小野和義(おの かずよし)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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小野和義 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県宇都宮市 |
生年月日 | 1965年11月13日 |
身長 体重 |
179cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
引退 | 1997年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
創価高等学校に進学。チームのエースとして、3年夏にはチームを初の夏の甲子園大会出場へ導くなど活躍し、プロ球団からも関東No.1左腕として高い評価を得ていた。
1983年ドラフト会議にて、南海ホークス、日本ハムファイターズ、近鉄バファローズから1位指名を受け、近鉄が交渉権を獲得し、同球団に入団。同期入団には吉井理人、村上隆行、光山英和、安達俊也などがいた。
1984年、高卒ルーキーながら登板機会を得て、24試合に登板。2勝3敗1セーブ、防御率5.29という成績を残す。
1985年、先発投手としての登板機会を増やし、39試合に登板して3勝を挙げた。秋のキャンプではチェンジアップを習得し、投球の幅が広がった。
1986年、開幕から先発ローテーションに定着すると、両リーグ最速で10勝に到達し、オールスターゲームにも初出場を果たした。ただ、後半戦は失速し打ち込まれる場面も目立った。最終的にパ・リーグ最多の30試合に先発し、14勝11敗、防御率5.02という成績を残したが、パ・リーグワーストとなる41被本塁打、116失点を記録するなど課題も残した。
1987年、2年連続でパ・リーグワーストとなる36被本塁打を記録したが、11勝を挙げ、防御率も4.07と改善。オールスターゲームでは優秀選手賞に選ばれた。
1988年、同年も先発として活躍し、優勝をかけた10.19と呼ばれたダブルヘッダー第1戦目では勝利投手になり、優勝の可能性をつなぎとめた。最終的には10勝10敗、防御率2.59と失点を減らすことに成功した。
1989年、12勝を挙げ、8月の月間MVPに選ばれるなど活躍。防御率も3.39と安定した成績を残し、パ・リーグ制覇に貢献したが、終盤に肘を故障し離脱。日本シリーズでは登板機会を得たが、打ち込まれてしまっている。シーズン終了後、肘の手術を決断。
1990年は手術の影響で3勝どまりだったが、翌1991年には復活を果たし、12勝を挙げてカムバック賞を受賞した。
しかし、1992年は開幕投手を任されたものの0勝、防御率9.24。1993年、1勝、防御率8.38と不調に陥る。シーズン後、自由契約となり、西武ライオンズへ移籍。
西武では移籍後、先発投手として復活し、1994年・1995年と2年続けて7勝を挙げた。しかし1996年、肘の故障が再発し、0勝に終わる。
1997年開幕前に金村義明とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。しかし、怪我が癒えること無く、同年限りで現役引退。
引退後は近鉄や西武、東北楽天ゴールデンイーグルスで投手コーチを務めた。
現在は西武の球団本部チーム統括部編成グループプロ担当を務めている。
キレのあるストレートと、フォークボールに加え、タイミングを外すようなカーブやチェンジアップを武器に活躍した左腕。
打ち込まれる場面も目立ったが、ゲームを壊さないよう粘り強く投げ続け、勝利を呼び込む勝ち運と打たれ強さも持ち味であった。
現役時代は、元日であっても練習に励むストイックな選手でもあった。
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 284 | 64 | 13 | 82 | 78 | 4 | --- | .513 | 1445.1 | 525 | 1005 | 719 | 647 | 4.03 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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