大矢根博臣(おおやね ひろおみ)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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大矢根博臣 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 香川県三豊郡 |
生年月日 | 1935年7月1日 |
身長 体重 |
174cm 69kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1954年 |
引退 | 1962年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
観音寺第一学校に進学。ただ、高校時代は腰痛に悩まされたことに加え、同地区に後にチームメイトとなる松山商業の空谷泰(児玉泰)がおり、甲子園大会出場は叶わなかった。
卒業後の進路は大学進学を希望していたが、中日ドラゴンズのスカウトが熱心に大矢根の父親を説得し、中日に入団を決めた。また、ライバルの空谷も壮絶な争奪戦の末、中日入りを決めている。
初年度は二軍で経験を積み、シーズン終盤に先発登板し、完封勝利でプロ初勝利挙げた。同年は2勝を挙げている。
1955年、先発での起用が増え、6勝5敗、防御率1.55と好成績を残した。
1956年、エースの杉下茂から「決め球を作れ」とアドバイスを受け、今で言うツーシームのようなシュートを習得。球種が増えたことで投球の幅が広がり、中山俊丈とともに先発ローテーションの中心として活躍。シーズン中には球団記録となる40回1/3の連続イニング無失点記録を樹立し、この記録は2020年に大野雄大が更新するまで64年間に渡り球団記録であった。最終的には20勝13敗、防御率1.53と飛躍の一年となった。
1957年、肘を故障した影響で12勝7敗、防御率2.29と前年より成績を落としたものの、10月の大阪タイガース戦ではノーヒットノーランを達成した。
1958年、それまでのストレート中心の投球からシュートを中心に組み立てる技巧派に転向。これが見事にハマり復調、オールスターゲームに出場した。最終的にはキャリアハイとなる24勝13敗、防御率はセ・リーグ3位の1.61をマークした。
1959年、キャンプ中に腰を痛めた影響で5勝止まりに終わる。
1960年、オールスターゲームに出場するなど復調し、15勝13敗と好成績を残した。この頃「1年おきのエース」と呼ばれていた。しかし同年オフに交通事故を起こし同乗していた女性が死亡。この事故で精神的ショックを受け、「名古屋にいられない」とトレードを志願。西鉄ライオンズへトレードで移籍する事になった。
ただ、移籍先の西鉄では本来の輝きを取り戻せず、2シーズンで2勝に終わり、1962年限りで現役を引退。
引退後は野球解説者や中日ドラゴンズOB会副会長を務めた他、クラブを経営していたという。
切れ味鋭いスライダーと快速球に加え、ツーシームのような軌道のシュートを混じえて勝負した右腕。若手時代は速球派であったが、キャリアに中旬から技巧派にスタイルを変えている。
体の突っ張りをなくすために左肘を前に出す独特なフォームが特徴的であった。
通算:9年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 247 | 71 | 23 | 86 | 56 | --- | --- | .606 | 1296.2 | 297 | 587 | 358 | 306 | 2.12 |
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最終更新:2025/06/21(土) 08:00
最終更新:2025/06/21(土) 07:00
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