古川清蔵(ふるかわ せいぞう)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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古川清蔵 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県鹿児島市 |
生年月日 | 1922年3月4日 |
没年月日 | 2018年10月17日 |
身長 体重 |
170cm 65kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手、捕手 |
プロ入り | 1941年 |
引退 | 1959年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
鹿児島県立第二鹿児島中学校から鹿児島商業学校を経て、八幡製鐵所に入社。
1942年、経験のある捕手がいなかったことから、本職ではない捕手を任され、101試合に出場。5月の大洋軍戦では延長28回まで及んだプロ野球史上最長試合でマスクをかぶり、7月の阪急軍戦では西沢道夫とバッテリーを組み、ノーヒットノーランを達成してる。同年は、打率.216、8本塁打、44打点、14盗塁を記録し、本塁打王のタイトルを獲得。
1943年、藤原鉄之助に正捕手の座を譲り、外野手に復帰。同年は4本塁打を放ち、2年連続で本塁打王のタイトルを獲得。
1943年シーズンオフに応召を受け退団。第二次世界大戦終結後に復員し、職業野球東西対抗戦に出場。
1946年、中日に復帰。同年は打率.259、9本塁打、52打点、23盗塁を記録。1947年には11本塁打を放っている。
引退後、妻の父親が日本中央競馬会の調教師を務めていた伊藤勝吉であった縁から、競馬評論家として活動をはじめ、長きに渡って活動。顕彰馬の投票券を所有していた。また、野球解説者として活動していた時期もあった。
強打と俊足を武器に活躍した外野手。パワーヒッターというタイプではなかったものの、戦前の超投高打低時代に本塁打王を2度獲得している。
通算370盗塁は、盗塁王を獲得できなかった選手の中で最多の記録である。
古川の死により、戦前に日本プロ野球を経験した人物が全て鬼籍に入ることになった。
通算:17年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1698 | 6439 | 5715 | 796 | 1419 | 97 | 617 | 370 | 95 | 12 | 582 | 34 | 652 | 56 | .248 | .321 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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