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ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情

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Category北清事変から日露戦争
明治38年(1905)6月10日にわが国は米国大統領ルーズベルトの講和提議を正式に受諾し、これと前後してロシア政府もこの提案を受諾して、講和談判地は米国ニュー・ハンプシャー州のポーツマス軍港と決まった。
そして7月3日に全権委員として外務大臣小村寿太郎と駐米公使高平小五郎が任命されている。
下の画像は、日本の講和団で、前列の右側が小村寿太郎で、左が高平小五郎だ。
日本の講和団

日露戦争でわが国は、日本海海戦をはじめ個別の戦いでは連戦連勝できたのだが、ロシアがわが国に降伏したというわけではなかった。講和談判で多くの賠償金と領土が獲れるという国民の期待ばかりが盛り上がっていたのだが、それを裏切ることになることは、わが国の政府首脳には、はじめからわかっていたようだ。

今回は国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、渡辺幾次郎著『日本戦時外交史話』の文章を紹介したい。
小村寿太郎

「この小村全権の使命が如何に大任で、困難であったかは、政府方面では悉く知っていた。井上馨は小村の暇乞いに対し、
 『君は実に気の毒な境遇に立った、今までの名誉もこんどで覆えさるるかもしれない。』
と語り、伊藤博文は
 『君の帰朝のときには他人はどうであろうとも、我輩だけは必ず出迎えに行く。』
と告げたという。7月8日、新橋駅出立の人気はすばらしいもので、送者は堵を為していた。小村は桂(首相)と馬車を同じうしたが、微笑しながら、
 『帰ってくるときには人気は、まるで反対でしょう』
と。桂は憮然として語(ことば)がなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/153

一方、ロシア側の全権代表は元大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテで、彼は講和会議に臨む方針を次のように定めていたそうだ。
300px-Sergei_Yulyevich_Witte_1905.jpeg

「一、 どんなことがあっても、我々が講和を望むような態度を見せないこと。ロシア皇帝陛下がわざわざ自分を講和全権にしたのは、別に講和そのものに重きを置いた訳ではなく、周囲の諸国が一般に戦争の継続を望まないようであるから、その意を容れたに過ぎぬという態度を示すこと。
「二、 自分は、大国ロシアの全権代表であるという顔をして大きく構えること、大国ロシアは最初からこんな戦争を重要視していないから、その勝敗については、少しも痛痒を感じない態度を示して相手を威圧すること。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/158

講和会議は8月10日から開始されたのだが、会議は紛糾したという。ヴィッテの発言内容を知れば、議事が進行しなかったことがよくわかる。

「露国は平和を希望するが、しかも代価の如何を問わず、平和を求むるの已むを得ざるに立ち至ったものではない。露国が続戦に必要の方法を得ることは、屈辱的平和を買うに比し一層容易である。…(日本はいろいろ要求しているが)もし、露国にして同様の地位にあらんか、露国は敵国の首府を占領せざる間は決して軍事賠償など要求しない。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/168
そこで小村がヴィッテに対して
「貴下の言は、あたかも戦勝国を代表するもののようだ。」と大笑いすると、ヴィッテは
ここには戦勝国もなく、したがって戦敗国もない。」と答えたという。

ヴィッテが賠償金の支払いや領土割譲に一切応じなかったのは、ロシア皇帝ニコライ2世が「一寸の土地も、1ルーブルの金も譲るべからず」と繰り返し何度も命じていたからであったが、この会議の情勢にセオドア・ルーズベルト米大統領は憂慮した。この会議がもし破談になれば、大統領自身だけでなくアメリカの威信にも傷がついてしまう。

わが国はすでに露海軍力制限要求や露国軍艦引き渡しの要求を撤回していた。残るは、実質的に日本が占領していた樺太の領土画定と、賠償金の問題に絞られていたが、その点については、ヴィッテは妥協の余地があるとの考えであった。『日本戦時外交史話』にはこう書かれている。
「ヴィッテは、…償金拒絶で談判を破裂せしめても世界の同情は我にある。しかし、サガレン(樺太)問題で破裂させては世界の同情は去る。サガレンは事実日本が占領していると電稟してその反省を求めたが、露国政府は依然動かなかった。ヴィッテに対しては償金問題で談判を打ち切れとの電命を下すにいたった。しかし、ヴィッテは、慎重をとった。日本側より難題を提起せざる限り、我より会議を打ち切るは大統領の不快を招く恐れがあるからといって、会議打ち切りには応じなかった。彼も何とか妥協を希望しているのであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/171

セオドア・ルーズベルト

そこでセオドア・ルーズベルト米大統領は、わが国に賠償金に関して譲歩を迫っている。
米大統領は大学同窓の金子堅太郎にこの様な信書を送っている。
「…想うに今日戦争を終結せしむるは日本の利益である。日本は既に満韓の支配権を得、また露国艦隊の殲滅により自国艦隊は倍大となり、かつ旅順・大連および満州鉄道を獲、あわせてサガレンをも占領した。すなわち金銭のため続戦するは、日本に取りて何等の利益なく、この上続戦するも、結局露国をして支払わしむべき金額以上の国帑(こくど:国の財産)を消費することは避けがたい。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/172

日本政府は米大統領の勧告に対し、賠償金の金額については一層の譲歩を認める旨の決定をしたが、ロシアは8月25日に、「一寸の地も、1ルーブルの金も日本に与うるを得ず、この既定方針は毫も変更するを得ず」と米大統領に回答したという。

27日に小村は非公式にヴィッテと交渉したが埒が明かず、談判を中止しポーツマスを引き揚げる決心をし、その旨日本政府に電報を打っている。それを受けて桂首相は28日に御前会議を開催し、次のように小村に電報を発している。
「…仮令(たとえ)償金割地の二問題を放棄するの已むを得ざるに至るも、この際講和を成立せしむることに議決せり
 よって貴官らは次回の会合において次のごとく宣言せよ。
 …帝国政府は人道および文明の大義に重きを置き、かつ、日露両国真正の利益に顧み、最後の譲歩として露国に於いて帝国の樺太占領の既成事実を確認する条件を以て、軍費償還に関するわが要求を全然撤回すべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/176

495px-Treaty_of_Portsmouth.jpg

翌29日に開かれた会議は、わが国の譲歩で講和が成立したのだが、どうして連戦連敗のロシアにここまで強気の交渉が出来たのだろうか。

『近代デジタルライブラリー』の中に『日露戦争と露西亜革命:ウィッテ伯回想記』があり、その上巻に講和談判成功の理由を縷々述べている部分がある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180407/276

簡単に言うと、ヴィッテ自身が行なったアメリカの世論工作やマスコミ対策等が功を奏した部分もあるが、米大統領が自分の面目の為に講和を熱望し、議論が行き詰ると日本に譲歩を迫ろうとしたこと、英独仏の主要国がこの会議において講和が成立することを欲していたこと、金融市場もキリスト教会も同様に講和を欲していて、日本人はこの大きな流れに逆行することはできず、最後は講和に進むことが講和談判をロシア有利に進めることが出来たと分析している。

ヴィッテは指摘していないが、この会議の開催中に露軍が満州に兵力を集めていたことも、ロシア有利に議論が進んだ要因のひとつなのだと思う。平間洋一氏の『日露戦争が変えた世界史』にはこう書かれている。
「…8月初旬の満州における日露の兵力は、日本軍25個師団に対し、ロシア軍は49個師団と2倍の兵力差となっており、9月には第21軍団、第22軍団の到着も予想され、日本軍の3倍の兵力が展開されつつあった(ロシア軍が最終的にハルピンまで送った兵力は129万4566名)」( 『日露戦争が変えた世界史』p.86)
このようにロシア軍の兵力増強を図っていたからこそ、ヴィッテは「戦争はまだまだこれからである」と何度も主張することが出来たのである。

この記事の冒頭に、7月8日に講和談判でポーツマスに向かう小村寿太郎が新橋駅を出立するところを多くの国民が見送った際に、小村は桂太郎首相に『帰ってくるときには人気は、まるで反対でしょう』と述べたことを書いたが、この講和条約に対するわが国の反応はいかなるものであったのか。

「講和条約の条文に領土の割譲も賠償金もないことが判明すると、『嗚呼(ああ)、嗚呼、大屈辱』(『万朝報』)、『この屈辱!』『あえて閣員元老の責任を問う』(『都新聞』)『天下不許の罪悪、日本に外交なし』(『報知新聞』)などと政府を攻撃したが、特に『大阪朝日新聞』(1905年9月1日)は『帝国の威信を傷つける屈辱の和約である。小村全権は努力を怠り違算して、この屈辱に甘んぜんとしている。このような条件で講和条約を締結するのは、陛下の聖意ではないので、陛下に対し講和条約の破棄を命じ給わんことを請い請い奉る』との社説を掲げた。
『万朝報』も社説で『帝国の光栄を抹殺し、戦勝国の顔に泥を塗りたるは我が全権なり。国民は断じて帰朝を迎うることなかれ。これを迎えるには弔旗を以てせよ』などと書き立てた
。…」( 『日露戦争が変えた世界史』p.85-86)

日比谷決起集会

このようなマスコミの論調に影響されて、全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれ、9月5日に東京・日比谷公園で開かれた決起集会では、遂に怒りで民衆が暴走し米国大使館やキリスト教会などが襲撃されて焼かれる事件が起きている(日比谷焼打ち事件)。日本政府は9月6日に戒厳令を敷いてこの騒動を収めたのだが、この騒動で死者が17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上出たという。

この事件で日本群衆の怒りがアメリカにも向けられたことが、米国における日本人排斥に繋がった一因となったという説があるが、実は米国東海岸で排日世論が少しずつ拡がりはじめたのは日露戦争で日本軍が旅順攻略戦で勝利した後の事である。
アメリカ東海岸のサンフランシスコ・クロニクル紙で1ヶ月に及ぶ排日キャンペーンが開始されたのは1905年の2月で、そして日本人の無制限移民に反対する動議がカリフォルニア州議会で可決されたのが3月1日だ。
以前このブログで『米国排日』シリーズの記事を書いたが、クロニクル紙でこんな内容の記事が書かれたという。

日本人はカリフォルニア、そして米国にとって一大脅威となった。日本人は白人の仕事に直ぐ慣れ、白人が生活出来ぬ安い賃金で働くので中国人よりも始末が悪い。日本人は米国人を嫌うが、米国人にも日本人を拒否する権利がある。』(1905/2/23)
日本人が悪いことをしたから排日運動が起きたのではない。良く働いて、白人の仕事を奪いつつ、一部の白人よりも豊かな生活をしていた事が排斥の原因となったのである。

米国の排日大阪朝日新聞

菊池寛は『大衆明治史』で、日露戦争後の英米における対日姿勢の変化を、次のように述べている。
「開戦当時は『負け犬』に味方するという米国人(ヤンキー)心理で日本を声援したけれども、その日本が思いのほかに強くてロシアを完膚なきまでにやっつけるのを見ると、今度は日本に対する強い警戒心が生まれてきたのであった。『日本にあまり強くなられては、極東における我々の権益は、ロシアに代った日本の脅威の前にさらされる』といった意向は、アメリカのみならず、英国方面に強く起こったのである。樺太割譲や償金問題で、日本が最後のドタン場で、あらゆる方面の牽制を受けなければならなかったのは、実にこうした英米の策動によるものだと考えられる。」(『大衆明治史』p.374)

要するにアメリカは、ロシアに満州を独占させないためにわが国とロシアを戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和のあっせんをしてわが国に恩を売って満州に自国の商業的利益を拡大することをはかったが、日露戦争にわが国が圧勝したためにその当てが外れてしまい、中国大陸に自国の拠点を持つというアメリカの戦略にとっては、わが国はむしろ邪魔な存在になってしまったということだろう。
オレンジ計画

教科書には絶対に書かれていないことだが、アメリカがわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したのは日清戦争後で、日露戦争が終結した翌年には「1906年版オレンジ計画」を策定し、その後何度も書きかえられて、1941年には正式に発動しているのである。

いずれ日本と戦わざるを得ないと考えていたアメリカにとっては、いくら日露戦争に日本が完勝したとしても、ロシアが日本に多額の賠償金を支払うことや、ロシアの艦船を日本が手に入ることは、認めたくなかったというのが本音ではなかったか。
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【ご参考】
日露戦争後、英米はどうやって日本を叩いたか、戦前の新聞や書物や最近翻訳された米国人弁護士の書物などを調べて、2年前にこのブログで記事を書きました。良かったら覗いて見てください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
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