感じた。
経験的にもそうだ。昔ラーメン屋で働いていたこともあったが、味噌ラーメンつくって、しょうゆラーメンつくって、ネギ刻んで、タンタンメンつくって、もやしラーメンつくって、ネギ刻んでってやっていたら
「もう、こんな時間だよ!!!!」ってことがあった。これはつまりは、時間の経過を納得できる感覚を多く体験したからだろう。
そうすると、「やべえ、時間ねえよおおお」という嫌な状況でも、「楽しいいいいいい」っていう状況でも、時間の流れが早くなることや、ネズミや象の時間の流れが違うという事も案外説明がつくかもしれない。
元々ないものを 生き物や非生命体が作り出しているのだとすればね。
とりあえず、自分の仮説を試してみるか
結局、「時間なんて存在してないんじゃないか?」っていう180°の方向から考えて 「集中」なんていう結局 360°の結論に戻ったような…再発見というか、堂々巡りというか…