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普段の中に正当性を求めて

私の考え出す基点を真っ当性の中に、出来るか否か 日本国の思いを馳せながら綴ってゆこうとの所存です。

日本人流儀を破棄す!

http://www.sankei.com/politics/news/171230/plt1712300005-n1.html

個人をも脅かさんとする仕草である。

日本社会は言論の自由を謳歌できる社会になっている。人々の推移を凝らそうと言うわけです。

とりもなおさず基本的人権の最も原理原則構造を捉えんとする言論の自由の概念であります。

自由であるからには責任観念像をこしらえねばなりません。過ちもあるから責任を取る事も忘れずにねえと言う事です。要するに訂正すればいい事です。一連の流れを言論の自由に託します。人間の妙なる生き方の基本形であります。

ここに日本人流儀を破棄し、あろうことか司法において言論の自由を裁こうと願う新聞社がある。

元に言論の自由を裁けるはずがないのに、しかも言論界において司法に委ねる事を真っ当としているのかどうか知らないが、相手側に金銭面を覆いかぶせて自由な言論を封じ込めようと企んでいるところがある。

言論をぶっつけ合う事は良い事であるのに、都合勝手にそれを避けて、一途に不逞奴である、懲らしめなけりゃならんと裁定に掛けているわけです。

当方は懲らしめることも自由に出来るのであると一方的に宣誓しているのです。

当方に楯突くとこういう事になるのだぞ!と口を慎めと訴えているのであります。

言論の自由を謳歌している社会において、その言論の自由を破棄して、裁定こそがまともに叶えられるやり方であると、別の方策を言論機関が探っている事です。

ここでは言論の自由は破棄して、裁定の社会を身勝手に作りだし、俺たち新聞社には独自の言論封殺と言う社会造りも可能なのであると異次元構造を言論の自由と言う社会に刷り込ませようとしているのであります。

己の都合のいいように割り振りするわけです。言論の自由も割り振り上手さが加わるのであると自負しているのであります。

当方が自由に物申す事は構わないが、相手側が自由に物申す事は罷りならんと拒否しているのであります。当新聞社が言論の自由社会に生きる事は許されるが、相手側は生きる事は許されていないと剥奪しているのであります。だから当新聞社が訴えることは理に適っており、言論の自由社会には相手側は剥奪されても構わないのであると一方的に思い込んでいるのであります。

思い込むのは構わないが、相手側の趣旨、主張を尊重するのが先でしょう。

お互いの主義主張は尊重しなければならないからです。ここに言論の自由の観念性が生きてくる。

一方的に相手側の主義主張を破棄して、言論の自由もないもんだ。

司法に訴えると言う事はそういう事でしょう。

司法は人間の精神面での白黒の判定であり、善か悪かを人間としてあるまじき振る舞いはよしましょうと裁定を下すのでありましょう。

人間の基本的原理原則構造を破棄せんとする暴挙であります。しかも公的機関がであります。
あっち系手法を日本社会に刷り込まんとするペテン師となる。


  1. 2017/12/30(土) 11:56:25|
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