全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html
このような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際に多くの歴史書ではそう書かれている。
たとえば昭和8年に出版された『岩波講座日本歴史』では、「明治維新となり、神仏分離令も出て、廃仏の気勢は天下に漲った」と書かれていて、それまでは廃寺の準備がなされたとだけ書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/11
昭和16年に出版された維新資料編纂事務局の『維新史』も同様で、「神仏分離の令出づるや藩廳は…総て寺院を廃し、僧侶に悉(ことごと)く帰俗すべきを命じた。是において廃仏の気勢は忽ち藩内に漲り、仏像・経巻等を焼棄し、あるいは破却して、一藩の仏教は殆んど潰滅せんとするに至ったのである。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242382/270
このように普通の歴史書では、薩摩藩の廃仏毀釈は明治元年の神仏分離令以降に始まったことになっているのだが、実際はもっと早くから実行されていた可能性が高いことを最近知った。
薩摩藩の廃仏毀釈を推進したメンバーの一人で、島津斉彬の側近であった市来四郎という人物が薩摩藩の廃仏毀釈を証言していて、その内容が、このブログで何度か引用してきた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に要約されて紹介されている。この証言を素直に読むと、薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期から始まっていた可能性が高いと考えざるを得ない。
羽根田氏が著書の中で、市来四郎の講話をまとめている部分を引用する。
「さて、鹿児島藩には、夙(つと)に平田篤胤の学風が流行したから、仏教排撃の議論が盛んであった。慶応元年(1865)の春頃であったが、私ども友達中の壮年者の諸論に、こういう時勢に立ち至っては、寺院および僧侶という者は、実に不要である。あるいは僧侶も、それぞれ国の為に盡させなくてはならぬ時節になった。先年水戸藩にても、寺院廃合の処分があったのは、眞に英断の処分であった。
此時にあたり、当藩においても、之を断行して廃すべきであるという事となった。…(市来らが)建白者となり、家老の桂右衛門というに対し、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年者が、ただ口辨をもって坐食しては相すまぬなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分に尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に宛て、仏具は武器に換えることとし、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与するがよかろうという主意で建言した。(家老の)桂もかねて同論でもあり大いに賛成して、じきに忠義*、久光に披露せられた。ところが即日に決断せられ、久光は、拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借るに及ばぬと言われたそうである。即日、桂久武を始め、みな寺院取調べ方を命ぜられたのは、誠に愉快なことであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50
*忠義:島津久光の子で薩摩藩第12代の藩主。藩主在任中は島津茂久を名乗り、維新後に忠義と改名した。
**久光: 島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。幕末の薩摩藩の最高権力者。
そして市来らは寺院の石高や僧侶数を地域別に徹底的に調べ上げたという。
その調査結果は、薩摩藩全体では、大小寺院の総数が1066寺、それらの寺院の石高が 15118石、僧侶数が2964名であったという。
さらに寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで毎年大きな金銀や米の支出があった。彼らの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出は、10万余石にもなると書かれている。
ちなみに幕末の薩摩藩は87万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは間違いがない。
平和な時代であればともかく、外国勢力と戦わねばならない時期が来るかも知れず、戦費の蓄積が急務であったにもかかわらず、薩摩藩に財政の余裕があるわけではなかった。
そこで、もし寺院を破壊すれば、その分だけ寺院関連支出が減るから、藩の財政収支が大幅に改善することは誰でもわかる。だからこそ藩主以下、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。
市来は「寺院を廃して、各寺院にあるところの、大小の梵鐘、あるいは仏像、仏具の類も、許多の斤高にして、これを武器に製造の料に充て、銅の分を代価に算して、凡そ十余万両の数なり」と算盤をはじいている。
市来は寺院を破壊した時期をあいまいにしているようだが、市来らが島津久光に廃寺を建言したという慶応元年(1865)には、薩摩藩ではとっくの昔に寺院の梵鐘などを寺院から取り上げていたのである。
前回の記事で書いた「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」が出された3年後の安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていたとの市来の証言がある。ところがこれらの梵鐘を鋳潰さないまま、その年に斉彬公が亡くなられてしまったという。
市来四郎はいつ梵鐘などを鋳潰したかについて明確には述べていないのだが、次の部分を読めば、江戸幕末に鋳潰したことはほぼ間違いないだろう。
「…斉彬公も、詔に対し幕令に随い、梵鐘を引き揚げて、寺院の廃止を実行せられたのである。故に鹿児島藩の寺院処分は斉彬公から出たのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/54
「仏具類、即ち梵鐘などは、兵器に鋳換えたのもあり、天保銭の料に用いたのもあり、天保銭に鋳換えるには、松平越中守が、寛永通宝を鋳造の時の訓諭などを引用して、衆生済度の主意に基づき、実際の餓鬼を救うなどと言いふらした。兎に角も、一大事変であるにもかかわらず、別に故障もなく行ったのは、むしろ怪しまるる程である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53
このように、市来は梵鐘などを鋳潰して、兵器だけではなく天保銭の原料にしたと証言していることは注目して良い。もちろん、当時においては通貨の発行権は徳川幕府にしかなかったので、市来の証言を普通に読めば薩摩藩は寺院の梵鐘などを溶かして贋金を作っていたことになる。
天保銭は100文で通用し、製造コストは原料代と工賃込みで1枚10文前後だったというが、薩摩藩の場合は、集めた寺院の梵鐘を原料にしたのならば、もっとコストは低かったはずだ。
薩摩藩は、藩の支配下にあった琉球の救済を名目に、文久二年(1862)に江戸幕府から3年の期限付きで鋳造を許可された「琉球通宝」の製造と併行して、天保銭を大量に密鋳したようだ。
Wikipediaの「琉球通宝」の解説によると、それまで薩摩藩は錢貨鋳造の経験がなかったので、島津斉彬は天保通宝鋳造経験のある人物を呼び寄せたことが『斉彬公御言行録』に記録されているという。そして文久三年(1863)の薩英戦争までに「琉球通宝」を30万両を鋳造し、戦後も日々7000両余鋳造したとされているが、それ以外に天保銭を大量に密鋳したのならば、討幕のための相当な軍資金が捻出できたはずである。
こういうことは公式には記録されずに秘匿されることなので、密鋳を裏付ける文書が存在するわけではないが、「薩摩天保」と呼ばれている密鋳銭が今も大量に存在している事実がある。
「薩摩天保」は本物の天保銭と比べて鉛の含有量が高くて黒みを帯びて品質も良くないそうだが、通貨コレクターの間では人気があり、今では本物の天保通宝よりも薩摩藩の贋金の方に高い値段がついているのは皮肉なものである。
http://1st.geocities.jp/mrf454_pp/HTML/iTempo.html
ところで、幕末に天保通宝を密鋳した藩は薩摩藩だけではなかったようだ。
Wikipediaによると明治時代に引換回収された天保銭は、本物の製造枚数を1億枚以上も上回っていて、2億枚程度が幕末に密鋳されていたと推定されている。
密鋳に関わっていた藩は薩摩藩のほかに、水戸藩、久留米藩、福岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩、仙台藩など10を超える藩の名前が判明しているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E9%80%9A%E5%AE%9D
市来四郎の廃仏毀釈の証言に話を戻そう。
市来によると、まず城下の寺院を「処分」したと述べている。最初に「処分」したのは、大乗院という真言宗の大寺で、その支坊、末寺が境内に十以上あったが、これらが「悉く廃毀された」とある。
城下寺院の処分が終わると、各郡村の寺院に移ったが、全てが終わるのに三四年も費やしたのだそうだ。
そのあと、神社の神仏混淆の分離にとりかかっている。市来の証言を読むと昔の神社がどのようであったかが分かって興味深い。
「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
と、4千以上の神社で神仏混淆でなかった神社は一つしかなかったというのは驚きだ。
また市来は仏像の処理についてはこう述べている。
「…仏像の始末については、石の仏像は打ち毀して、川の水除けなどに沈めた。いま鹿児島の西南にある、甲突川の水当のところを仏淵と呼ぶ。すなわち当時、石仏像を沈めたところである。木仏像は悉く焼き捨てたのである。また大寺の堂塔とか、大門とかを打ち壊すに、大工、人夫等どもが負傷でもすると人気に障るから、大いに注意して指揮した。…
その頃の巷説に、昔の人は大寺だの仏像だのと造立して金銭を費やし、丹誠を尽くしたもので、それだけの効験があるものと思ったが、今日打ち毀してみれば何のこともない。昔の人は、大分損なことをせられたものだなどと言い、仏というものは、畢竟(ひっきょう)、弄物のようなものであったという人気になった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53
市来らはこのようにして寺院や仏像などを破壊していったのだが、その時期については述べていない。しかし、通説の叙述のように、明治維新後に拡がった「廃仏毀釈の嵐」によって、寺院や仏像が破壊されたというのはありえないことだろう。
もし通説が正しいとすると、安政5年(1858)に、島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘だけを武器製造局に集めた後に、慶応元年(1865)に全寺院の調査を開始し、明治維新後の神仏分離令(1868)を待って、寺院の仏像仏具や建物を毀し始めたことになり、天保銭の密鋳は認めず、「琉球通宝」鋳造時にも寺院の梵鐘には手を付けなかったこととなり、どう考えても不自然すぎる。
市来四郎は島津斉彬の時代に梵鐘を溶かして天保銭を作ったと証言しているのだから、おそらくこの時代に、すべての寺院の梵鐘だけではなく金属製の仏像が集められて鋳潰され、木造の仏像や石仏などの破壊も同時になされたのだろう。
羽根田氏の著書にはあまり追究されていない部分だが、薩摩藩の徹底した廃仏毀釈については、その経済的動機を無視してはいけないと思う。仏教界の腐敗があったにせよ、それが廃仏毀釈の原因のすべてではなかったはずだ。薩摩は廃仏毀釈で財政支出を大幅に削減し、さらに通貨偽造で荒稼ぎができることを計算した上で、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。
このブログで何度も書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実は歴史叙述から外されて、為政者にとって都合のいい記述だけが編集されて国民に広められる。
幕末の段階で寺院の梵鐘や仏像を集め鎔かして贋金づくりをし、その資金で明治維新を果たしたというような、明治維新後の中心勢力となった薩摩藩にとって都合の悪い史実の数々は、明治以降の長らく歴史の叙述から削られてきたと思うのだが、この時代に限らず、勝者にとって都合の良いキレイごとばかりの歴史叙述では、本当に何があったかを知ることは難しい。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ご参考】
このブログで、廃仏毀釈に関してこんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。
明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html
「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html
数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html
- 関連記事
-
- 明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち 2010/03/05
- なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか 2013/03/24
- 奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか 2013/03/30
- 廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ 2013/04/04
- 江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか 2014/08/20
- 水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯 2014/08/25
- 寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府 2014/08/30
- 全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか 2014/09/05
- 神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった 2014/09/10
- 日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2 2014/10/22
- 明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった 2015/07/09
- 浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと 2016/07/30
- 明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと 2016/08/06
- 神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗 2018/04/26
- 仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える 2018/05/11