scmrのここ数日
なんか、妙な感覚がここ数日している。
というのは、
そうなあ、何かが心の中でひっくり返ってしまったような、そんな感覚だ。
今までの、自分の感覚では普通じゃなかったことが、
なんか心の中で起こっているというか…
ま、俺は哲学、心理学、スピリチュアル、オカルトの類の深い関心をもっていたのだが、
それは
職場とか、金のなさとか、人間関係のトラブルとか
そういう物質世界でのアクシデントに対応するための、補助的な要因として
扱ってきたつもりだった。
ま、簡単にいえば辛い現状を乗り切るために「神様は見ている」と自分に言い聞かせて、自分を騙して乗り越える、
みたいな感じかな。ちょっと、違う気もするが概ねそんな感じだった。
まあ、形而上学的な知識は現実世界を生き抜くための道具として、日々の糧を得る職場だとかをメインのフィールドにしていたわけだ。
無論、それは今の現実も変わらず、俺は金のため、残業も今日の日銭をどのくらい稼げるかが勝負だと思って出勤している。
ところが、
心のどこかで、難解な問題を経験したいという気持ちが少しずつ、湧いてきている。
難解な人間関係のトラブル、無理難題な仕事、完膚なきまでの失敗と敗北、それらを心のどこかで求め始めている。
だからといって、自発的に問題を作り出そうとは思わないが、
そんな感じだ。
その心を探ってみると、それらの問題を通して、または経験して練習しようとしている気持ちってのかな、
そんなのがあった。
これらが起きたら、事はどのように流れていくのか冷静に見つめたい、とか
こんな問題に置かれた時、どのように自分が対処するのか体験したいとか
そんな感じだ。
なぜかなあ、って考えてみたら
どうも、職場と今いる人間との間で発生するトラブルの経験を沢山溜め込んで、後の自分のやりたいことに生かそう。
だから、トラブルや問題に貪欲になろうと、どうも自分が考えているようだ。
現実世界を後の自分の活動(一体、何をやるのやら…)に生かすための道具という、
以前と比べると、逆転した考え方になっているようだ。
俺自身は本末転倒な考え方に、自分は今大丈夫だろうか?と心配になることもあるが、
それともこれが今起きている自分自身の変化なのかもしれないと、少々悩んでやいる。
今日も平穏無事で肩透かしを食らったような気分だが、ちょいと今見えている不安の前兆と、これがどうなってどういう結末に行き着くやらという、静かなワクワク感もある。
なんか自分自身に妙な感覚がある。
家に帰ったあともそうだった。
プログラマーの美徳的心がけの一つを、つい思い出した。
「道端にゴミが落ちていたら無視せずにゴミ箱に入れろ、汚れているところを見つけたら綺麗にしろ」
プログラムってのは膨大な問題の塊みたいなもの、つまりはトラブルを引き起こす原因となるプログラム部分やバグの原因の巣窟みたいな見方をしなくてはいけない部分があって、
ゴミの片づけ、掃除を通して問題に対して敏感に反応する目を養い、そしてそれを見つけたならば対処する癖をつけるのだそうだ。
プログラマーにもそれなりの体作りがあるようなのだ。後の大問題を引き起こさないために
俺のような不安症や心配性、ペシミストには、案外向いている仕事かもな
ま、それを思い出した。そんで、
「俺は掃除当番の時は、会社のトイレを掃除しているのに家のトイレを俺が自身が掃除したことがロクにないな」と感じ、
家について早々、トイレを掃除してみた。
ま、何か綺麗にするっていう疑似的動作を通して、意識の中の汚れを落としたいようなそんな気分でもあったからだ。
特にトイレの掃除と、逆転した考え方と何の関連性もないが、第一トイレ掃除も三日坊主で終わるかも分からないしな。
週末は、人に会うことが多かった、たまたま以前世話になったコーヒー屋のおやっさんに会って、
「君はもっと怪しさを売りにしたほうがいい。見かけの恰好をもっと考えたほうがいい」と言われた。
そこから、そうなあ今後のための普段の俺ではない、キャラクターの作りを考えることとなった。
いの一番に考えたのが、やはり内面的なところ、そこから出る言動について変える必要があるかなあ、なんて考えていたら
またまた昔、俺が散々悩ませて苦労と世話をかけた俺の元ケースワーカーと会った。今はその人は違う職業をしているのだが、個人的な付き合いがその後も、ままあった。
あれやこれや昔話をしたそのついでに、自分のこれからのキャラ作りについてそれとなく、意見を賜った。
「何々といえば、何々」みたいな関連性の強いキャラを目指してみれば?と言われた。
簡単に言えば「手塚治といえば、アトムの作者そして漫画家」ってな即座に関連性のある連想をされる、そんな存在を目指せば?
とのことだった。
そうだな、それが一番いい。俺はそう思った。
すると、頭の中に「町の豆腐屋さん」が浮かんできた。
この「町の豆腐屋さん」ってのは、俺が社会とかビジネスとか流通とか技術の世界とか、経済とか政治とか公共性とか
まあ、そんなものを考える時の指標というか、考察モデルというかモデルケースというか何というか、
とにかく何かを考える時に非常に役に立ってくれる頭の中の豆腐屋さんだ。
いつも、社会的なこと考える時は、例えていうならば、
いつもその「町の豆腐屋さん」の店に寄り道をして、そこで働く顔の分からない店主やお客さんや、粒さにイメージしたこともない店の外観を眺めてから、答えという名の目的地に歩いていく。そんな感じだ。
唐突に心の中に「豆腐といえば、町の豆腐屋さん」という俺本人以外が耳にしたら、全くもって分けわからん言葉が思い浮かんだ。
まあ、「町の豆腐さん」の詳しい話は機会があれば、ということにして
その人に自分の考え方や言動、いわゆる内面を変化させようかと思っていると、話してみたら
「内面や言動を自分に合わないものに変えるのは、常に演技をしていることになる。その演技を無理に続けているとそのうち自分がくたびれてしまうよ。」と言われた。
それもそうだな、長続きさせるならば無理な方向に自分を捻じ曲げないほうが賢明だな。
「それよりも、変えやすい服装とかそっちのほうがいいと思う。それならば、心や言動をありのままにして、見た目で人は認識してくれると思う。」
やはりか、そう来たか。
ま、外見はゆっくりと考えるとして、
自分が自分に人に認識してもらいたいキャラクターを考えるに差し当たって参考までに、他人の俺に対するキャラ的な認識について、その人に尋ねてみた。
「そうだなあ、見た目は近寄りがたい心の中身がエケコ人形の男、だな。タバコもよく吸うし」と言われた。
とりあえず、俺は「近寄りがたいエケコ人形」という見方を手に入れた。
縁起物で良かったよ。
コーヒー屋のおやっさんの言葉をそこに加えると
「怪しく、近寄りがたいエケコ人形」になるな。
そういえば、かなり昔
夜の仕事をしながら、虎視眈々と反骨精神むき出しの画家の道を模索していた俺を友人が
「モグラだな。」といっていたな。
というのは、
そうなあ、何かが心の中でひっくり返ってしまったような、そんな感覚だ。
今までの、自分の感覚では普通じゃなかったことが、
なんか心の中で起こっているというか…
ま、俺は哲学、心理学、スピリチュアル、オカルトの類の深い関心をもっていたのだが、
それは
職場とか、金のなさとか、人間関係のトラブルとか
そういう物質世界でのアクシデントに対応するための、補助的な要因として
扱ってきたつもりだった。
ま、簡単にいえば辛い現状を乗り切るために「神様は見ている」と自分に言い聞かせて、自分を騙して乗り越える、
みたいな感じかな。ちょっと、違う気もするが概ねそんな感じだった。
まあ、形而上学的な知識は現実世界を生き抜くための道具として、日々の糧を得る職場だとかをメインのフィールドにしていたわけだ。
無論、それは今の現実も変わらず、俺は金のため、残業も今日の日銭をどのくらい稼げるかが勝負だと思って出勤している。
ところが、
心のどこかで、難解な問題を経験したいという気持ちが少しずつ、湧いてきている。
難解な人間関係のトラブル、無理難題な仕事、完膚なきまでの失敗と敗北、それらを心のどこかで求め始めている。
だからといって、自発的に問題を作り出そうとは思わないが、
そんな感じだ。
その心を探ってみると、それらの問題を通して、または経験して練習しようとしている気持ちってのかな、
そんなのがあった。
これらが起きたら、事はどのように流れていくのか冷静に見つめたい、とか
こんな問題に置かれた時、どのように自分が対処するのか体験したいとか
そんな感じだ。
なぜかなあ、って考えてみたら
どうも、職場と今いる人間との間で発生するトラブルの経験を沢山溜め込んで、後の自分のやりたいことに生かそう。
だから、トラブルや問題に貪欲になろうと、どうも自分が考えているようだ。
現実世界を後の自分の活動(一体、何をやるのやら…)に生かすための道具という、
以前と比べると、逆転した考え方になっているようだ。
俺自身は本末転倒な考え方に、自分は今大丈夫だろうか?と心配になることもあるが、
それともこれが今起きている自分自身の変化なのかもしれないと、少々悩んでやいる。
今日も平穏無事で肩透かしを食らったような気分だが、ちょいと今見えている不安の前兆と、これがどうなってどういう結末に行き着くやらという、静かなワクワク感もある。
なんか自分自身に妙な感覚がある。
家に帰ったあともそうだった。
プログラマーの美徳的心がけの一つを、つい思い出した。
「道端にゴミが落ちていたら無視せずにゴミ箱に入れろ、汚れているところを見つけたら綺麗にしろ」
プログラムってのは膨大な問題の塊みたいなもの、つまりはトラブルを引き起こす原因となるプログラム部分やバグの原因の巣窟みたいな見方をしなくてはいけない部分があって、
ゴミの片づけ、掃除を通して問題に対して敏感に反応する目を養い、そしてそれを見つけたならば対処する癖をつけるのだそうだ。
プログラマーにもそれなりの体作りがあるようなのだ。後の大問題を引き起こさないために
俺のような不安症や心配性、ペシミストには、案外向いている仕事かもな
ま、それを思い出した。そんで、
「俺は掃除当番の時は、会社のトイレを掃除しているのに家のトイレを俺が自身が掃除したことがロクにないな」と感じ、
家について早々、トイレを掃除してみた。
ま、何か綺麗にするっていう疑似的動作を通して、意識の中の汚れを落としたいようなそんな気分でもあったからだ。
特にトイレの掃除と、逆転した考え方と何の関連性もないが、第一トイレ掃除も三日坊主で終わるかも分からないしな。
週末は、人に会うことが多かった、たまたま以前世話になったコーヒー屋のおやっさんに会って、
「君はもっと怪しさを売りにしたほうがいい。見かけの恰好をもっと考えたほうがいい」と言われた。
そこから、そうなあ今後のための普段の俺ではない、キャラクターの作りを考えることとなった。
いの一番に考えたのが、やはり内面的なところ、そこから出る言動について変える必要があるかなあ、なんて考えていたら
またまた昔、俺が散々悩ませて苦労と世話をかけた俺の元ケースワーカーと会った。今はその人は違う職業をしているのだが、個人的な付き合いがその後も、ままあった。
あれやこれや昔話をしたそのついでに、自分のこれからのキャラ作りについてそれとなく、意見を賜った。
「何々といえば、何々」みたいな関連性の強いキャラを目指してみれば?と言われた。
簡単に言えば「手塚治といえば、アトムの作者そして漫画家」ってな即座に関連性のある連想をされる、そんな存在を目指せば?
とのことだった。
そうだな、それが一番いい。俺はそう思った。
すると、頭の中に「町の豆腐屋さん」が浮かんできた。
この「町の豆腐屋さん」ってのは、俺が社会とかビジネスとか流通とか技術の世界とか、経済とか政治とか公共性とか
まあ、そんなものを考える時の指標というか、考察モデルというかモデルケースというか何というか、
とにかく何かを考える時に非常に役に立ってくれる頭の中の豆腐屋さんだ。
いつも、社会的なこと考える時は、例えていうならば、
いつもその「町の豆腐屋さん」の店に寄り道をして、そこで働く顔の分からない店主やお客さんや、粒さにイメージしたこともない店の外観を眺めてから、答えという名の目的地に歩いていく。そんな感じだ。
唐突に心の中に「豆腐といえば、町の豆腐屋さん」という俺本人以外が耳にしたら、全くもって分けわからん言葉が思い浮かんだ。
まあ、「町の豆腐さん」の詳しい話は機会があれば、ということにして
その人に自分の考え方や言動、いわゆる内面を変化させようかと思っていると、話してみたら
「内面や言動を自分に合わないものに変えるのは、常に演技をしていることになる。その演技を無理に続けているとそのうち自分がくたびれてしまうよ。」と言われた。
それもそうだな、長続きさせるならば無理な方向に自分を捻じ曲げないほうが賢明だな。
「それよりも、変えやすい服装とかそっちのほうがいいと思う。それならば、心や言動をありのままにして、見た目で人は認識してくれると思う。」
やはりか、そう来たか。
ま、外見はゆっくりと考えるとして、
自分が自分に人に認識してもらいたいキャラクターを考えるに差し当たって参考までに、他人の俺に対するキャラ的な認識について、その人に尋ねてみた。
「そうだなあ、見た目は近寄りがたい心の中身がエケコ人形の男、だな。タバコもよく吸うし」と言われた。
とりあえず、俺は「近寄りがたいエケコ人形」という見方を手に入れた。
縁起物で良かったよ。
コーヒー屋のおやっさんの言葉をそこに加えると
「怪しく、近寄りがたいエケコ人形」になるな。
そういえば、かなり昔
夜の仕事をしながら、虎視眈々と反骨精神むき出しの画家の道を模索していた俺を友人が
「モグラだな。」といっていたな。