中日ドラゴンズとは、セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属する日本のプロ野球球団である。
本拠地はナゴヤドーム。現在の監督は井上一樹(2025年~)。
セントラル・リーグ | |
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中日ドラゴンズ | |
基本情報 | |
創設 | 1936年 |
本拠地 | ナゴヤドーム |
一般略称 | 中日 |
アルファベット | D |
優勝回数 | |
リーグ優勝 | 9回 |
日本一 | 2回 |
アジアチャンピオン | 1回 |
セ・パ交流戦 | 0回 |
永久欠番 | |
経歴 | |
球団組織 | |
運営母体 | 中日新聞社 |
オーナー | 大島宇一郎 |
球団社長 | 加藤宏幸 |
GM | -- |
プロ野球球団テンプレート |
セ・リーグの伝統的な球団の一つであり、また東海地方に本拠地を置く唯一の球団となっているため、熱心なファンが多い。
あまり知らない人もいるようだが、昔は打撃を重視した攻撃的チームであった。現在でも”強竜打線”と呼ばれるのはその名残である。
のちには投手力を武器に、2000年代を中心に黄金期を形成した。
戦前の1936年1月5日に発足した名古屋軍をルーツとする。現存する球団としては、読売ジャイアンツ、阪神タイガースに次ぐ3番目に長い歴史を持つ。
親会社の新愛知新聞社は1942年に新聞統廃合令でライバル関係にあった名古屋新聞社と合併し、中部日本新聞社(現在の中日新聞社)となった。名古屋新聞社はプロ野球でも名古屋金鯱軍を経営してたが、名古屋金鯱軍は翼軍と合併して大洋軍となり、1943年には西日本鉄道に譲渡されるが(西鉄軍)、その年限りで解散するに至った。
一方の名古屋軍であったが、戦時体制で新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、1943年シーズンは創業家の大島家の個人経営で何とか乗り切った。それにも限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が1944年2月5日に球団を理研工業の傘下に入れ、球団名を産業軍に改称した。
戦後にプロ野球が再開されるが、日本野球連盟は「連盟が活動を停止した1944年まで存続していなかった球団は復帰を認めない」として、西鉄軍などの復帰を突っぱねた。名古屋軍は産業軍として活動を続けていたため復帰が認められ、中部日本新聞社が経営に復帰して球団名も中部日本(中部)に改められた。1947年の開幕前にニックネーム導入の申し合わせが行われ、中部日本ドラゴンズとなった。
ところがこの年のオフに、球団を大激震が襲う。経営方針を巡って対立した赤嶺が解雇されるや、これに憤った赤嶺を慕うチームの主力選手(選手26名の約半数近い12選手)が相次いで退団してしまうのである。1948年よりチーム名は中日ドラゴンズとなるが、戦力が大幅に低下したチームは最下位に転落した。オフに本拠地となる木造の中日スタヂアム(中日球場)が完成し、翌年から本拠地となった。
1950年よりプロ野球は2リーグ制に移行し、中日ドラゴンズはセントラル・リーグに所属することとなった。
1951年より名古屋鉄道(名鉄)も経営に参画することとなり、球団名も名古屋ドラゴンズに改められた。しかし、1953年をもって撤退したため、1954年より再び中日ドラゴンズに戻されて、今に至っている。
1951年8月19日の巨人戦で火災が発生し、球場が全焼してしまう。オフに鉄筋コンクリート造で再建工事が行われ、翌1952年4月5日の巨人戦がこけら落としとなった。1973年に運営会社が倒産し、そこから紆余曲折を経て、1976年より名称もナゴヤ球場に改められた(→中日スタヂアム事件)。
1954年に初のセ・リーグ優勝を果たす。日本シリーズでも西鉄ライオンズを下し、初の日本一となった。2022年現在に至るまで、実は「リーグ優勝した上で日本一」になったのはこの年以外にない(2度目の日本一となった2007年はシーズン2位)。その後もAクラスを守り続けるが、1960年に初のBクラスとなる。
1958年のオフに、球団史上初(にして、2022年時点で最後)の永久欠番が誕生する。服部受弘の10と、西沢道夫の15である。ただ、当時のことをよく知る杉下茂によると「30歳代以上の選手の一掃を決めたフロントが、“永久欠番にしてやるから引退しろ”と迫った」という、トホホな理由が真相のようである。
1961年は新人の権藤博の奮闘で巨人に追いすがった。毎日のようにマウンドに上がり続けるそのあまりの酷使っぷりから「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語まで生まれた。
1964年、1968年と最下位になり、1968年からは3年連続でBクラスに沈む低迷期に入るが、1974年には巨人のV10を阻み、ついに20年ぶり2度目のセ・リーグ優勝を果たした。だが、日本シリーズではロッテオリオンズに敗れた。
1976年のオフに太平洋クラブライオンズとの間でトレードが成立するも、藤波行雄が移籍を拒否したことで大騒動が起きる。藤波は1974年の新人王であり、球団にはファンからの抗議の電話が殺到し、トレード撤回の署名運動まで始まる始末であった。結局フロントが及び腰となり、このトレードは不成立に終わった。
1982年に8年ぶり3度目のセ・リーグ優勝を果たす。勝ち星が全試合(130試合)の半分にも満たず、しかも2位の巨人を下回るという珍事であった。日本シリーズでは「石ころ事件」の影響もあって西武ライオンズに敗れ去った。
1986年オフに、ロッテオリオンズとの間でトレードが成立し、落合博満を獲得する。中日からは牛島和彦ら4人を放出する大流血トレードであった。
1988年に6年ぶり4度目のセ・リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは再び西武ライオンズの前に敗れ去った。
1994年10月8日、巨人と同率で最終戦を迎え、ナゴヤ球場で史上初の最終戦決戦が行われた(10.8決戦)。しかし力及ばず、中日は優勝を逃した。
1997年よりナゴヤドームが開業するが、広いドームに対応出来ず、前年の2位から最下位に転落する。
1999年に11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスの前に敗れ去った。
※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。
一軍 | 二軍 |
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※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示があるまで編集しないでください。
※ドラフト指名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。
支配下選手 | |||
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投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
育成選手 | |||
投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
山崎武司が前年オフのフロントと対立から不振に陥り、また福留孝介も一向に成長の兆しを見せずチームは低迷、ついには前年引退したレオ・ゴメスを呼び戻すという異常事態となった。
投手陣は2位だった昨年よりむしろ状態が良く、野口茂樹が最優秀防御率に輝くなど明るい話題はあったものの、結局打撃不振が最後まで響いて4年ぶりのBクラス(5位)に終わった。1996年から采配を揮った星野仙一が勇退。オフには横浜の正捕手の谷繁元信をFAで獲得した。
投手コーチだった山田久志が監督に昇格した1年目。佐々木恭介(ヨッシャー)打撃コーチの指導によりついに未完の大器福留孝介が覚醒し、首位打者に輝いた。立浪和義のサードコンバートにより荒木雅博がセカンドのレギュラーとなり、昨年ショートでレギュラーとなった井端弘和とのアライバコンビが確立した。
朝倉健太の急成長と川上憲伸の復調があったものの、前年の三本柱野口・山本昌・バンチが結果を残せず、Aクラスには復帰したが3位に終わった。
一度中日と契約していたケビン・ミラーが来日を拒否し、ボストン・レッドソックスと契約。代わりにアレックス・オチュアを獲得する。不満分子化していた山崎武司を放出し、代わりにオリックスから獲得した平井正史の再生に成功した。しかし、ギャラードがシーズン途中に退団(横浜に移籍)するなどチーム内のギスギスは深刻なものとなり、ついにはシーズン終盤に山田監督が成績不振を理由に解任されるという事態にまで陥った。
ところが、佐々木コーチが代行監督に就任してからは急激にチーム状態が上向き、解任時点で5位だった順位が終わってみれば2位にまで持ち直した。
落合博満が監督に就任。「補強しなくても勝てる」と豪語しつつ、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマンをこっそり獲得。就任1年目でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗で敗れた。
横浜からタイロン・ウッズを獲得。この年から導入されたセ・パ交流戦で苦戦し、最終的に阪神とは14.5ゲーム差の2位に終わる。
セ・リーグ5球団に勝ち越しての完全優勝。しかし日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに1勝4敗で敗れた。
シーズンを通して上位をキープし、巨人と阪神との三つ巴となる。レギュラーシーズンは2位に終わったが、クライマックスシリーズで阪神、巨人を無敗で制し、2年連続で日本シリーズ出場を決めた。
前年同様、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し、4勝1敗で53年ぶりの日本一に輝いた。「リーグ優勝をせずに日本シリーズを制した」初のチームとなった。
前年度日本一となったドラゴンズは、MLBに移籍した福留孝介の代役としてFA宣言していた和田一浩を西武ライオンズから獲得。2008年はリーグ優勝、日本一の二つを期したシーズンとなった。
シーズン当初は防御率1点代の投手陣を擁して順調に勝ち星を重ねた。しかし野手・投手ともに故障者が続出。また主砲タイロン・ウッズが不振に陥り、序盤に積み重ねた勝ち越し数を取り崩す厳しい戦いを強いられる。
それでも決して低迷せず順位も上位をキープし続けたのは、持ち前の投手力に裏付けられた地力の強さをドラゴンズが有していたからに他ならない。それでも、北京オリンピックによる主力選手の離脱及びその影響はあまりに大きく、一時は四位転落、負け越しという事態に陥った。
だが終わってみれば順位は3位のAクラス。結局は阪神タイガースに大きく負け越したのが最後に響いた形になっただけで、その他巨人・広島・横浜には五分以上の戦いをしていたドラゴンズは二年連続のクライマックス・シリーズ進出を果たす。その後のクライマックスシリーズ・ファーストステージでは苦手阪神を、タイロン・ウッズが藤川球児から2点本塁打を放つなどして撃破する。
しかし、三年連続の日本シリーズ進出を目指したが、セカンドステージでは巨人相手に善戦するも敗退。中日ドラゴンズの2008年シーズンは課題を多く残して終結した。
シーズン終了後、エース川上憲伸がMLBアトランタ・ブレーブスへ、中村紀洋が東北楽天ゴールデンイーグルスへFA移籍、主砲タイロン・ウッズが退団。野球浪人中の河原純一、日本ハムを戦力外となった小山桂司、そして、“ウッズの後釜”としてドミニカからトニ・ブランコを獲得。これが、翌年予想だにしないことになる。
シーズンオフには川上憲伸(MLB移籍)、T・ウッズ(解雇)、中村紀洋(FA移籍)と言った主力級の選手の離脱により、開幕前には”もしかしたら久しぶりのBクラス(2001年が最近)も有り得るかも”とも言われていた。そして、追い討ちをかけるかのように谷繁の開幕直後の1ヶ月の離脱があった。
だが、投手ではチェンや川井雄太、吉見一起、河原純一と言った選手の活躍、野手では藤井淳志が大ブレイクしたこともあり、5月の半ば頃までは勝率五割弱程度と頑張っていたほうである。
そして、5月半ば頃から丁度トニ・ブランコが絶好調となったこともあって、6月は13勝4敗、7月は17勝7敗と、すさまじい勝率をたたき出し、リーグ順位2位と大躍進。
8月、9月も大苦戦していたイメージは強かったものの(実際、ブランコなどは不調であった)結局は8月:15勝10敗、9月:12勝14敗とそれほど悪い成績ではなかったりする。
だが、結果的には首位巨人相手に8勝16敗と負け越したのが大きく響き、12ゲーム差の2位に終わり、CSでも第2ステージで1勝4敗と、巨人相手に苦戦した形であった。
また2009年シーズン終了をもって、ドラゴンズの一時代を築いた井上一樹、立浪和義の2選手がファンから惜しまれつつ引退した。
昨年のトニ・ブランコに続き、助っ人外国人ディオニス・セサルを獲得。しかしネルソンが実弾所持により逮捕され出場停止処分、更に開幕直前に荒木雅博が故障で離脱、昨年ブレイクした藤井の出遅れなど、2年連続となる不安な幕開けとなった。
序盤は先発陣が不振だったが、和田一浩,森野将彦、中継ぎでは浅尾拓也,高橋聡文らが奮起し、そこそこ好調を維持していた。しかし5月以降は先発投手陣、外国人助っ人の不振、井端弘和の離脱が大きく響き、6月終了の時点で3位と苦戦を強いられたが、7月から風向きが変わった。
野手陣では若手の堂上直倫をはじめ、堂上剛裕、大島洋平、野本圭、岩崎達郎らが台頭。更に前半崩れかかっていた先発投手陣がついに復調し、7月16日から20日にかけてプロ野球新記録となる5試合連続完封勝利を記録。中継ぎ陣も前半同様に好調を維持し、お得意の「守り勝つ野球」を前面に出せる試合が増えていった。
8月に入ると、今度は中堅~ベテラン勢である荒木、小田幸平、谷繁元信、山本昌らが大奮起。上位2チームが夏バテで失速する中、中日のみ好調をキープし9月初旬には総力戦の末、遂に首位奪還に成功。 以降はそのまま首位を譲らず、一時期首位巨人につけられていた8ゲーム差をひっくり返す大逆転優勝を成し遂げた。
CSは初戦を勝ち抜いた巨人を相手に順調に勝ち星を重ね、4勝1敗(内、首位アドバンテージによる1勝)という安定した成績で勝利しCS制覇。
しかしこの勢いは日本シリーズまでは続かず、千葉ロッテには激闘の末2勝4敗1分で破れ、悲願である完全優勝(ペナント-日本シリーズ制覇)は夢と終わった。
チーム防御率は12球団トップの3.29、ホーム戦勝率7割5分という鉄壁な「守り」を誇った反面、チーム打率が11位の.259、アウェー戦の借金18、という貧弱な「攻め」が目立つ、非常に両極端なシーズンであった。
シーズン終了後、セサル,二軍監督川相昌弘が退団。後任に井上一樹が就任した。
新外国人としてジョエル・グスマン、エンジェルベルト・ソトを獲得。また横浜ベイスターズを戦力外になった佐伯貴弘を代打の切り札として獲得。しかし、高橋聡文が開幕前に故障、吉見一起とチェン・ウェインの両エースが開幕に間に合わず、マキシモ・ネルソンが開幕投手を務めたが、いきなり浅尾拓也が打たれてサヨナラ負けというまたしても不安な幕開けでスタートした。
この年は、前年貧打のチームを牽引した森野将彦・和田一浩が統一球の影響か、揃って開幕から大不振に陥り、類を見ないほどの圧倒的貧打に苦しめられることになった。ただ点が取れないとかそういうレベルではなく、そもそも相手投手が誰であろうともヒットすらまともに出ないという有様で、実に無得点試合が22試合、1得点の試合が30試合という惨憺たる状態であった。チーム打率(.228)、総得点(419)ともに12球団最下位、チーム首位打者が荒木雅博の.263、チーム打点王が和田一浩の54打点と笑うに笑えない数字ばかりが並ぶ。
投手陣こそ吉見とチェンが復帰、小林正人が左殺しとして活躍、浅尾が無敵のセットアッパーとして君臨し、岩瀬も前半戦不調ながらセーブの日本記録を達成するなど、リーグトップのチーム防御率で貫禄の安定感を誇ったものの、打線がこんな状態ではそうそう勝てるはずもなく、6月にはトニ・ブランコと谷繁元信が戦線離脱。我慢して使い続けたジョエル・グスマンは振るわず、平田良介や小池正晃、堂上剛裕らがアピールを見せたもののチーム状態を劇的に改善させるほどの力は無く、7月終わり頃には借金生活に突入。ヤクルトが独走する中、8月には5位まで沈み、ファンですらもうほぼ完全に諦めムードに入っていた。
8月半ばに谷繁が、8月終わりにブランコが復帰すると、チームはじわじわと上昇を始める。ブランコと谷繁の2人が4番・5番に座って、ここぞの場面で勝負強さを発揮。接戦に持ち込んで競り勝つといういつもの勝ちパターンが戻り、失速し始めたヤクルトを少しずつ追い上げはじめる。
だが、この追い上げムードを快く思わない者たちがいた。その正体はあろうことか、球団のフロントであった。もともと様々な事情から地元経済界での評判が良くない落合監督を辞めさせる機を伺っていたフロントは、首位ヤクルトに3.5ゲーム差と迫り、全勝すれば逆転首位という直接対決4連戦という天王山の直前、9月22日に落合監督の今季限りでの退任を突如発表する。
表向きの理由は3年契約の満了と観客動員の伸び悩みだが、球場に客を呼ぶのは営業の仕事であって、監督の仕事ではない。加えて外様のコーチたちも軒並みシーズン限りで解任されることになり、さらに坂井球団社長が敗戦時にガッツポーズをしていたという目撃証言まで現れる。
このチームを優勝させたくないとしか思えないフロントの妨害の数々に、選手たちが発憤する。直接対決でヤクルトを叩きのめし、10月6日についに単独首位に立つと、そのまま首位を譲らず、10月18日に球団史上初のリーグ連覇を達成した。最大10ゲーム差をつけられながら、我慢して我慢してシーズン終盤に照準を合わせての大逆転優勝は、まさしく8年間の落合野球の集大成とも言うべきシーズンだった。ちなみにチーム打率・総得点が12球団ワーストでの優勝は史上初である。
劇的なシーズン制覇ののち、巨人を1stステージで制した東京ヤクルトスワローズを迎えたクライマックスシリーズファイナルステージ、両チームの平均得点は中日が2.2、ヤクルトが1.6と投手戦となる。中日が初戦をエース吉見で取り、アドバンテージを含む2勝とするも、2戦目をチェン、3戦目を山井で落として2勝2敗のタイに持ち込まれる。ヤクルトはエース館山が1stステージ1戦目先発から中4日でファイナル2戦目に抑えとして登板、セーブを挙げたその後中2日で先発するなど、まさに捨て身の特攻を仕掛ける。それに対し4戦目を川井の好投で勝利し日本シリーズ進出に王手をかけた中日は、5戦目に吉見が中3日で先発し、館山と熱戦を繰り広げる。最後は井端の2ランホームランで試合を決め、4勝2敗で因縁のライバルとの激闘を制し突破する。
遂に迎えた日本シリーズ、圧倒的な強さで11球団に勝ち越す完全優勝を果たし、秋の風物詩も払拭した福岡ソフトバンクホークスと激突する。両者共にそれぞれのリーグを制したチームとして、周囲の期待も高まっていた。だがどうしても下馬評は「中日は1勝できれば御の字」という声が多く、ソフトバンクの圧倒的勝利かと思われた。
福岡で開幕した第1戦、中日は吉見でもネルソンでもなく、チェンをマウンドに送る。この奇襲とも思える戦法にソフトバンク陣営は困惑。チェンは先取点こそ許すが、その後は粘って11奪三振の快投を見せる。打線は和田毅に対して7回途中までヒットすら打てない状況であったが、和田一浩がホームランを打ち1-1の同点に持ち込み、試合は延長戦へ。10回、馬原孝浩から小池正晃がHRを打ち勝ち越し、2-1で初戦をものにする。中日の1勝。
第2戦も吉見対杉内の息詰まる投手戦となる。試合が動いたのは7回、中日は平田良介のあわやホームランのタイムリーで先制、ソフトバンクはその裏、川崎宗則のタイムリーで同点、またもや延長へ。中日は10回、馬原から森野がタイムリーで勝ち越し、最後は岩瀬が抑え、2-1で勝利、福岡で連勝し、2勝目。
名古屋に戻って摂津対ネルソンで迎えた第3戦、ソフトバンクは初回、松田のタイムリーで1点、4回に多村の2ランホームランで加点、8回には細川のソロホームラン、中日は6回井端のセカンドゴロの間に1点、8回荒木の犠牲フライでもう1点返すも反撃及ばず、2-4で敗北、2勝1敗。
第4戦はホールトン対川井、ソフトバンクは初回、小久保のタイムリーで先制、松田のセカンドゴロの間に2点目を挙げる。中日は5回、荒木のタイムリーで1点返すが、6回、無死満塁の絶好期に森福から1点も取れず、そのまま2-1で敗戦、2勝2敗のタイとなる。
第5戦は山田対チェンで始まるが、初回に小久保のタイムリーで1点、7・8回に加点され、0-5でまさかの名古屋3連敗、王手をかけられる。
福岡に戻った第6戦、吉見対和田毅の先発。初回、中日が和田一浩の2点タイムリー三塁打で先制、吉見は4回に内川のタイムリーで1点を返されるが、エースの粘りを見せ、7回途中8奪三振の好投。その後は岩瀬、浅尾と繋ぐリレーで勝利、逆王手をかける。
運命の第7戦、先発は山井対杉内、ソフトバンクは3回、満塁から押し出し四球で先制、4回には川崎、7回は内川のタイムリーで加点する。杉内は7回無失点に抑え、その後ファルケンボーグ、森福、摂津のリレーの前に中日打線は遂に力尽き、敗戦、日本一の夢は叶わなかった。なお、シリーズ史上ワーストの7試合9得点、チーム打率.155と、最後まで貧打であった。
就任8年で全てAクラス入り、リーグ優勝4回、日本シリーズ進出5回、日本一1回と紛れもなく黄金時代を築いた名将・落合博満は、悲願の「リーグ優勝からの日本一」だけは成し遂げられないまま、中日のユニフォームを脱ぐことになった。
浅尾拓也が中継ぎ投手として史上初のMVPとゴールデングラブを受賞。吉見一起が最優秀防御率、最多勝、最高勝率、ベストナインを獲得。谷繁元信、大島洋平がゴールデングラブを受賞した。
オフ、落合監督以下首脳陣がほぼ刷新され、高木守道新監督以下、中日OBだけで固めた陣営となった。楽天を戦力外になった山崎武司、ブレーブスから川上憲伸のOB2人を獲得。佐伯貴弘、河原純一らが戦力外となり、チェン・ウェインがメジャー挑戦のため自由契約となりオリオールズへ移籍。小池正晃がFAで古巣の横浜へ移籍し、小山桂司が楽天へ金銭トレードとなった。
補強は山崎と川上に加え、ビクトル・ディアスとサミー・ソーサの親族を自称するホルヘ・ソーサと目立つものではなく、チェン・ウェインの放出やベテラン主力陣の衰えへの懸念から戦力ダウンはやむなしと思われた。
それでもチェンの抜けた先発陣は若手の山内壮馬と岩田慎二が、浅尾の故障と岩瀬の不調があった中継ぎ陣はルーキー田島慎二、山井大介、ソーサが見事に埋め、序盤から相変わらずの投手力を背景に連勝、連敗を繰り返すやや不安定な内容ながらも首位をキープする。また野手でも大島洋平が上位打線に定着し、堂上剛裕が一定の活躍を見せるなど、落合政権時からの課題だった若手野手も台頭を見せた。
しかし夏場になると序盤苦しみながらも、セ・パ交流戦で勢い付いた読売ジャイアンツに一気に差を詰められ、6月29日~7月1日の直接対決で3タテを喰らい首位陥落。その後はオールスター直前に主砲ブランコが離脱したことも痛手となってなかなか差を詰められなかった。結局シーズン通して大きな失速も無く、3位のヤクルトも大きく引き離し、前年を上回る勝率.586を叩き出しながら巨人の独走を許したままセ・リーグ3連覇を逃した。
吉見一起、エンジェルベルト・ソトと先発の柱がシーズン終盤に相次いで離脱し、クライマックスシリーズを先発が手薄なまま迎えることに。ファーストステージは2勝1敗でヤクルトを退けるも、ここで更に中田賢一が離脱。ファイナルステージは大野雄大、伊藤準規といった実績の少ない若手、2010年の日本シリーズからポストシーズン無安打が続いていた谷繁元信、シーズン通して不振だった森野将彦がようやく打ち出して3連勝、下馬評を覆しこのまま突破かと思われたが、後半からは先発の駒不足のためにファーストステージから登板過多になっていた中継ぎ陣に疲れが見えはじめ、そこを調子を取り戻してきた巨人打線に捉えられはじめる。1敗した後、よりによって肝心要となった第5戦で投手起用法を巡って高木監督と権藤コーチのおじいちゃん2人が喧嘩を始め(なお、この2人の喧嘩はレギュラーシーズン中にも度々見られた)みすみすサヨナラを許し、続く最終戦も勢い付いた巨人に及ばず、3勝4敗(うち1敗は巨人のアドバンテージ)とあと一歩のところで日本シリーズ出場を逃した。
オフ、トニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサの外国人が3人揃って横浜DeNAベイスターズへ移籍した。英智と小笠原孝が現役を引退、平井正史、マキシモ・ネルソンらが戦力外となった。
井端弘和がワールドベースボールクラシックで活躍し、指名打者部門でベストナインを受賞したが、チームはオープン戦で4勝14敗2分で最下位と暗雲が立ち込めた状態でシーズンを迎えた。
レギュラーシーズンに入ると、11年ぶりの開幕2連敗。前述の通りWBCでは大活躍だった井端も絶不調で、4月は最下位に転落。しかし、新外国人のエクトル・ルナが5月末まで打率3割後半~4割前半の高打率を維持。投手陣では大野雄大、新外国人のダニエル・カブレラがローテーションを守り、岡田俊哉、武藤祐太、田島慎二が中継ぎ陣を牽引、DeNA・広島との3位争いとなる。しかし、カブレラが肋骨骨折、ルナが膝を痛め2軍落ち→帰国するなど、思うように勢いづかず。不調の荒木に代わり、森野をセカンドでスタメン起用するなどテコ入れを図ったが、8月中旬に4位に転落する。そして、9月25日の広島戦で2001年以来のBクラスが確定。最下位は免れたがセ・リーグ全球団に負け越した。
契約満了により高木守道が辞任。前監督の落合博満が球団新設のGMに就任。新監督には現役捕手の谷繁元信が就いた。
山崎武司が現役を引退。マット・クラーク、井端が自由契約となった。
詳細はプロ野球2014を参照
詳細はプロ野球2015を参照
詳細はプロ野球2016を参照
詳細はプロ野球2017を参照
詳細はプロ野球2018を参照
詳細はプロ野球2019を参照
詳細はプロ野球2020を参照
詳細はプロ野球2021を参照
詳細はプロ野球2022を参照
詳細はプロ野球2023を参照
詳細はプロ野球2024を参照
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順位シーズン最高成績(チーム)シーズン最低成績(チーム) |
他打者 | |
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チャンステーマ1(狙いうち) | |
チャンステーマ2 (Get The Victory) |
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チャンステーマ3 | |
チャンステーマ4 |
掲示板
1800 ななしのよっしん
2024/12/20(金) 22:14:22 ID: GCOOpNqrou
だからこそ横槍入りながらも一定の結果を出した落合ドラフトは今となっては有能だったなってなるわけ
ちゃんと落合の意というかやりたいように裁量権与えられてやってたらあと二回くらいはAクラスに入れただろうなと思うともったいなくてたまらない
1801 ななしのよっしん
2024/12/28(土) 12:15:41 ID: DeEhXsyDB/
中日って編成権の扱いをどうするのが正解なんだろう?
全権監督→星野や落合といった成功事例はあるが、立浪は大失敗
GM制度→落合GMと谷繁監督が真正面から衝突、フロントにまで内紛が広がり、球団にガチの脅迫状が届く事態に
全権監督にすれば監督が暴走した際に歯止めが効かないまま滑り落ちるし、
かと言ってGM制度は内紛が酷過ぎて野球どころではなかったし
1802 ななしのよっしん
2025/01/07(火) 22:31:36 ID: B8PwXwk7q+
野手陣は思ったより希望持てるけど先発ローテがなあ
高橋宏斗は素晴らしいけど出場遅れたにも関わらず後半は不調気味でシーズン完走する体力はなさそうだし柳復調してくれないと困るし涌井は球速落ちてないけど年が年だし松葉は不安定だし松木平は信用難しいし
ルーキー金丸は腰やってるし草加仲地は怪我明けどうか、大野は厳しそうだし
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
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