杉山悟(すぎやま さとし)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
---|---|
杉山悟 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県豊田市 |
生年月日 | 1926年1月1日 |
没年月日 | 2009年3月27日 |
身長 体重 |
180cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1948年 |
引退 | 1960年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
岡崎中学に進学。岡崎中には上級生に近藤貞雄がおり、一緒にバッテリーを組んだこともあった。その後兵役を経て、岡崎中のコーチとして活動。
中学卒業後、ゆたか産業に入社し、軟式野球部に入部。パワーのある打撃で活躍していたところ、「三河にポンポンと球を飛ばす男がいる」という噂が中日ドラゴンズのスカウトの耳に入り、1948年、中日に入団することになった。
初年度から外野のレギュラーに定着し、三振数こそリーグワーストの86をきろくしたものの、持ち前のパワーで11本塁打を放った。
1949年、ラビットボール導入に伴い球界全体で本塁打が大幅に増加。杉山もその恩恵を受け31本塁打をマークした。
その後やや低迷した時期があったが、1952年には序盤から本塁打を量産、中盤以降ややペースは落ちたが、終わってみれば打率.306、27本塁打、84打点をマークし、初の本塁打王のタイトルを獲得。ベストナインにも選出された。
1954年、打率.273、28本塁打、91打点の成績を残し、打点王とベストナインのタイトルを獲得し、チーム初の優勝にも大きく貢献した。ただ、日本シリーズ第1戦目に西鉄ライオンズの西村貞朗から頭部に死球を受け、その後の試合は欠場した。
日本シリーズでの死球後、インコースの球に腰が引ける癖がついてしまい以降成績は下降線をたどる。それでも1956年の日米野球では本塁打を放つなど、要所での長打力は健在であった。
1958年、入団以来続けていた二桁本塁打がストップし、この年限りで中日を自由契約となる。
その後、国鉄スワローズに移籍。しかし、わずか29試合に出場にとどまり1年限りで再び自由契約となる。
翌1960年、近鉄バファローと契約。選手層の薄さから出場機会は多く与えられたものの、打率.210、4本塁打、11打点と結果を残せず、同年限りで現役を引退した。
引退後、中日や東映フライヤーズで長くコーチを務めた他、ラジオの解説者として活動したこともあった。
豪快なスイングから本塁打を量産した長距離砲。安定感を欠く面こそあったものの勝負強い打撃でチームに貢献していた。
当時としては長身の選手だったことから「デカちゃん」の愛称で親しまれていた。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1391 | 5198 | 4762 | 593 | 1184 | 209 | 698 | 105 | 18 | 16 | 377 | 24 | 789 | 93 | .249 | .307 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。