金鯱(きんしゃち、きんこ)とは、主に日本の城郭の屋根上に掲げられる構造物である。
いわゆる「しゃちほこ」の一種で、表面に金箔や金板を貼り付けて金一色に仕上がった「しゃちほこ」のこと指す。なお、「しゃちほこ」については、こちらの記事が詳しいので割愛する ⇒ 「鯱鉾」
主に日本の城郭でよく見ることができる建築物で、天守閣最上階の屋根上に掲げられることが多い。一般的に広く知られている金鯱は、名古屋城大天守にある金鯱である。現地では、「金鯱」と難しい漢字表記を避けるために、「金シャチ」または「金しゃち」と案内されることが多い。
そのほか、安土城、大阪城、江戸城、駿府城、伏見城にも金鯱があったとされる。
ちなみに一番最初に造られた金鯱は、安土城天守の金鯱か大阪城(大坂城)の金鯱が有力な説とされている。
一般的には「金鯱」という言葉は、「しゃちほこ」(鯱鉾)と同等の意味と捉えることが多いが、厳密には間違いである。
そもそもしゃちほこは、金板以外にも福井県の丸岡城のように石でできたしゃちほこなどが存在しており、これら金を使用していないしゃちほこを含む全てのしゃちほこを指す場合に「しゃちほこ」という言葉が使われる。
一方で「金鯱」は、しゃちほこの中の1ジャンルという立ち位置であり、名古屋城の金鯱のように金箔や金板を使用したしゃちほこのことを指すときに「金鯱」という言葉が使われる。
この意味合いの違いについては、お城ファンの間でたびたび論争となることがある。
ここでは、名古屋城の金鯱について解説する。(※また、現地での案内表記に従い、文章内では「金シャチ」の表記に統一する)
名古屋城の金シャチは江戸時代の1612年(慶長17年)に創建した当初から雄、雌の一対が造られて、大天守屋根上に掲げられた。創建当時の大きさは、雄が約2.58m、雌が約2.52m。うろこの枚数は雄が194枚、雌が236枚であった。使われた材木はサワラ材で、これを寄木造りにして心木とした。それを鉛で覆い、銅で裏打ちされた金板をうろことして銅製のくぎで打ち付けている。「金城温古録」という江戸時代に名古屋城を詳細に記録した文献によると、使った金はおよそ320kg、当時流通していた慶長小判に換算すると17,975枚分になる計算であった。
しかし尾張藩の財政が厳しくなると、金シャチのうろこをはがして小判に改鋳するという大胆な行動に出た。この大胆行動は1730年(享保15年)、1827年(文政10年)、1846年(弘化3年)の3回実施された。この影響によってうろこの金板が薄くなり、うろこが重なる部分が少なくなったために隙間から雨水が金シャチ内部に浸透していき心木を腐らせてしまう結果となった。このために、木材をサワラ材からヒノキ材へと全面交換している。
明治になると、名古屋城の金シャチは波乱の時を過ごすことになる。明治維新後に名古屋藩知事となった徳川慶勝は、金シャチを無用の長物として皇室に献上することを申し出て、新政府内で議論の末、決定された。1871年(明治4年)4月に金シャチは大天守から降ろされ、船で堀川を進み、熱田で蒸気船に乗せ換えて東京に運ばれた。皇室に収められた。
その後は一対とも大切に保管されていたが、1872年(明治5年)3月10日に日本初の博覧会が東京・湯島聖堂で開催され、そこに雄の金シャチが展示された。その後も日本全国に雄の金シャチが飛び回り、東本願寺名古屋別院、金沢の兼六園、大分など各地の地方博覧会に展示された。
一方で雌の金シャチは、1873年(明治6年)に船で海を越えてヨーロッパへ出向き、オーストリアのウィーン万国博覧会に出品展示された。現地では好評を呼び、一躍日本パビリオンでの目玉展示となった。
そんな中、金シャチのふるさとである名古屋では、金シャチを大天守に戻す運動が活発化した。1878年(明治11年)には伊藤次郎左衛門、関戸守彦、岡谷惣助ら名古屋の資産家が代表して、宮内省(現 宮内庁)に打診。経費は有志が負担することを条件に金シャチを名古屋城大天守に戻すことを願い出た。同年9月4日に宮内省はこれを許可し、先に雄の金シャチが10月9日に船で帰郷を果たした。そして雌の金シャチも同様に船で運ばれ、10月20日に帰郷を果たした。雌の金シャチは船で運搬中に39か所の傷が付いてしまったため、約10日間かけて修復作業が行われた。
そして1879年(明治12年)2月、ついに名古屋城大天守にそろって帰還を果たしたのだった。天守から降ろされた後、帰還を果たすまで約8年ぶりのことであった。
しかし、名古屋城の金シャチにとって最大にして最悪のピンチを迎える。時代は昭和になると第二次世界大戦、太平洋戦争が勃発する。名古屋もアメリカ軍による空襲に見舞われ、名古屋の街が炎に包まれた。名古屋城も例外ではなく、1945年(昭和20年)5月14日に名古屋城に焼夷弾の雨が直撃した。この時の金シャチは疎開計画の決行最中で大天守屋根から降ろす作業を行っていたが、不運にも作業途中で焼夷弾が足場にかかってしまい、大天守もろとも炎の海に落ちたのだった。
終戦後、名古屋城を再建する計画が決定し、1957年(昭和32年)に起工。並行して、金シャチの復元も進められた。復元するにあたって耐久性が考慮され、心木に当たる部分をブロンズ製にすることを決定した。そして金シャチのうろこである金板は大蔵省造幣局の局員が行うことが決定した。こうして復元された金シャチは、雄が高さ約2.62mでうろこ112枚、雌は約2.58mでうろこ126枚となった。内部は心木がブロンズで、極薄の金に銅板を裏打ちした金板をうろことしてブロンズに鋲で打ち付けてあるものとなった。さらに18金を使ったため、金の使用量は88kgとオリジナルから大幅に減量することとなった。ちなみに、この金シャチこそが、現在も大天守に掲げられている金シャチで、名古屋城内の各所から望み見ることができる。
ちなみに、戦火に見舞われたオリジナルの金シャチは雄の残骸が発見されたものの、終戦後にGHQの進駐軍に接収されてしまう。1967年(昭和42年)にようやく返還までこぎつけることができたものの、返ってきたのは6.6kgの金塊と金シャチの面影が全くない状態だった。返還を受けた名古屋市は、大蔵省造幣局に依頼し、一部を市旗の竿頭として鋳造することにした。竿頭といっても、形は金シャチ姿となっており、本来の大きさから約20分の1に大きさに縮小して、青銅に純金メッキで加工したものである。この竿頭は名古屋市の記念イベントにたびたび登場している。
そして残った金塊は茶釜に鋳造され、1969年(昭和44年)9月に完成した。
そして時代は現代になると、1984年(昭和59年)に天守再建25周年を記念して名古屋城博が開催された。この時に金シャチを天守から降ろして展示された。この時は、ヘリコプターでの降下作業となり、この瞬間を見ようと見物客でごった返すほどの盛況ぶりとなった。
平成となる2005年にも、「新世紀・名古屋城博」の目玉として金シャチを地上に降ろして展示された。この時は大型クレーンを使用して天守から降ろされた。また、同時期に開催した愛・地球博の開会式にも出席を果たした。
そして時代は令和になると、2021年(令和3年)3月に「名古屋城金鯱展 ~守り神降臨、海と山の祈り~」が名古屋城内で開催され、16年ぶりに金シャチが地上に降ろされて展示された。続けて4月からは「名古屋城金シャチ特別展覧」が開催され、名古屋の中心街である栄のミツコシマエ ヒロバスに展示された。こちらでは実際に金シャチに触れることができた。
現在では大天守に戻され、名古屋市民の精神の象徴、または守り神として名古屋の街を見守り続けている。
「名古屋城金シャチ特別展覧」で展示される金鯱
建造された中で唯一維新まで生き残った名古屋城の金鯱は、名古屋の象徴としても知られるようになり、現代ではマンホールにも描かれていたりもする。このため、名古屋にまつわる事物にはこの「金鯱」から名を取っているものが多数存在する。
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最終更新:2025/01/09(木) 22:00
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