服部受弘(1920年2月23日~1991年12月6日)とは、中日ドラゴンズの永久欠番選手である。
黎明期のプロ野球において、主に捕手・投手・三塁手といったポジションで活躍した。
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岡崎中学校時代は1~4年で捕手で、5年時に投手となる。のちに入団することになる名古屋軍からは岡崎中学以前から目を付けられており、授業料の援助も受けていた。
1939年に名古屋軍に入団すると、強肩強打の捕手として活躍し、41年にはバットやボールも劣悪な素材で、ほとんどの選手がボールを飛ばすことが出来ない中で8本塁打を放って本塁打王に輝いている。(球団全体では13本塁打のため、服部一人で半分以上を記録したことになる)
ちなみに2位は怪力で鳴らした岩本義行の7本塁打で、その後に川上哲治、吉原正喜、白石敏男が4本塁打で続く。
しかし時は第二次世界大戦の真っただ中、服部は翌年から応召されている。
兵役では桜田門から半蔵門にかけての警備を担当した。
戦争が終わった後は一時期阪急にも所属していたが、46年に中日に復帰。
かつては捕手としての出場がほとんどだったが、戦後で選手不足という事情もあって投手も兼任することになる。
捕手を務めていたこともあってスピードは速く、さらに縦のカーブの他に横のカーブを独自に練習して習得し、この年いきなり14勝を挙げている。(この横のカーブは現在でいうスライダーの様なもの)
49、50年はそれぞれ24勝、21勝で2年連続で20勝以上を達成し、52年の8月2日の巨人戦では、2-5の3点ビハインドの6回表、満塁の場面で代打に起用され、別所毅彦から逆転満塁ホームランを放ち、そのままマウンドに上がって勝ち投手になるという偉業を達成。
53年は初めて未勝利に終わったが、翌54年は6勝を挙げてチームの優勝及び日本一に貢献した。
56、57年は兼任コーチを務め、58年には兼任助監督に就任するが、チーム内の派閥闘争に嫌気がさしてこの年限りで現役を引退した。
60年3月20日には引退試合が行われ、代打で右飛。また背番号10は中日ドラゴンズの永久欠番となった。
しかし杉下茂によれば、彼と西沢道夫の永久欠番は二人を引退させるための「妥協点」だったようだ。
77年には一年限りで中日の二軍監督を務めている。背番号はもちろん「10」。
91年12月6日、心不全のため71歳で亡くなった。
入団時、名古屋軍には三浦敏一というレギュラー捕手がおり、守備面では三浦に劣っていたが、打撃を買われて三浦を一塁に押しのけてレギュラーの獲得に成功。また、三浦がよくノートを付けている点を見て、服部もそれを真似ている。
守備位置別出場試合は投手259、捕手173、三塁手73、一塁手27、外野手22、二塁手1、ほかに代打などで300試合に出場しており、どのポジションでも好守備を見せたが、唯一守っていない遊撃を含め、二塁、中堅といった所謂センターラインは足が遅いため苦手だったという。
通算:10年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 259 | 102 | 15 | 112 | 65 | -- | -- | .633 | 1576.1 | 409 | 540 | 615 | 492 | 2.81 | 1.20 |
通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 855 | 2065 | 1867 | 207 | 447 | 33 | 208 | 61 | 23 | 2 | 167 | 6 | 198 | 22 | .239 | .304 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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