金村義明(かねむら よしあき、1963年8月21日-)とは、兵庫県出身の野球漫談家・お笑い芸人元プロ野球選手(投手・内野手)である。
現役時代は「いてまえ大将」の異名をとり、近鉄バファローズ、中日ドラゴンズ、西武ライオンズで活躍。引退後は野球評論家として解説活動や評論活動の他、現役時代の体験談を語るタレントとしても活動する。
OB | |
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金村義明 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県宝塚市 |
生年月日 | 1963年8月21日 |
身長 体重 |
185cm 90kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1981年 |
引退 | 1999年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
兵庫県宝塚市のさほど裕福ではない在日朝鮮人の家庭に生を受ける(関連商品参照、現在は日本に帰化している)。父親はダンプの運転手、母親はヤクルトの配達員からゴルフのキャディを経て金村のプロ入り時の契約金を元手に焼肉店を開業していた。
1974年センバツで報徳学園が優勝したのに憧れ、父の反対を押し切って報徳学園高校に入学。2年夏の後の新チームになってからめきめき頭角を現し投打に優れたチームの柱となるも、1981年センバツでは槙原寛己擁する大府高との投げ合いに敗れ初戦敗退。このときの槙原の投球を見て、投手としてのプロ入りを断念。結果としてプロ入り後打者転向への布石となった。
その後、投球スタイルを本格派の力で押すスタイルから打者の打ち気を交わす技巧派に切り替え、結果として夏の甲子園では地区大会1回戦から甲子園決勝まで13試合全試合完投勝利(戦後2人目)で優勝を果たす(ちなみに同大会で対戦したライバルに工藤公康や一学年下だったが荒木大輔がいた)。
甲子園を終えた後に国際大会に出場し、試合は散々だったが帰国後も散々。韓国でおいたをし、泌尿器科のお世話になった際、別件でマスコミが殺到している中病院を受診し「すわ、甲子園優勝投手がケガしたか」と大騒ぎになる中、泌尿器科の看護婦に診察室へと呼び出され待合室中ドン引きしてしまうということがあったという。この話は今でも金村の定番ネタとなっている。
もちろんプロからも注目を集め、実家の近所にあった長池徳士(のお屋敷)や福本豊に憧れるなど、幼少期からのファンであった阪急ブレーブスと相思相愛でスカウト交渉を進めていたが、近鉄のスカウトから「前年読売ジャイアンツに入団した原辰徳並みの契約金・年俸を出す」「東大阪市花園に(老朽化した藤井寺球場・日本生命球場に替わる)新球場を作る」などの条件提示を受けた金村は、「これならより親孝行できるなあ」とドラフト指名を承諾。
その結果1981年ドラフト会議で阪急と近鉄の重複指名となり、抽選の結果近鉄が引き当て、ドラフト1位で入団した(ちなみにこのときの近鉄の入団交渉は先のスカウトの条件を反故にされたこともあってもめにもめたのだが、これも現在の金村の定番ネタとなっている)。抽選に敗れた阪急は山沖之彦を1位指名し、結果的に両球団にとって最良の結果となるドラフトとなった。
プロ入団後即打者に転向、当初は一軍でなかなか成果を出せなかったものの二軍ではそこそこ活躍しており、入団1年目に横浜スタジアムで行われたジュニアオールスターゲームでサイクルヒットを達成するなど大器の片鱗を見せつけてはいた。1984年にOBのヨッシャー佐々木恭介が二軍打撃コーチに就任するとその指導で開花の兆候を見せ、1985年には一軍でも打席数こそ少ないながら3割近い数字を残した。
そして迎えた1986年シーズン、開幕2戦目にサードでスタメン出場するとそのままレギュラーの羽田耕一を押しのけて定着、130試合全試合出場を果たし打率.275、本塁打23本、67打点の好成績を残した。本塁打23本はチームの日本人打者としてはトップであり、シーズン終盤にはリチャード・デービスの後の5番打者を任されるまでになった。
1987年も全試合出場は果たしたものの成績は前年より大幅に落ちた。
1988年は成績こそ盛り返したものの欠場が増え、シーズン終盤には手首骨折で離脱してしまい、伝説の「10.19」川崎ダブルヘッダーには出場出来なかった(しかし、仰木の計らいでスタジャンを着たうえでバットケースの裏に隠れて野次ってたそうな)。
1989年はシーズン初スタメンが6月と、完全に出遅れてしまうものの、この年チームは優勝を果たし、それをグラウンドで見届けることができた。巨人との日本シリーズにも全試合出場するも、個人成績は何一つ光るところのない苦いシーズンとなってしまった。
1990年から3年間は100試合以上(1991年は全130試合)出場を果たし成績も復調するが、1993年、1994年と故障で出場機会が減少してしまう。特に1994年、金村の故障中に抜擢された中村紀洋を鈴木啓示監督と梨田昌孝作戦担当コーチが重用したこと、また鈴木の指導方針や選手会長として長年交渉し続けてきた球団上層部に対して募りに積もった不信感、そしてそのタイミングで星野仙一から誘われたこともあり、金村はこの年のオフFA権行使へと舵を切り中日ドラゴンズへと移籍した。金村の名誉のために書いておくと、打数こそ少ないものの打率.299という数字を残していた。
1995年はサードで開幕スタメンの座を掴むものの、不振と故障であっという間に一軍から消えた。翌1996年は新外国人としてサードを守るダネル・コールズを獲得したため、完全に代打要員としての起用となった。オフに中日と契約更改したものの、翌1997年シーズン開幕直後にかつて近鉄で同僚だった小野和義との交換トレードという形で西武ライオンズに移籍することとなった。控え選手として重宝され、打数は少ないながらも生涯唯一の年間打率3割超えを果たすも、翌1998年は成績が急降下。この年西武は球史に残るデッドヒートを制してリーグ優勝を果たし、横浜ベイスターズとの日本シリーズでは「若手に出番を与えたい」と控えとして起用されたが出番は少なく、横浜が王手をかけて迎えた第6戦9回表、横浜の抑え・佐々木主浩を攻めたてて1アウトから1点を返した直後、なおも1塁2塁という場面で代打出場。しかし、初球セカンドゴロ併殺打に倒れ、横浜38年ぶりの日本一を決めた打者となってしまう。
1999年に現役引退。最後の打席も薮田安彦のフォークに詰まってセカンドゴロ併殺に倒れ、バットを置いた。なお、引退試合となった千葉ロッテ戦は全イニング出場させる予定だったが、金村の方から断っている。
なお、金村は佐々木の他、入団時コーチでのちに監督としてリーグ優勝まで導いた仰木彬や同じく打撃コーチからヘッドコーチになった中西太を師と仰いでいる。1991年には試合中にこの日登録されていた捕手3人をすべて使い切ったため、急遽捕手として起用されたこともある。
ただし生涯二度(先述のジュニア・オールスターと1986年7月17日の対阪急戦(西宮球場))サイクルヒットや6度の二桁本塁打を記録している反面、「最後のサムライ・パリーグ選手」と言われるほど豪放磊落な生活ぶりだったこともあってか、成績面(特にシーズン打率3割は後述した通り1997年の一度きり、それも代打・併用起用で152打席と規定打席とは程遠かった。なお、プロ生活18年間のうち規定打席到達は5回あるものの、規定到達での最高打率は1986年に記録した.275である)では羽田や中村のほか、同時期の近鉄の主軸打者である石井浩郎、鈴木貴久や村上隆行などを超えられず、引退後本人も「成績は一流ではなかった」と認めている。
引退当初、野球解説者を志すもどこからも声がかからず、芸能事務所としてあの「かつて報道ステーションの司会として鳴らした、あのお方」の事務所を受けるも「どこの馬の骨ともわからんやつを連れてきやがって」「うちは少数精鋭の実力主義なんだよ」と言い放たれたりと、かなり苦労したという。その後週刊プレイボーイの取材に同行させてもらえたのを皮切りに、ほぼ持ち出しで全球団のキャンプ地を訪問、その時解説者としての契約がもらえなかったので「野球人」金村義明としての活動を開始している。「現場主義」を貫いており、今現在でも毎年春季キャンプは全球団のキャンプ地を訪問している。
数年持ち出しで野球人活動が続いたものの、ジャンクSPORTSに出演した際のトークの実力を評価され関西テレビ並びにフジテレビとの解説者専属契約(~2017)を結び、野球漫談芸人評論家としての道をあゆみ、2001年からJSPORTSの「ガンバレ日本プロ野球!?」(2018年に復活)や「FNNスーパーニュースアンカー」(関西テレビ)を皮切りに各種解説活動、スポーツ報知での評論家を兼ねながら講演活動も行い、2015年4月からはMBS毎日放送とも付き合いはじめ2017年秋からプロ野球ストーブリーグ枠ではあるものの初めて冠番組「金村義明のええ加減にせぇ」を持つにいたり、2018年秋にセカンドシーズンとして同番組をスタートさせた。
ちなみにトークスタイルとしては・・・
中根仁「金さんは言えない話をテレビで言っちゃうからなあ~」
佐野慈紀「あのひとは小さいことでもこーんな大きくいっちゃうから、話の尻ぬぐいが大変」
佐伯貴弘「いろんな話を膨らまして、すぐ自分の話にもってって、しかも結論がない。」
という評価はあるものの、番組の企画で行われた「姫路・明石・加古川 ご当地自慢バトル」でなぜか「全く関係ない高砂のお店を推しまくり、その場の空気を全部持ってった」のが縁になり、2017年から「高砂応援大使」を務めている(元々姫路に行くことが多く、姫路の店と勘違いして紹介してたもよう。ちなみに現在まで高砂に住んだこともなく、現在は東京都杉並区で犬のアロン君とご家族とともに住まわれている)。
2018年5月よりニコニコチャンネルで「金村義明チャンネル」を開設、先述の冠番組の無くなった分の代替として活動していく予定である。
通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1262 | 4204 | 3643 | 466 | 939 | 158 | 18 | 127 | 487 | 34 | 73 | 33 | 430 | 25 | 752 | 85 | .258 | .337 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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