世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した
乃木の27日の日記には「日夕、二〇三攻撃を第一師団に命ず」と書かれている。「二〇三攻撃」とは旅順の旧市街地から北西2kmほどのところにある丘陵である「二〇三高地」を攻撃せよとの意で、「二〇三高地」と呼ぶのは山頂が海抜203mであることによる。
国立公文書館『アジア歴史資料センター』のサイトに日露戦争に関する公文書が多数紹介されている。その中には乃木が11月27日に出した東北正面の攻撃を中止して二〇三高地を奪取せよという命令や、同じく乃木が11月29日に出した、軍はあくまで二〇三高地の占領を目指せとの命令がある。いずれも乃木大将の自筆のもののようだ。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou08_detail.html
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響で、児玉源太郎が乃木に代わって指揮を執って203高地を攻略したという説が拡がったのだが、Wikipediaによると、そのような説は「司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない」と書いている。さらに「乃木擁護論」とその論拠が紹介されているが、誰でもこれを読めば、司馬遼太郎の説の誤りに納得できると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
11月27日から始まった二〇三高地をめぐる戦いは壮絶を極めたようだ。
日本軍は何度も突入を繰り返し、11月30日午後6時には山頂東北部に突き進みこれを占領するも、ロシア軍は次々と増援隊を出して逆襲をかけ、弾薬、手榴弾の不足に苦しみ、12月1日朝にやむなく山麓まで後退した。しかし日本軍は日没を待って突撃を再開し、激戦の末午後10時ごろ山頂の散兵壕の一部を奪取し、一時は二〇三高地の両山頂を占領したものの、東北部は奪取されて西南部はその一部を確保したにとどまった。
ちなみに、満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に着いたのは12月1日のことなのである。
地理学者で『日本風景論』を著した志賀重昂(しがしげたか)が第三軍司令部に従軍していて、この戦いの壮絶な光景を『旅順攻囲軍』(明治45年刊)という本に記しており、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。
「…さて二〇三高地を眺むると、山頂には敵兵頑強に踏張(ふんば)りて、我を瞰射(かんしゃ)し、我また山下より二八センチ砲を間断なく射撃し、命中正確にして弾の地に落つる毎に敵兵は空中に飛びて粉砕さるる。かくて敵味方の大小弾丸は数限りもなく打ちに打ち続けられたることとて、二〇三高地は元来素直なる二子山(ふたごやま)なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凸凹(でこぼこ)の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも、初め七日間はこの凸凹も判然と見えたるが、味方の屍(しかばね)の上に敵の屍が累(かさ)なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布を敷き詰めたる様になりしより、七日目以後には再び従前の素直なる形に返った様に見えた。こは屍を平面的に敷きたることになるが、味方が山の西南嘴を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢が無くなりたる故、屍を積みに積みて、累々と高く胸墻(きょうしょう)を築きたるなど、殆んど小説を読むの感がする。ナント十一月二十七日夜より十二月六日朝まで全九昼夜の間、一小地点に於いて間断なく戦闘、否な短兵接戦し、格闘し、爆薬の投合いをなせしとは、世界の歴史に比類はない…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774533/108
ではなぜ、日露両軍はここまで激しく戦ったのだろうか。それは、山頂から旅順港が見渡せ、制圧すれば旅順港の敵艦に砲撃を仕掛けることが可能となるからだ。
11月30日の攻撃で203高地の西南の山頂に達した旭川師団の生き残りの兵から、山頂の西南角から、待望の旅順港内が見えるという報告が入ったという。
その報告を受けて、第7師団の白水参謀、総司令部の国司参謀、海軍の岩村参謀が観測将校として、決死の面持で飛び出していったのだそうだ。目的は敵の戦艦がどの地点にあるかを確認するためである。
菊池寛は『大衆明治史』にこう書いている。
「雨と降る弾丸を冒してその突角部にたどりつき、遥かに見れば、旅順の町は一望の下にあり、港内には目の上の瘤(たんこぶ)ともいうべき、旅順艦隊が七隻、その他船舶が歴々と手に取るように見えるのである。転げるようして山を降りるや山麓の重砲陣地にかけこみ、それから十分後には二十八センチ砲はじめほとんど此処に集中したと思われる重砲が、今までにない正確さを以て、旅順市の中枢部と敵艦に向かって雨と注がれた。
その日の夕方、
『ポペータ艦上に白煙湧く。四十五度傾斜、ポルタワは沈没、海底に膠着す』といった、快報が続々と達した。
この砲火に居たたまれなくなって港外へ逃げ出したセパストポーリ号を除き残りの六艦は撃沈あるいは擱座(かくざ:座礁)して全く殲滅されたのである。」(『大衆明治史』p.318-319)
菊池寛の文章では日付があいまいだが、明治38年刊の『日露戦役史. 前編』(早稲田大学編輯部編)には、重砲陣地から放った砲弾が旅順港の敵艦に命中したのは12月3日と5~7日で、5日には白玉山の南方火薬庫にも命中して大爆烟を揚げ、6日にはポルタワが沈没したことなどが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774293/464
このような砲撃は二〇三高地を完全占領してこそできた話で、二百三高地は12月5日の夜に日本軍が奪取に成功したのである。
11月26日から12月6日まで11日間に及んだ第三回総攻撃で、日本軍は総兵力6万4千人中1万7千の死傷者を出している。これに対し、ロシア軍は3万2千人中死傷者は4千5百人だったという。
二百三高地を奪取したとはいえ、旅順要塞は少しもゆらぐことはなく、いまだに鉄壁の堅城であることには変わりなかったし、ロシア軍が降伏する気配もなかった。
しかしながら、旅順の太平洋艦隊が全滅したことにより、多大な犠牲を払って強襲する必要がなくなったので、乃木率いる第三軍は坑道掘削作業に全力を挙げ、坑道に大量の爆薬を仕掛けて爆発させると同時に突入する作戦で臨んでいる。旅順要塞は二十八センチ砲でも攻略しきれなかったほど堅牢であったのだ。
そして第三軍は12月18日に東鶏冠山北堡塁を10時間の激闘で陥落させ、28日には二龍山堡塁を17時間の激闘で奪取し、12月31日には松樹山堡塁を30分で陥落させている。
かくして日本軍は旅順要塞の三大永久堡塁を奪取したのだが、次の難関はその背後に控える東北正面の最高地点にある「望台」と呼ばれる陣地の奪取である。この「望台」を日本軍は翌1月1日の午後3時に占領したという。
そしてこの直後に、ロシア関東軍司令官ステッセル中将はついに降伏を決意して第三軍に降伏を申し入れ、翌2日に旅順要塞はついに落城したのである。
1月5日にステッセル中将と乃木は旅順近郊の水師営で会見した。二人は互いの武勇や防備を称え合ったのち、ステッセルが乃木の2人の息子の戦死を悼んだところ、乃木は「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてともにその死所を得たることを悦んでいる。」と答えたという。
この会見の最後に両社が対等に並んだあの有名な記念撮影が行なわれている。敗れた側のロシア将校も全員が武装し帯刀することを許して、武士の名誉を保持させたことは有名な話だが、これは明治天皇の聖旨によるものだったようだ。
世界は旅順の陥落に驚愕し、さらに水師営の会見における乃木のステッセルに対する仁義と礼節にあふれた態度に感嘆して、上の記念写真とともに全世界に喧伝されたという。
とは言いながら、日本軍に多くの犠牲者が出た。
日本軍は全部で13万人の兵力を投入したが、そのうち戦死者が1万5千人、負傷者が4万5千人だったという。一方のロシア軍は4万7千人のうち、死傷者および病者は半数を超え、開城時健全な戦闘員は2万名に満たなかったのだそうだ。
しかしこれだけの犠牲者が出たにもかかわらず、世界は日本軍が半年足らずで旅順要塞を奪取し、犠牲者も少なかったことに驚いたのである。
1854-1856年のクリミア戦争で、ロシア軍と英・仏・オスマン帝国連合軍が戦った。その戦争の最大の戦闘が「セヴァストポリ要塞戦」であったのだが、この要塞に英・仏連合軍がこの要塞を落すのに349日もかかっており、犠牲者は英国軍で3万3千人、フランス軍に8万2千人も出ているのである。しかるに旅順要塞の規模ははるかにセヴァストポリ要塞を上回っており、乃木軍はそれよりも少ない犠牲で、しかも短期間で勝利したことを評価されていたようなのである。
平間洋一氏の『日露戦争が変えた世界史』に、旅順陥落後にレーニンが機関誌『フペリヨード』第2号に寄稿した文章が紹介されているので引用したい。
「…ロシアは6年のあいだ旅順を領有し、幾億、幾十億ルーブルを費し、戦略的な鉄道を敷設し港を造り新しい都市を建設し、要塞を強化した。この要塞はヨーロッパの多くの新聞が難攻不落だと褒め称えたものである。軍事評論家たちは、旅順の力は6つのセヴァストポリに等しいと言っていた。ところが、イギリスとフランスがセヴァストポリを占領するのにまる1年もかかったが、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、8か月*で占領したのである。この軍事的打撃は取り返しのつかないものである。…旅順港の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。戦争は限りなく拡大し、新しい膨大な戦争、先生にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる。」(『日露戦争が変えた世界史』p.63-64)
*乃木が第三軍司令官に任命されたのは明治37年5月だが、旅順要塞に対する本格攻撃を開始したのは8月で、乃木軍はそれから約5ヶ月で落城させた。
前回の記事で、ロシアの満州軍総司令官であったアレクセイ・クロパトキンがこの旅順要塞について『これを陥すには、欧州最強の陸軍でも3ヶ年はかかる』と豪語していたことを紹介したが、その点については他の欧米諸国も同様の認識であったのである。だから世界は日本軍が予想以上に短期間で旅順を占領したことに驚愕し、乃木の戦術に学ぼうとしたのである。
平間洋一氏の前掲書に、世界の日本軍に対する評価が紹介されている。
「英国国防委員会が…1920年に編纂した『公刊日露戦争史』…に、『結論として旅順の事例は今までと同様に、塁堡の興亡の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらせられた。作戦準備、編成、リーダーシップ、作戦のミスや怠慢などにどんな欠陥があったとしても、この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう。』と書いている。
また日露戦争に観戦武官として参加したイアン・ハミルトン大将は、日本から学ぶべきものとして、兵士の忠誠心の重要性をあげ、われわれは『自国の子供たちに軍人の理想を教え込まねばらない。保育園で使用する玩具類に始まって、教会の日曜学校や少年団にいたるまで、自分達の先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、愛情、忠誠心、伝統および教育のあらゆる感化力を動員し、次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである』と説いた。
一方、フランスのフランソワ・ド・スーグリエ将軍も、旅順攻撃戦は『精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心および騎士道的な死をも恐れぬ精神力による圧倒的な力の作用となる印象深い戦例』であると、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えた(マイケル・ハワード『ヨーロッパ諸国より見た日露戦争』)。このように、ヨーロッパでも日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられていた。このため、10年後に起きた第一次世界大戦では、日露戦争の戦訓を学んだヨーロッパ諸国の軍司令官たちの脳裏に、この突撃精神がよみがえり、突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。」(『日露戦争が変えた世界史』p.59-60)
このように乃木将軍率いる第三軍の旅順攻略戦について世界が高く評価していたことは、当時の記録を読めばわかるのだが、それではなぜ司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、史実を一部歪めてまでして乃木のことを愚将と描いたのか、少し考えこんでしまう。
わが国では、戦後の長きにわたって「先の大戦ではわが国だけが悪かった」とする「戦勝国にとって都合の良い歴史」がマスコミや教育機関で広められて、いつの間にかその歴史観が日本人の常識になってしまっている。
今の一般的な教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には、政治家の名前は出てきても、乃木希助の名前も東郷平八郎の名前も出てこないのだ。私にはこのような歴史の叙述が公平で正しいものだとはとても思えない。
昔を振り返ってみても、子供の頃に日本の軍人が英雄や偉人として描かれるような読み物を読んだりドラマなどを見た記憶がなく、大人になってからも、テレビ番組や映画で観るものは日本の軍部を否定的に描いたものが大半だったと思う。
以前このブログで、オトポール事件で迫害されたユダヤ人を助け、敗戦後に占守島の戦いでソ連軍に痛撃を与えて、ソ連の北海道侵略から守った樋口季一郎中将のことを書いたのだが、このような人物の功績がテレビドラマや小説や映画などで国民に広く知らされることがないのは何故なのか。
日本軍人を国民の英雄として描かせたくない国内外の勢力が存在して、教育界やマスコミや出版界に対して今も圧力をかけている可能性を強く感じているのだが、彼らからすれば、日本国民が「自虐史観」で洗脳されている状態が長く続くことが望ましく、そのためには日本軍人が肯定的に描かれることは、絶対にあってはならないと考えているのであろう。
司馬遼太郎が乃木を愚将としたのは司馬の持論であるのかもしれないが、何らかの圧力がかかって司馬が乃木を否定的に描いたという可能性はないのだろうか。
もし司馬のような一流の人気作家が作品の中で乃木を英雄として描けば、国民に与える影響は相当大きなものになっていたはずだ。それをさせないために、司馬本人や出版社などに対して強い圧力があってもおかしくない時代が、戦後からずっと続いていることだけは確かな事なのである。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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