子供でも大人でも社会からいじめがなくならない世の中ではあるが、いじめというのは随分古くからある現象だというのは、想像に難くない。世の中に不要なものはなくなり、必要なものは存在し続けるという観点から考えてみたとき、
「社会がいじめを必要としているのではないか」という考えに至った。
まあ、これを言ううととんでもないことを言っていると感じるかもしれないが、俺は以前知人より「マグロ漁船のいじめられ役」というの聞いたことがある。遠洋で海で長い期間、船上生活をしているとどうにもフラストレーションがたまるらしく、これを解消しないと互いに殺し合うようなそんな事態になりかねないらしく、わざと「いじめられ役」を乗せるらしいのだ。彼は船上生活でいじめられまくるわけだが、それによって漁師たちのフラストレーションのはけ口としているらしい。
しかし、これはマグロ漁船の話に限ったことではないのではないか?と思った。学校や会社などあらゆる組織は、フラストレーションのピークに達するスパンに差はあるかもしれないが、大体のところでパワハラぎりぎりだったり、本当のいじめだったり、正直いじめがないところなんてないのではないか?と俺は考えている。
仕事の良し悪しは時の運であると思う。
「うちの組織にはいじめがあります。いじめですっきり、ストレスフリー」なんていうことを宣伝する組織などない。つまりは、あってもない事にされてしまっているのだ。
では、どんなタイプがいじめの対象になるかというと、ま毛色が違うとか、ちょっとした間違いを犯した。とか、そういう些細なところからであろう。「弱そうだったからいじめる」というのも理由にはなると思うが、それだと自分の良心呵責を覚えるだろうから、「あいつは間違った」「あいつはそこが悪い」だから「正義の鉄槌を下しているのだ」という論理を自分に自身に言い聞かせることができれば、いじめる側の自尊心も傷つかずに済むのだろう。ま、本当は弱そうであれば誰でもいいのではないだろうか?
その証拠として、今までいじめられていた人間がその場を去ったあと、別な誰かがいじめのターゲットとなるのはよくある話だ。
それで、もう一ついじめがはびこっている組織は大体上手くいってないような気もしている。会社ならば業績が悪い。学校ならば生徒に負荷がかかるような体制があるとか。
逆に考えるといじめの有無が、その組織の内情を表す部分もあるのではないか?
もし、このいじめれ役がいなかったら、組織内そこかしこで衝突が発生しまくって、組織そのものが立ち行かなくなるだろう。
誰かを生贄とすることでその組織が保たれているとしたらどうだろうか?
フラストレーションのはけ口として、見た時に俺はいの一番に想像したのが、
仕事終わりのサラリーマンに「お前、バカだな」とか言われている飲み屋のねーちゃんだった。
そのサラリーマンはそうすることによって自尊心を保っているだろうことは、想像に難くない。
そして、そのねーちゃんは商売とはいえ、実はそのサラリーマンの人生を救っている存在なのだと考える。
まあ今更、何当たり前のこと言ってんだ、ってみんなから言われそうだけれどね。
さて、ここで「いじめる側」と「いじめられる側」のどちらに問題があるかという話だが、
俺としては「いじめる側に問題がある」ということは当然として、「いじめる側は問題を抱えている」と思うのだ。
冷静になって考えてみると
まず、俺が誰かを「憎い」とか「好きだ」と感じるのは俺個人の内省的な事柄とか、問題である。そして、それは誰にも関係ないのだ。「俺がどう思っているか」それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
にもかかわらず、それを言動として外に出すというのは、その人個人が重篤な問題を抱えていて、もう溜め込むことが出来なかった結果のように思える。
ま、結構いじめる側ってそいつ自身がかなりの問題を抱えていることが多いように思えるが、手っ取り早い安易な方法をとったものだと、俺個人としては呆れる。だが、しかし言動の逆というものを考えてみると
いじめる側は「いじめ」という表現手段を用いて、「自分は傷ついているんだ、自分は追い詰められているんだ、自分は理解してほしいんだ」と悲鳴を上げているのかもしれない。ま、別に同情するつもりはないが
いじめという手段をとった人間の心は、「愛されたい、認めてほしい、強くみせたい、誰よりも幸せだと虚勢を張りたい」という劣等感複合体なのだろう。そしてそのフラストレーションを最も自分が納得できる方法で解消しようとするのだろう。
つまりは、「自分との向き合い方が上手くいっていない。もしくは、自分と向き合うことに失敗した人格」なのかもしれない。
さていじめられる側なのだが、これは不運としか言いようがない。心中お察しします。というのが俺の思いだ。
まあ、こんなこと言っても気休めにもならないのだが、あなたの犠牲によって今日、あなたの組織は保たれました。あなたがその場を去った時、別な誰かがあなたの代わりとなります。ただそれだけの事です。特別、あなたが何かの罰を受ける言われはないのです。いじめる側は自分達を正当化するため、もっともらしい事を必死になっていいます。でも、そんなことはアテにならないのです。
因みになのだが、俺は
仕事の出来具合と人格はイコールではありません。
ピンチの時、追い詰められた時こそ、人格が試されます。
いじめをするしないは人格を表します。
と、考えている。
しかし、この「いじめ」というのを「捕食者、被捕食者」の関係を表したりする「生態系」モデルを使うと、いじめの根本的原因が見えてくるかもしれないな。
「社会がいじめを必要としているのではないか」という考えに至った。
まあ、これを言ううととんでもないことを言っていると感じるかもしれないが、俺は以前知人より「マグロ漁船のいじめられ役」というの聞いたことがある。遠洋で海で長い期間、船上生活をしているとどうにもフラストレーションがたまるらしく、これを解消しないと互いに殺し合うようなそんな事態になりかねないらしく、わざと「いじめられ役」を乗せるらしいのだ。彼は船上生活でいじめられまくるわけだが、それによって漁師たちのフラストレーションのはけ口としているらしい。
しかし、これはマグロ漁船の話に限ったことではないのではないか?と思った。学校や会社などあらゆる組織は、フラストレーションのピークに達するスパンに差はあるかもしれないが、大体のところでパワハラぎりぎりだったり、本当のいじめだったり、正直いじめがないところなんてないのではないか?と俺は考えている。
仕事の良し悪しは時の運であると思う。
「うちの組織にはいじめがあります。いじめですっきり、ストレスフリー」なんていうことを宣伝する組織などない。つまりは、あってもない事にされてしまっているのだ。
では、どんなタイプがいじめの対象になるかというと、ま毛色が違うとか、ちょっとした間違いを犯した。とか、そういう些細なところからであろう。「弱そうだったからいじめる」というのも理由にはなると思うが、それだと自分の良心呵責を覚えるだろうから、「あいつは間違った」「あいつはそこが悪い」だから「正義の鉄槌を下しているのだ」という論理を自分に自身に言い聞かせることができれば、いじめる側の自尊心も傷つかずに済むのだろう。ま、本当は弱そうであれば誰でもいいのではないだろうか?
その証拠として、今までいじめられていた人間がその場を去ったあと、別な誰かがいじめのターゲットとなるのはよくある話だ。
それで、もう一ついじめがはびこっている組織は大体上手くいってないような気もしている。会社ならば業績が悪い。学校ならば生徒に負荷がかかるような体制があるとか。
逆に考えるといじめの有無が、その組織の内情を表す部分もあるのではないか?
もし、このいじめれ役がいなかったら、組織内そこかしこで衝突が発生しまくって、組織そのものが立ち行かなくなるだろう。
誰かを生贄とすることでその組織が保たれているとしたらどうだろうか?
フラストレーションのはけ口として、見た時に俺はいの一番に想像したのが、
仕事終わりのサラリーマンに「お前、バカだな」とか言われている飲み屋のねーちゃんだった。
そのサラリーマンはそうすることによって自尊心を保っているだろうことは、想像に難くない。
そして、そのねーちゃんは商売とはいえ、実はそのサラリーマンの人生を救っている存在なのだと考える。
まあ今更、何当たり前のこと言ってんだ、ってみんなから言われそうだけれどね。
さて、ここで「いじめる側」と「いじめられる側」のどちらに問題があるかという話だが、
俺としては「いじめる側に問題がある」ということは当然として、「いじめる側は問題を抱えている」と思うのだ。
冷静になって考えてみると
まず、俺が誰かを「憎い」とか「好きだ」と感じるのは俺個人の内省的な事柄とか、問題である。そして、それは誰にも関係ないのだ。「俺がどう思っているか」それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
にもかかわらず、それを言動として外に出すというのは、その人個人が重篤な問題を抱えていて、もう溜め込むことが出来なかった結果のように思える。
ま、結構いじめる側ってそいつ自身がかなりの問題を抱えていることが多いように思えるが、手っ取り早い安易な方法をとったものだと、俺個人としては呆れる。だが、しかし言動の逆というものを考えてみると
いじめる側は「いじめ」という表現手段を用いて、「自分は傷ついているんだ、自分は追い詰められているんだ、自分は理解してほしいんだ」と悲鳴を上げているのかもしれない。ま、別に同情するつもりはないが
いじめという手段をとった人間の心は、「愛されたい、認めてほしい、強くみせたい、誰よりも幸せだと虚勢を張りたい」という劣等感複合体なのだろう。そしてそのフラストレーションを最も自分が納得できる方法で解消しようとするのだろう。
つまりは、「自分との向き合い方が上手くいっていない。もしくは、自分と向き合うことに失敗した人格」なのかもしれない。
さていじめられる側なのだが、これは不運としか言いようがない。心中お察しします。というのが俺の思いだ。
まあ、こんなこと言っても気休めにもならないのだが、あなたの犠牲によって今日、あなたの組織は保たれました。あなたがその場を去った時、別な誰かがあなたの代わりとなります。ただそれだけの事です。特別、あなたが何かの罰を受ける言われはないのです。いじめる側は自分達を正当化するため、もっともらしい事を必死になっていいます。でも、そんなことはアテにならないのです。
因みになのだが、俺は
仕事の出来具合と人格はイコールではありません。
ピンチの時、追い詰められた時こそ、人格が試されます。
いじめをするしないは人格を表します。
と、考えている。
しかし、この「いじめ」というのを「捕食者、被捕食者」の関係を表したりする「生態系」モデルを使うと、いじめの根本的原因が見えてくるかもしれないな。