はてなキーワード: 境涯とは
これはいいことだ、というかやるべきことだ。
反論はあるだろう。「〇〇ファーストは必ずしも〇〇以外への攻撃の意味でないのに粒立てるのは逆効果」とか。
いや在日外国人で子供という立場で考えたらこわいに決まってんだろ。子どもを怖がらしてはいけない。なぜか?人倫に悖るからというのはむしろ副次的な話で、生え抜きの日本嫌いな外国人のコミュニティを国内に作りたいのかって話だよ。
外国人問題は常にプラグマティックに対処しなければならない。前にも言ったが共生だのダイバーシティだのが幻想だからこそだ。
一方でことさらに「ほら日本人は排他的で野蛮だ」とジャッジしては気持ちよくなってる日本人という奇怪な存在がある。言わずと知れた左巻きの面々だ。
お前らは正義のつもりでもやってることは差別主義者そのものだからな。
国内では排外主義に火に油を注いでるし、中韓のプロパガンダが在外邦人やその子弟をどれだけ不安な境涯に置いてるか考えもしない。
外国人問題についての施策は、正義がどうとかよりも「いかに穏便に済ませるか」が問題なんだ。【どうせ分かり合えないのだから、極力こじらせない】を胸に刻め。
給食に関連して我々の社会のあり方について考えるわけですが、現在は基本的に働いて得た収入を生活費に充てるわけで、職につくことは現代人にとって必要不可欠なことであり、我々は生活のための苦しい労働に耐える十字架を背負って生まれてくると言えます。嫌でも働かなければならないということ。そのためには少しでも有利な職に就くために更に受験段階から競争があります。
しかし理想を考えるなら勉学と将来の職や賃金を結びつけて考えるべきではないことは自殺率の高さや幸福度といった指標に表れているはずです。
理想を言うとするならこの世に生まれてきた人は十字架を背負わずして皆等しく生きる権利があって然るべきであり、その為の具体的な方策として住と食の無償化などが考えられます。もちろんその為には働く人が必要なのはさておき、現状ではそんなことが可能かと考えるなら無理であり、その理由は端的に子を5人も設けた菅野完や7人の橋下徹の存在自体が説明してくれるはずです。余談ですがハシモトトオルも少し前から見てますが自分の投稿に「氏」をつけるなど何かどこかがおかしいことは皆気がつくことですが、のみならずそのおかしすぎる経歴についても本人は「当然のことだ」のように思っているらしいことが言葉の節々から伝わってくることです。これは菅野完も同じ話で客観的に見た自分自身というものが全く見えていないというか、表現の難しい「変」なところを見て取れます。
さておきそういう人物は理想的な世界ではいくらでも増えようとするでしょうし、猫を飼ってみれば分かりますがフードは与えれば与えるほど出産のためのエネルギーを蓄えることに用いますし、オスは縄張り争いのために用います。つまり自然界の掟(動物の世界)に従おうとすればするほどいくらでも子を設ける=増殖しようとするという図式が成り立つわけです。しかしこれは人ではオスに特有の特徴で女性は出産のリスクやそのあとの途方もない手間を考えるなら増えるというよりも幸せを第一に考えるでしょう。それが我々の子どもの世界が楽園に近い理由でもあるわけですが。
そういう意味では白人や白人混血児もそうであり、現に世界は白人だらけになりつつあるわけです。幸福ではなく先ず自己増殖ありきだから子どもをロボットのように「トリックオア…」以下略。
話を戻しますと楽園に近い世界では強制されることなど何もなく、全ての物事が自発的になされるはずです。大人が子どもの世話を自発的にするように、楽園では必要な仕事は必ず誰かが自発的に済ませるはずですが現代社会で考えるなら凡そあり得ないような話ではあります。
現代社会では何かを誇るというかもっと単刀直入にはモノを自慢することも一つの文化のようになっていて件の行き過ぎた欧風建築は対岸に立ち並ぶ昭和の文化住宅の住人に向けた散財を唆す悪意そのものですが、そのような悪意はなくても他人よりも良いモノを単純に誇りたいという気持ちを持つならそれは結果として同じような影響を及ぼすということです。
今日は満潮のタイミングと重なって潮が動き出すまで少し時間があり長文を書いてます。散財させるという昨今の詐欺のような組織的な悪意とは別に、とにかく「自分は他人よりも幸せ」であることをアピールしたいのは程度の差こそあれ誰しもあるものですが、それが皆で美味いワインを前に乾杯をするような気持ちであればまだしも、とにかくいかに他人が自分よりも不幸な境涯であり、如何に自分が(根拠もなく)優秀で有能であるかを示すために(そういうことにするために)とにかく他人が如何に自分よりも劣っていて惨めかを毎秒ごとに言わなければ済まないようなのを見る機会のあるネット社会になりました。
菅野完はその典型中の典型であり、今はおとなしめにしてるようですが以前は罵詈雑言と罵倒と自慢で構成された放送を毎日のようにしていたモノです。その中でも最も有害だったのは三宅雪子さんが入水自殺をしたときの当時のTwitterでの罵倒ぶりなどありましたがネットを検索しても関連情報しか出て来ず意図的に隠されているか晒し対象になるはずがどこかからの圧力で封殺されているでしょう。そのあたりは菅野完(その後ろ盾)から訴訟のうえ口座まで押さえられた義の人である金武美香代さんを代表として何人もいることを知っています。以前のツイッタージャパンでは取締り部隊というのか垢バン権を持っていたらしい一派がツイッター上の迷惑言論を取り上げて晒し上げるようなことをしていましたが菅野完だけは例外であり、やはりトップを白人とした序列に組み込まれた白人に従属する勢力だったようです。東海アマなどがときどき取り上げている人物です。
さておき菅野完は性犯罪を犯したとはいえ刑事的には未遂と不起訴になりました。しかし身体接触の上押し倒したなら強制わいせつの既遂のはずであり、山口敬之のように揉み消されたのだと思いますが、菅野完の場合は文字通りの菊の御門が決めたことなら日本に必要のない存在どころか日本人に害をなす存在としか言いようがなくなっているでしょう。例のおかしな信号のタイミングも関連しそうです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%87%8E%E5%AE%8C
似過ぎじゃね?
被害の続く被害者を生んだ性犯罪者が「自分は愛人を囲っている」ということを仄めかしつつ誰かにに対して「センズリこいとりゃええねん」と言い放ってしまえる知能です。感性という表現は通り越して知能とした方が適当であり、本当に言葉を話すチンパンジーのようなものでしょう。
それから愛人から格下げされたのか七万円以下のソープには行かないといった発言もありました。動物の餌でも食ってりゃいいのに「単価八万円のフレンチ」だのバーでのカクテルだのです。民事訴訟の額は満額支払ったのか知りませんが、それが被害が全てではないことは検索してみればわかる(6/21)
→何らかの悪意の元に女性に性行為を迫る行為が何を意味するか。白人との性行為は日本人男性の選択肢を奪う行為に他ならず、女性を奪うという白人男性の特化した性質は日本人種抹殺と混血推進の武器と言える。敢えてタブーに踏み込み、後世に語り継ぐ必要。
この分野では素人なのですが…
1,大聖人(だいしょうにん)→ 日蓮正宗系 (他の日連系は「聖人」「上人」)
2,謗法(ほうぼう)→ 仏教系
4,財務(ざいむ)→ 一般 (創価学会では若干違う使われ方している)
5,折伏(しゃくぶく)→ 仏教系 (議論で正当性を示して教化すること。日蓮系で重視; ただし日蓮は「常不軽品の如し」、すなわち相手に敬意を払うことが必要としている)
6,破折(はしゃく)→ 不明 (少なくとも日蓮の著作にはないはず)
雑だなぁ。いくつか修正しとくよ。
謗法、
法をそしると書く。他宗や外道への信仰は法華経に書いてある内容をそしる事に繋がるから駄目だよねって考え方。
創価学会は僧侶を擁立していないが為に、仏教としての定義に反するので内道の仏教じゃなくて外道だよね
じゃあ謗法だよね?っていう教学の上での致命傷が有る。割と逃げ場の無い正論なので指摘するとキレる。
境遇の事とするのは狭いかなぁ。因果応報と輪廻転生ってどちらも仏教の基本的な考え方で受け入れやすいよね
でもこの二つって別々に存在してるわけじゃないからくっつくんだよね。都合の悪い人も多いだろうけれど。
生まれも育ちも全部自分のせいだからね?つらくても受け入れようね?って仏教は言ってきます。
そういうの踏まえた上で、あの人はそういう境涯だからね…。って使い方をします。
仏教は因果応報を説きますのでご利益とするのは誤りです。まぁ皆同じ意味に認識してそうですが
私は創価学会員ではありません。
1,大聖人(だいしょうにん)
(厳密にいうと「本仏」という。)
なお、一般的な日蓮宗系の宗教では「大菩薩」ということが多い。
菩薩は仏に次ぐナンバー2という意味であるため、創価学会系の人とは
相容れないのである。
2,謗法(ほうぼう)
3,境涯(きょうがい)
4,財務(ざいむ)
強制ではないのだが、もし行う場合は最低1万円出さなければならない。
一般家庭でも100万円出すところもある。
5,折伏(しゃくぶく)
「勧誘」のことだが、無理やり入信させるというイメージである。
6,破折(はしゃく)
「論破」のこと。「破(は)す」ともいう。(後者の方が文語的)
7,御書(ごしょ)
8,仏法(ぶっぽう)
「仏教」のこと。
9,広宣流布(こうせんるふ)
公明党もかつてはそれに必要な「国立戒壇」(創価学会(厳密には日蓮正宗)員になるための儀式会場)
を作ることを目指していたが共産党などから追及されたり学会側の不祥事により破棄せざるを得なかった。
現在では池田大作創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル(SGI)会長
が世界各国で対話を行ったり、支部を作ったことで事実上達成したというのが公式見解である。
10,功徳(くどく)
アラフィフ、既婚、子なし、両親健在。
障害年金2級。
妻は結婚してから統合失調症を発症、義母も統失だったが知らなかった。
今年の春、うつが重くなり自殺願望が出てきて、しばらく私だけ実家の世話になることにした。
うつが重くなった理由は、妻が自分の好きなことに夢中で、私と向き合うことがほとんどなく、私の孤独感が強くなったからだと思う。
妻とは定期的に連絡を取っていたが、夏になって言動がおかしいことに気づき、妻にもしばらく実家で養生してもらうことにした。
連絡を取るときはいつも私からで、妻から連絡が来ることはなく、返信も来なくなった。私と連絡を取ると体調が悪くなるらしい。
私の実家の居心地は十分いいとは言えない。
母はある程度病気のことを理解してくれているが、80才の父は頭が固くなっていて精神疾患にあまり理解がない。
独身の妹がいるのだが、指定難病を抱えていて、投薬治療の副作用が体中に出ており、常に痛みを感じていて、なんとか仕事を続けている状態だ。
躁状態のときは多幸感に包まれていて、実家に戻ることによってうつが治ったものと勘違いしていたが、秋になってうつ状態に戻り、躁が高かった分落ち込みが激しい。
これの取り崩しと境涯年金で生活しているが、働きもせず、ストレスもない現在の立場は、羨ましく思う人も少なくないと思う。
行きたいところにはだいたい行ったし、やりたいこともだいたいやった。
もう死んでもいいかなと思っている。
私は人付き合いが嫌いなくせに、さみしがり屋という面倒な人間だ。
自殺は首つり、飛び降り、頸動脈切断を中心に考えていたが、やはり首つりが妥当という結論に至った。
迷うのは、少ない遺産を家族に残すのか、使いきってしまうのかだ。
今の状態なら妻には相続したくなく、そのためには離婚が必要だが困難だと思う。
老い先短いとはいえ、世界中で私のことを思ってくれるのは実母しかいない。
実家で暮らすまでは難病を抱えている妹に残したいと思っていたが、今はあまりそうお思わなくなった。
まとめると、
・生きるとしたらどう生きていくべきか?
この2点だと思う。
諸兄のご意見を伺いたい。
周りの友人らが彼女ができたとか風俗で卒業したとか突然報告してきて、俺はいったい何をやっているんだと思うこともあるけれども、特別な焦りという焦りもなく、いくら友人が彼女をもとうと風俗にいこうと自分には何ら関係のないことなので、たいていは勝手にやってろと心の中で思うだけで平然としているが、床について夢をみると、その内容は自分がどんどんと孤独になってゆく悪夢だったために、あさ起きてから俄に孤独感が胸に迫ってくる。
いやいやいやいや、だってついこの間までお前ら俺と変わらなかったじゃん。
女はあーでこーでとか適当に妄想し合って、酒を飲みながら笑いあったあの日は、何もそんなに遠い昔のことじゃなかった。
こいつらだけはずっと俺と変わらないのだと心のどこかで無意識に深く深く信じていた。
なのに、なんだか彼らが遥か遠くの異世界へ唐突に行ってしまったような気がしてきて、彼らと一緒に過ごしたあの日々のことだけが俺の中に取り残されて、気がついたら絶望感で一杯になっていて。
結局友人ってそういうもんなのかよ。
互いの境涯とかに左右されて次第に疎遠になる場合もあると聞いていたけれども、まさか自分の方ではなくて、友人の方が変わることで彼らの方から自ずと離れていくことになろうとは全く予期していなかった。
この先、年齢を徐々に重ねていって、周りに俺の仲間なんかこれっぽちもいなくなって、ついに俺は真の孤独者となるのかもしれない。
もちろん彼女つくるだのソープにいくだの壁を破るための種々の方策は考えられるものの、自分の殻を破るリスクと孤独になるリスクとを考えたときに、自分が選んでしまうのはどうしても後者の方になる。
何故に孤独になってまで自分の殻を破りたくないのかと問われてもそれは自分でもよく分からない。変な意地でもあるのか。それとも永遠の子供でいたいのだろうか。
こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。
仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教の言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学禅研究所、1992年、108頁)
日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教とキリスト教との出会い: 根源的いのちの経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会、2003年、219頁)
即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事、実験、無神論者、唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常底のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践』筑摩書房、1967年、185-186頁)
さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。