江戸後期、諸藩の状況見えるリアルな時代小説
第15回日経小説大賞に山本貴之氏「紅珊瑚の島に浜茄子が咲く」
第15回日経小説大賞(日本経済新聞社・日経BP共催)の最終選考会が行われ、山本貴之氏の「紅珊瑚(べにさんご)の島に浜茄子(はまなす)が咲く」が受賞作に決まった。江戸後期、密輸の噂のある島を預かる藩の藩主となった武士がその実態を探る様子を、商家の女房だった女性との恋愛などもからめて描く。当時の諸藩の状況が見えてくるリアルな歴史ミステリーと評価された。
長編を対象とする第15回日経小説大賞には167編の応募があった。ジャンルは時代小説、家族小説、ミステリーなど幅広い。50〜60代の応募が約半数を占めた。
1次選考を通過した20編から5編が最終候補に残った。受賞作のほか、当主には身に覚えのない認知届をめぐって旧家の人間模様が明らかになる岳丸響介氏「ブラッドライン」、江戸末期に船が遭難して米国に渡った青年が商売に奮闘する玉島精一郎氏「緑茶と油の夢」、人気歌手の遺書に基づき妻、前妻、愛人が一緒に旅する朝水想氏「さよならは始まりの歌」、高齢男性が突然やってきた孫と音信不通だった娘のもとを訪ねる青山トーゴ氏「遠くて近い1000㌔」が上がった。
最終選考会は1日、東京都内で辻原登、髙樹のぶ子、角田光代の選考委員3氏が出席して開かれた。受賞作は、序盤で出会った2人が別々の道を歩みながら、年月を経て再会する巧みな構成が評価された。さらに密輸の謎を追ううち配下の侍たちが不慮の死を遂げ、そこに本藩や幕府の思惑がからむ様子からは「当時の諸藩をめぐる状況がうかがえる」との声も上がった。登場人物の葛藤やもがきを丁寧に描いた「リアルな時代小説」との見方で全員が一致し、授賞が決まった。
時は江戸時代後期、文化文政の世。遠州浜名藩主の四男、部屋住みの響四郎と町方の女房との根津権現での出会いから物語は始まる。互いに名も身分も明かさずひとつになり別れた。
響四郎は羽州新田藩に継嗣として迎えられることになっていた。外様とはいえ大藩である羽州藩支藩への異例の末期(まつご)養子は、幕閣の出世頭である浜松藩主・水野忠邦の斡旋(あっせん)によるものだった。
新田藩が預かる幕府直轄の島では、蝦夷地の花として知られる浜茄子が咲く。小藩とはいえ譜代の響四郎に白羽の矢が立ったのは、その秘密を探らせるためでもあった。
響四郎に江戸から付き従ってきた浜名藩士が、次々と島で不審の死を遂げる。沖合で見られる怪異現象がささやかれ、忍びや隠密が暗躍する島で何が起こっているのか。その真相が明らかになったとき、そして一度限りの情事で刻まれた恋の行方は……。
不条理と人の一途さ表現――山本貴之氏
小学生の頃、家にあった吉川英治全集をむさぼり読んだ。兄が本好きの父に結婚記念日に贈ったものだったが、父の傍らで私も愛読し、いつか波瀾(はらん)万丈の物語を書いてみたいとの思いを抱いた。
その十年後、学生時代に東京の根津神社の近くに下宿した。境内の庭を散歩するたびに風趣豊かな情景に接し、物語の舞台にしてみたいと心に留めた。
それから四十年が経(た)ち、縁あって北海道で暮らしている。真冬に雪に閉ざされた白い世界に一人佇(たたず)むと自然と心が静謐(せいひつ)に研ぎ澄まされる。夏にハマナスが咲く利尻島を訪れた。文化文政期には漁業で栄え、採れた鮑(あわび)やナマコは北前船に載せられて江戸大坂はもとより遠く中国まで運ばれた。中継する「島」を配せば、根津権現と蝦夷地を結ぶ小説の筋道ができると思い立って物語を書き始めた。
小説には「理非」という言葉を入れた。幕藩体制が経済面から揺らぐと、体制側は理を説くが、そこには思惑と利権が絡む。対する名もない庶民は労苦に耐えつつ希望を見出(みいだ)して強く生きる。作中で、いつの時代にもある不条理と人々の一途な生き方とを対比させた。
日経小説大賞は第十回に応募して最終候補に選ばれてから今回まで、足掛け六年にわたり応募し続けて三度目の候補作で受賞の栄に浴した。謙虚に書き続けることの大切さを改めて胸に刻んだ。
選考いただいた委員の先生方や日経の関係者の皆様、長きにわたって応援してくれた家族はじめ周囲の方々に心から感謝いたします。
〈選評〉
辻原登氏――時間の芸術引き出す
「紅珊瑚の島に浜茄子が咲く」は、音楽同様、時間の芸術・小説の旨(うま)みを存分に引き出して、読者を楽しませてくれる作品である。
「四年後に今日お会いした橋の袂(たもと)にいます」
と言い残して男は去って行った。たった一度の逢瀬(おうせ)で、その男の言葉を女は信じる。「四年」と言い切った男の心の内も、それを信じた女の心の内も明かされないまま、四年という時間が謎のように作中を漂う。メルヘン、ファンタジーである。だが、れっきとした、端正に構築された「時代小説」である。
武家社会、町人社会に住む男女が別れたまま、それぞれの世界での冒険と闘いを通じて、遂に「四年」という時間を「一瞬」に凝縮する愛の力。メルヘンと言った所以である。
「日経小説大賞」は幕を閉じる。掉尾(とうび)を飾るに相応(ふさわ)しい作品と言える。この賞は、成熟した大人が文学の夢を追いかけるステージだった。ここから数々の秀作が生まれた。プロになった人がいる。ならなかった人たちも、このステージで大いに輝いた。
髙樹のぶ子氏――得心いく結論、心地よい
文化文政時代といえば、江戸を中心にした町人文化、歌舞伎や浮世絵、人情本なども町にあふれ、いかにも江戸文化が華やかだった印象が強いけれど、幕藩体制は問題をはらみ、経済的にも行き詰まりを見せていたらしい。鎖国の綻(ほころ)びも見えはじめ、外国は水面下で、地方の藩に触手を伸ばしていた。
山本貴之さんはこの時代の微妙なゆがみ、空気感を、エンタテインメントとして描ききった。
二年前の最終候補は、北海道松前藩に「港を造る」話だったが、今回は「抜け荷」がテーマ。前作よりまとまりもあり、物語としての枝ぶりも整っていた。
北の海に浮かぶ謎の華島は怪しげに霧に浮かび、暗躍する隠密たちの活躍ぶりにもドキドキ、ハラハラさせられる。恋も不倫も男の友情も、得心のいく結論にみちびかれるのが心地よい。この時代には、まだまだ面白い裏話が埋もれていそうだ。
角田光代氏――豊富な知識、強い土台に
候補作のなかで『紅珊瑚の島に浜茄子が咲く』がダントツにおもしろかった。紙問屋の主と結婚した千代と、大名家の四男、響四郎の二人を主軸に描かれる時代小説でありミステリー小説である。出羽の支藩にいくことになった響四郎に、藩が管理する華島での密輸調査の任があたえられる。この島は架空の島だと思うけれど、著者はこの時代の航路や寄港地によほど詳しいのだろう、島の地理的条件や立地を微細に巧妙に描き、不気味な謎で覆ってみせた。「浮き物」の噂、虫鳴きの衆や狐舞(きつねまい)の巫女(みこ)といった集団も、この島の得体の知れなさとしてうまく効いている。響四郎のかたちばかりの妻、浜御前と、彼女の愛人、お蘭の方、謎の尼、芳蓮院などの登場人物たちもじつに魅力的である。ラストは細部に至るまでみごとな大団円だが、噓くささも嫌みもない。著者の豊富な知識と、たんねんに読みこんだのだろう膨大な資料が、この小説の大きく強い土台となっているのだと思う。
日経小説大賞、今回で終了
日経小説大賞の公募は今回で終了いたします。作品の応募やイベント参加など、これまでのご愛顧ありがとうございました。
日経小説大賞は日本経済新聞創刊130年を記念して2006年に創設されました。授賞式の様子や応募要項を掲載しています。