井上登 単語

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井上登とは…

  1. 弁護士NPB2代目コミッショナー。日本野球殿堂入りしている。
  2. プロ野球選手。現役時代は中日ドラゴンズ南海ホークスで活躍。

このでは、2.について

井上登いのうえ のぼる)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1934年5月26日生まれ。愛知県宝飯三谷町(現:蒲郡市)出身。

岡崎高等学校に進学。1学年上には中日ドラゴンズで活躍する石川克彦らがいた。チームの中心選手として活躍したが、2年時の県大会準々決勝敗退が最高成績であり、甲子園大会には手が届かなかった。

1953年名古屋ドラゴンズ入団。

入団2年1954年セカンドレギュラーに定着すると、129試合に出場して、打率.270、34打点、22盗塁、18犠打記録し、セ・リーグ制覇に貢献。日本シリーズでは第7戦河村英文から決勝打となるタイムリースリーベースを放ち、日本一にも大きく貢献した。

1955年打率.284、4本塁打、42打点、13盗塁、13犠打記録し、ベストナインに選出された。ベストナインには同年から1958年まで3年連続で選出され、引退までに4度選出されている。

1956年打率.271、9本塁打、48打点記録。同年、初めてオールスターゲームに出場している。

以降も不動のレギュラーとして活躍。1957年に17本塁打記録すると、翌1958年にはキャリアハイとなる18本塁打記録1960年にも16本塁打記録している。

1961年高木守道の台頭もあり、ファーストにまわり、キャリアハイとなる打率.293記録

1962年、トレードで南海ホークスへ移籍。南海では岡本伊三美がいたこともあり、外野手としてプレー

移籍初年度の1962年打率.289、6本塁打、60打点、18盗塁記録。翌1953年には14本塁打記録している。1964年頃から徐々に出場機会が減少し、代打での起用が中心となっていった。

1967年中日に復帰したが、14試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退

引退後、古巣の中日で打撃コーチや守備コーチなどを務めた。

中日退団後は解説者として活動。

2012年5月5日脳出血のため死去。享年77歳。

人物・エピソード

巧みなバットコントロール安打を量産したヒットメーカー。特にシュートを打つことを得意としていた事から、『シュート打ちの名人』と呼ばれた。対左投手や大舞台でも抜群の強さを見せていた。

憧れの選手は西沢道夫であり、入団時に与えられた背番号51を「西沢さんの背番号15の逆だから縁起が良い」と着を持ち、現役時代、中日在籍時には常にこの番号を使用していた。

通算成績

打撃成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1506 5484 4980 562 1322 111 570 151 88 36 348 32 511 101 .265 .315

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