仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える
前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。
明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。
以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。
「惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純なるものであるが、仏教は之に反して世界的大宗教であるから、数千巻の経論あって美術工芸より深甚微妙の哲理を説き八萬四千の法門あって、国家の経営、社会の事業すなわち開拓、交通、文学、技術、医方、採集、衛星、救済等、あらゆる人生必須の要件、一も備わらざる事なければ、神道とは到底同日に論ずべきものでない。故に仏教渡来以後国内に伝播して、有識者の仏教教理研究する世となっては、おのずから仏教を重視するの深き、神道を軽視する傾向の生ずるのは自然の趨勢である。ここにおいて具眼者は国人が固有の神道を軽視するの弊の生ずるのは、国の不祥であると見たる卓見家、行基、伝教、慈覚、弘法らの諸師が、邦人の仏教を重視するあまり神道を軽視する弊風を矯正せんことを企てられた。
そは天台、法華経の本迹二門の説に依り本地垂迹説を立て、仏を本地とし神は本地の仏の垂迹である。本迹二門異なりと雖も、ともに一実の妙理である。ゆえに本地の仏を尊信するもの、また垂迹の神を敬すべしと言いて仏を信ずるとともに神を敬せよと教えて時弊を救われた。これが一実神道である。また真言の金胎両部の説に由り、仏を金剛界、神を胎蔵(たいぞう)界とし、金胎両部異なりと雖も、其の体同一なるがゆえに神仏また同一体である。ゆえに仏を奉ずるもの、また神を敬うべしと言いてまた神道を(たす)扶けられた。これが両部神道である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13
【慕帰絵詞(14世紀) 玉津島の垂迹のしるしとされた古松に祈る僧侶】
仏教ばかりが重視されて神道が軽視されることがないようにと本地垂迹説の考え方が成立し広められたのだが、時代が進むにつれて仏教が重んじられるようになっていったという。羽根田氏はこう解説しておられる。
「皇室の仏教御崇信の深まるにしたがい、一般国民の仏教に帰向すること、さながら草の風に靡くがごとく、終には朝廷の御儀式をも、仏法の式に依りて行わるる程の状態であるから、勢いの趨(おもむ)くところ、神道は仏教の次位に置かれ、神職は僧徒の下風に立つに至った。
ここに於いて僧徒はその勢いを憑(たの)み、その機に乗じて自己の理想を拡充して、これを事実上に表現せんことを企て、終に権現号を公称するに至った。その権現とは字のごとく、本地の仏が衰弱して、権(か)りに神と現われたという意義である。…
また神名に直接仏名を称えたのもある。即ち八幡大神を八幡大菩薩と言い、祇園大神を祇園牛頭天王と言った。仏徒はなおこの仏名で飽き足らず、これを実際上に公示せんとて神社境内に本地堂を設け、本地仏を安置して神の本地の仏なることを表明するに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13
さらには僧徒が神を勧請する事例も少なくなく、石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請したのも僧侶であったという。羽根田氏の解説を続ける。
「終には神に、社僧の別当職を置き、僧徒をして神社に奉仕させることになった。即ち石清水八幡宮に、法蔵坊はじめ数戸の社坊あり、北野天満宮に松梅院はじめ十二の社坊があった。その他祇園、多賀、山王、日光、宮島、金毘羅、彦山、高良山、白山をはじめ、大社はおおむね社僧別当であった。尤も各神社に社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について何等の権威もなかったのである。然れども伊勢神宮始め、その他に社僧なくして神主の神仕する神社もあったが、…少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのでなく、広前に法楽として読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備えつけるは勿論、御饌も魚鳥の除いた精進物であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15
なぜ全国の神社に仏具が供えられて読経までが行われるまでになってしまったのだろうか。羽根田氏によると、神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されているのだという。一例として『続日本後紀』の仁明天皇承和三年*十一月の詔が著書に紹介されている。
*承和三年:西暦836年
「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」
僧侶を遣わしてお経を読むこととなると、当然のことながら神社にも仏像や仏具が必要になってくる。時代が下がるとともに僧侶が強くなっていき、神仏分離令が出される前の神社の状態は以下のような状態になっていたという。
【鰐口】
「かかる状態であるから、ついにはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は概ね仏像を神体にしたのである。而して其の像は、弥陀、釈迦、薬師、大日、観音、地蔵、不動などであった。ただ神殿内に仏像を祀るのみでなくこれを外面に表示して、またかの八幡宮の如く、社殿の扉の上部に、弥陀、観音勢至、または釈迦、文殊、普賢の三尊像の額を掲げたる神社もあって、現に日吉山王権現の如きは、七社ともに神扉の上部に、円形の額面の直系三尺余に、弥陀三尊の雲に乗って来迎する像の浮彫に、地板は青色で、輪廓(ふち)は雲形の彫物で、極彩色のが掲げてあったのを実見したのを記憶している。
八幡宮、日吉山王の大社が、既にかくの如くであったから、なお他にもこれと同様の体裁の神社も多くあったであろう。而して八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口に鐘の緒の下げであったのも実見した。かかる状況であるから、社頭の構造もおのずから伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16
【柏原八幡宮には今も鐘楼と三重塔が残されている】
本地垂迹説は、人々が仏教を重視するの余り神道を軽視する弊に陥らないようにと教え、そうすることで神道を守ろうとする考えであったのだが、いつの間にかご神体までもが仏像に変わってしまい、社殿も仏閣のようになっていったという。
「しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16
なぜ明治初期に激しい廃仏毀釈が起こったか長い間疑問に感じていたのだが、羽根田氏の著書を読んでようやく納得できた次第である。明治初期に激しい文化破壊活動が行われたことについては仏教側にも責任の一端があったのだと思う。
江戸幕府は仏教を優遇してきたのだが、そのことが多くの僧侶の堕落を招いたことは疑いがない。その証拠に平田篤胤よりもかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ている。
菊池寛は著書の『明治文明綺談』で、こう解説している。
「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*)
…
荻生徂徠も、
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
*大学或問:熊沢蕃山の著した、経世済民論の書である。貞享4年(1687)成立
**政談:荻生徂徠が8代将軍徳川吉宗に呈した幕政に対する意見書。全4巻。成立は徂徠が吉宗に謁見を許された1727年前後と考えられる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/58
【徳川光圀】
仏教を批判したのは思想家だけではない。会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのである。
仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動いている。普通に考えて、政権の誕生期であり権力基盤が不安定な段階においては、どんな政府においても、国民から強く反対されるような施策が強行出来るはずがなく、むしろ国民が評価するような施策を優先して実行するはずである。少なくとも明治維新を推進した中心メンバーにとっては、仏教勢力を叩くことは多くの国民から支持されると考えていたのではないだろうか。
明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には次のような命令を出している。
「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
これが『神仏分離令』で「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じているのだ。そしてこの命令が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官*が進入し、仏具や教典などを焼き捨てている。
*神仏分離令に関与した神祇官神祇事務局権判事であり日吉山王権現の社司であった樹下茂国が、最初に行われた廃仏毀釈を主導した。
当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在した。それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかないだろう。仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになったのだが、同時に大量の金属の使い道を考えることが不可欠となる。
【薩摩天保】
以前このブログでレポートした通り、他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出した。島津久光の側近で天保銭の密鋳に関与した市来四郎の証言が羽根田氏の著書に紹介されているが、それによると、徹底的に神仏分離を行った結果、神社のご神体はほとんどすべてが仏像であったと書いている。
「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53
薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなる。
『明治維新 神仏分離史料 第一巻』に、寺や神社の多い京都の神仏分離についてこんな記録があるので紹介したい。
【昔の四条大橋】
「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。
洛陽四条鉄橋御造架につき献上書云々とある文書が伝わってある。その一に紀伊郡第三区深草村寶塔寺、古銅器大鰐口丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。この類の物が今の鉄橋になったのである」(『明治維新 神仏分離史料 第一巻』p.384)
四条大橋は幕末の安政三年(1856)に造られた橋が明治六年(1873)の洪水で破壊されてしまったために再建されることとなったのだが、全長90m以上もある大橋を造るために、鋳潰された梵鐘や鰐口はとんでもない量であったことだけは確実なことである。
その後、市電の開通に伴う道路拡張のためこの橋は大正二年に架けかえられ、その後水害で再度架けかえられることになり昭和17年に完成したのが現在の四条大橋なのだが、古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われたことを知るべきである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。
古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html
但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html
古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-511.html
滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html
全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-342.html
江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html
明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。
以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。
「惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純なるものであるが、仏教は之に反して世界的大宗教であるから、数千巻の経論あって美術工芸より深甚微妙の哲理を説き八萬四千の法門あって、国家の経営、社会の事業すなわち開拓、交通、文学、技術、医方、採集、衛星、救済等、あらゆる人生必須の要件、一も備わらざる事なければ、神道とは到底同日に論ずべきものでない。故に仏教渡来以後国内に伝播して、有識者の仏教教理研究する世となっては、おのずから仏教を重視するの深き、神道を軽視する傾向の生ずるのは自然の趨勢である。ここにおいて具眼者は国人が固有の神道を軽視するの弊の生ずるのは、国の不祥であると見たる卓見家、行基、伝教、慈覚、弘法らの諸師が、邦人の仏教を重視するあまり神道を軽視する弊風を矯正せんことを企てられた。
そは天台、法華経の本迹二門の説に依り本地垂迹説を立て、仏を本地とし神は本地の仏の垂迹である。本迹二門異なりと雖も、ともに一実の妙理である。ゆえに本地の仏を尊信するもの、また垂迹の神を敬すべしと言いて仏を信ずるとともに神を敬せよと教えて時弊を救われた。これが一実神道である。また真言の金胎両部の説に由り、仏を金剛界、神を胎蔵(たいぞう)界とし、金胎両部異なりと雖も、其の体同一なるがゆえに神仏また同一体である。ゆえに仏を奉ずるもの、また神を敬うべしと言いてまた神道を(たす)扶けられた。これが両部神道である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13
【慕帰絵詞(14世紀) 玉津島の垂迹のしるしとされた古松に祈る僧侶】
仏教ばかりが重視されて神道が軽視されることがないようにと本地垂迹説の考え方が成立し広められたのだが、時代が進むにつれて仏教が重んじられるようになっていったという。羽根田氏はこう解説しておられる。
「皇室の仏教御崇信の深まるにしたがい、一般国民の仏教に帰向すること、さながら草の風に靡くがごとく、終には朝廷の御儀式をも、仏法の式に依りて行わるる程の状態であるから、勢いの趨(おもむ)くところ、神道は仏教の次位に置かれ、神職は僧徒の下風に立つに至った。
ここに於いて僧徒はその勢いを憑(たの)み、その機に乗じて自己の理想を拡充して、これを事実上に表現せんことを企て、終に権現号を公称するに至った。その権現とは字のごとく、本地の仏が衰弱して、権(か)りに神と現われたという意義である。…
また神名に直接仏名を称えたのもある。即ち八幡大神を八幡大菩薩と言い、祇園大神を祇園牛頭天王と言った。仏徒はなおこの仏名で飽き足らず、これを実際上に公示せんとて神社境内に本地堂を設け、本地仏を安置して神の本地の仏なることを表明するに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13
さらには僧徒が神を勧請する事例も少なくなく、石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請したのも僧侶であったという。羽根田氏の解説を続ける。
「終には神に、社僧の別当職を置き、僧徒をして神社に奉仕させることになった。即ち石清水八幡宮に、法蔵坊はじめ数戸の社坊あり、北野天満宮に松梅院はじめ十二の社坊があった。その他祇園、多賀、山王、日光、宮島、金毘羅、彦山、高良山、白山をはじめ、大社はおおむね社僧別当であった。尤も各神社に社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について何等の権威もなかったのである。然れども伊勢神宮始め、その他に社僧なくして神主の神仕する神社もあったが、…少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのでなく、広前に法楽として読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備えつけるは勿論、御饌も魚鳥の除いた精進物であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15
なぜ全国の神社に仏具が供えられて読経までが行われるまでになってしまったのだろうか。羽根田氏によると、神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されているのだという。一例として『続日本後紀』の仁明天皇承和三年*十一月の詔が著書に紹介されている。
*承和三年:西暦836年
「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」
僧侶を遣わしてお経を読むこととなると、当然のことながら神社にも仏像や仏具が必要になってくる。時代が下がるとともに僧侶が強くなっていき、神仏分離令が出される前の神社の状態は以下のような状態になっていたという。
【鰐口】
「かかる状態であるから、ついにはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は概ね仏像を神体にしたのである。而して其の像は、弥陀、釈迦、薬師、大日、観音、地蔵、不動などであった。ただ神殿内に仏像を祀るのみでなくこれを外面に表示して、またかの八幡宮の如く、社殿の扉の上部に、弥陀、観音勢至、または釈迦、文殊、普賢の三尊像の額を掲げたる神社もあって、現に日吉山王権現の如きは、七社ともに神扉の上部に、円形の額面の直系三尺余に、弥陀三尊の雲に乗って来迎する像の浮彫に、地板は青色で、輪廓(ふち)は雲形の彫物で、極彩色のが掲げてあったのを実見したのを記憶している。
八幡宮、日吉山王の大社が、既にかくの如くであったから、なお他にもこれと同様の体裁の神社も多くあったであろう。而して八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口に鐘の緒の下げであったのも実見した。かかる状況であるから、社頭の構造もおのずから伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16
【柏原八幡宮には今も鐘楼と三重塔が残されている】
本地垂迹説は、人々が仏教を重視するの余り神道を軽視する弊に陥らないようにと教え、そうすることで神道を守ろうとする考えであったのだが、いつの間にかご神体までもが仏像に変わってしまい、社殿も仏閣のようになっていったという。
「しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16
なぜ明治初期に激しい廃仏毀釈が起こったか長い間疑問に感じていたのだが、羽根田氏の著書を読んでようやく納得できた次第である。明治初期に激しい文化破壊活動が行われたことについては仏教側にも責任の一端があったのだと思う。
江戸幕府は仏教を優遇してきたのだが、そのことが多くの僧侶の堕落を招いたことは疑いがない。その証拠に平田篤胤よりもかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ている。
菊池寛は著書の『明治文明綺談』で、こう解説している。
「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*)
…
荻生徂徠も、
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
*大学或問:熊沢蕃山の著した、経世済民論の書である。貞享4年(1687)成立
**政談:荻生徂徠が8代将軍徳川吉宗に呈した幕政に対する意見書。全4巻。成立は徂徠が吉宗に謁見を許された1727年前後と考えられる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/58
【徳川光圀】
仏教を批判したのは思想家だけではない。会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのである。
仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動いている。普通に考えて、政権の誕生期であり権力基盤が不安定な段階においては、どんな政府においても、国民から強く反対されるような施策が強行出来るはずがなく、むしろ国民が評価するような施策を優先して実行するはずである。少なくとも明治維新を推進した中心メンバーにとっては、仏教勢力を叩くことは多くの国民から支持されると考えていたのではないだろうか。
明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には次のような命令を出している。
「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
これが『神仏分離令』で「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じているのだ。そしてこの命令が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官*が進入し、仏具や教典などを焼き捨てている。
*神仏分離令に関与した神祇官神祇事務局権判事であり日吉山王権現の社司であった樹下茂国が、最初に行われた廃仏毀釈を主導した。
当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在した。それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかないだろう。仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになったのだが、同時に大量の金属の使い道を考えることが不可欠となる。
【薩摩天保】
以前このブログでレポートした通り、他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出した。島津久光の側近で天保銭の密鋳に関与した市来四郎の証言が羽根田氏の著書に紹介されているが、それによると、徹底的に神仏分離を行った結果、神社のご神体はほとんどすべてが仏像であったと書いている。
「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53
薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなる。
『明治維新 神仏分離史料 第一巻』に、寺や神社の多い京都の神仏分離についてこんな記録があるので紹介したい。
【昔の四条大橋】
「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。
洛陽四条鉄橋御造架につき献上書云々とある文書が伝わってある。その一に紀伊郡第三区深草村寶塔寺、古銅器大鰐口丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。この類の物が今の鉄橋になったのである」(『明治維新 神仏分離史料 第一巻』p.384)
四条大橋は幕末の安政三年(1856)に造られた橋が明治六年(1873)の洪水で破壊されてしまったために再建されることとなったのだが、全長90m以上もある大橋を造るために、鋳潰された梵鐘や鰐口はとんでもない量であったことだけは確実なことである。
その後、市電の開通に伴う道路拡張のためこの橋は大正二年に架けかえられ、その後水害で再度架けかえられることになり昭和17年に完成したのが現在の四条大橋なのだが、古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われたことを知るべきである。
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【ご参考】
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