江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。
梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。
標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。
前回の記事で、岐阜県安八郡神戸町にある日吉神社に三重塔や仏像が残されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html
また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。上の画像は昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html
日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。
「徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。
僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問[熊沢蕃山の著書])
…
荻生徂徠も、
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/57
儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。
「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。
このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/59
菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前このブログで伊勢の廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。この本も、『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来る。
「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。…
…将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/21
【談山神社 十三重塔】
羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。
「当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/33
【名草神社三重塔】
神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。
「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…
…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…
…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15
このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。原文はいずれも漢文で、廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページの次のURLに、明治政府の出した神仏分離に関する命令が集約されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
3月17日神祇事務局達
「今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」
*別当:社寺を統括する長官に相当する僧職
**復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。
さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
「中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」
*権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号
**牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。
***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。
また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと」
【苗木藩 常楽寺の四つ割りの南無阿弥陀仏碑】
維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い。
明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという。
慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。
しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
以前このブログでも書いたが、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html
明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。
江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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