2009/12/21

キューバの釣り

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ハバナ近郊での観光をたっぷりして翌日の早朝4時半頃にホテル玄関前から送迎バスに乗り キューバ中南部のアナ・マリア湾に面したjucaro に向かった。

道路では50年代へタイムスリップしたような錯覚になる。とにかく古い車が多いのだ。
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キューバは1940年代から50年代にかけてのアメ車が多い。バティスタ政権時代にアメリカの金持ちやキューバの裕福な人たちが乗っていたらしい。それが革命後、アメリカの経済封鎖に遭い経済危機に何度も立たされた。当然ほとんどの国民は車など買えなくなった。1960年代になると旧ソ連製のLADAが乗用車の主流となった。道路で見かける2割ぐらいがポンコツのアメ車で3割ぐらいがポンコツのLADAという割合である。他に人力タクシー、馬車、ココタクシー(小型三輪車)、トラック、バス、そして新しい車は韓国製が多かった。

共産圏では高級官僚が高級車を乗り回すというイメージがあるが、キューバではカストロこそ数十年前に寄贈されたベンツを使用しているが、彼以外の政府要人はエアコンも効かないポンコツのソ連製(ボルガ、LADA)である。

ただし問題はある。古いアメ車を見てカッコイイとは思うのだが、排ガスがひどくて喉の弱い人は痛くなるらしい(俺は平気だったが)。日本ならキューバで走っている7割以上の車は車検を通らないだろう。

現状のキューバに関してはこのブログを参考にした。最近まで奄美に住んでいた人で現在宮崎にいるようです。誰だかわかりませんが素晴らしいブログです。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/9cb95818173cb51c2cade5b977b5018d


カストロを独裁者と呼んでいるブッシュの方がよほど独裁者だろう。アメリカ国民の多くもブッシュのやり方に反対の立場を取っているのだ。

国連の米国の対キューバ経済封鎖解除決議(アメリカは圧倒的大差で負けている)
http://homepage3.nifty.com/aajc/archive43.html

有名な国際的テロリスト、ポサダ・カリーレス(ブッシュが保護している)
http://homepage3.nifty.com/aajc/archive37.html

2008年5月にチェ・ゲバラの娘であるアデイラ・ゲバラさんが来日した。
これは5月20日のアデイラさんの公演の内容
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/latin_america/aleida_in_osaka.htm

キューバに行って真実を見ると考えが大きく変わる。貧しいことはけっして恥ではない。そして小さな国キューバがアメリカという巨大な国にけっして負けてないことを確認できた。



jucaro までの道のりは長かった。しかし車中で不思議なことに全然眠くならなかった。キューバの景色がなんともいえず素晴らしく自分の少年時代の故郷とダブって見えた。またゲバラ関係の本などを読んだり、写真集を見て夢中になっていた。
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8時間後の12時半ごろ港町jucaro に到着。

港に停泊している漁船もかなり古い。
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ハルディネス・デ・ラ・レイナ諸島に向かう。

宿泊する洋上ホテル(船を改造したもの)までjucaro から3時間以上かかった。
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こんな部屋が6部屋くらいあった。エアコン完備である。
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トイレもシャワーも最新式だった。
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なんと衛星でインターネット(無料)ができるようになっていた。通信速度はかなり遅いが・・・
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ディナーはイタリア人やメキシコ人と一緒に
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ここを訪れるほとんどの人がフライマンらしく、ルアータックルに関してはレンタルもなく、ルアーの現地販売もない。フライマンはここでグランドスラムを狙うらしい。パーミットとターポンとボーンを1日で釣るとグランドスラムである。2週間前に来たイギリス人は1日に2度グランドスラムを達成したらしい。

フィッシング用のボート
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こんなところを抜けていく。
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コガジャとび~るだ~さんはフライでグランドスラムを狙ったが・・・
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ターポン
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ボーンは大きかった。
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しかしパーミットだけ釣れなかった。この魚はかなり難しいらしい。


ルアーで釣る魚は見たことも無いような魚が多かった。よく釣れたのはフエダイ系の魚である。

これはMutton snapper
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こんなことも
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これはYellowtail snapper
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これはホシカイワリに近い種類?
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外道の代表バラクーダ
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ギンガメアジに似ているジャック・クレバルもいっぱい釣れた。
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小さいグルーパーはかろうじてキャッチできた。
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クベラの幼魚?
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そして本命だったターポンはサイズが小さいせいか、ルアーを投げると逃げてしまうことが多かった。数回バイトがあったのは25グラムのカーペンターのBC-γ25やウンデッドベイト20など小さなペンシルばかりだった。いずれもフッキングできずキャッチはなし。バラクーダの猛攻で2日目までで極小ルアーは全滅してしまった。

やむをえず第2の本命Cubera snapper(クベラ)に変更した。クベラは大型になるフエダイ系の魚で瞬発力が凄く中米では大人気のゲームフィッシュである。この魚の世界記録は55.11キロで1982年にアメリカのルイジアナ州で釣れている。ガイドのコギの話ではここでも45キロくらいまでは釣れているらしい。

似ている魚としてパプアニューギニアなどで釣れるパプアンバス(ウラウチフエダイ)と沖縄など南方の島で釣れるマングローブジャック(ゴマフエダイ)、バラフエダイ(レッドバス)がいる。
日本名と英名、学名は以下のようになる。ウラウチフエダイは絶滅危惧IA類に指定されている。かつて西表島の浦内川には40キロクラスがいたらしい。
ウラウチフエダイ:Lutjanus goldiei(パプアンバス、パプアンブラックスナッパー)
ゴマフエダイ:Lutjanus argentimaculatus(カースビー、マングローブジャック、マングローブスナッパー、マングローブレッドスナッパー、レッドパーチ、レッドブリム)
クベラ:Lutjanus cyanopterus(キュベラスナッパー、Cubera snapper)
バラフエダイ:Lutjanus bohar(アカナー、レッドバス、Red bass、Two-spot red snapper) 

俺は20年前にコスタリカの太平洋側でクベラを釣ったことがある。これは正式にはパシフィック・クベラ(Pacific cubera snapper) Lutjanus novemfasciatusとなる。

60グラム以上のスイミングペンシル系のルアーに果敢に反応した。中でも良かったのはBC-γ60と90、メロン屋のTW170F、猛闘犬丸のミノぺん丸16Fだった。大きいルアーほど反応が良かったので今回は持ってこなかったが100グラム以上のルアーなら更に凄かっただろう。

ただし大問題が起きた。今回はターポン用とボーン用のルアータックルしか用意してなかった。ターポンはよく走ってジャンプも派手に繰り返すが、根に走らない。過去に80キロクラスもPE2号でキャッチしている。なので今回はPE1.5号から3号を主力に持ってきた。3号だと大型のクベラに歯が立たないのである。

ポイントは水深2~5メートルでサンゴだらけのところが多く、ヒットしたら一気に根に突っ込んで行く。2号、3号ではどうにも止まらない。魚体の色が赤っぽいので出てくるとすぐにわかる。ルアーのアクションはゆっくりでたまに止めたほうがいい。スルスルと近づいてきて直前でUターンしたり、ミスバイトすると1回で消えてしまう。なかなか警戒心の強い魚である。そして運よくフッキングしても凄いパワーで一気に根に走る。そしてたまに80キロくらいのグルーパーがヒットするからたまらない。
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3日目と4日目はクベラ狙い一本で行ったが、根ずれなどで有効なルアーはほとんど無くなってしまった。生き残ったとしてもガンマなどはバラクーダとクベラの歯でボロボロになり、水が浸みてフローティングからシンキングになってしまった。

ルアーのワイヤーが抜けてしまうことも。
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5日目、最終日が来た。ここまで毎日ほとんど休まず投げているので肩と背中と右腕がボロボロになっていた。投げるたびに激痛が走った。しかしこのままでは悔しくて帰国できない。何が何でも釣るぞという気持ちだった。いつも船上で寝てばかりの俺はどこかへ消えてしまったようだ。こんなに真面目に投げたのは何年ぶりかな?

そしてそのときがやってきた。

TW170Fの横からクベラが飛び出てきた。ガツッと襲い掛かった。フッキングも難しい魚なので3回くらい強烈に合わせを入れた。一気に根に突っ込む。ドラグはあらかじめ8キロくらいにしてあったが、さらに指ドラグで止めにかかる。一気に止めるとブレイクするので徐々に圧力を加えていった。15メートルくらいで一度止まった。スプールを掴みながらロッドを大きくあおってポンピングを開始する。素早く、素早く、相手に主導権を奪われないように!

そのあと何度か抵抗を見せるが2~3メートルで止まった。そしてどんどん相手との距離を詰めた。船は操船してないが、小さな船なので勝手に船が動いていく。1分くらいで船はクベラのほぼ真上まで来た。海底を覗くと底すれすれでクベラが抵抗しているのが見えた。ロッドを立ててプレッシャーを掛け続け、徐々に相手を浮かしにかかる。2分後、クベラは船の真横に観念する様に横たわった。

「やったー!!!」
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ガイドの推定は25キロ!

無いと思いますが(^^;


俺は船の上で何度も吠えた。

ガイドのコギと
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ボロボロになったTW170F(ロッドはカーペンターBC66MHR)
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キューバに感謝!
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2009/12/18

キューバ伝説



中学から高校へ通っていたころ、俺はチェ・ゲバラの大ファンだった。ゲバラがボリビアの山中で捕えられ銃殺されたとき俺は13歳だった。その頃は革命に強い関心があった。

あれから40年以上が経ち、キューバに釣りに行くことになった。忘れかけていたゲバラだったが、出発が近づくにつれ釣りよりもゲバラ、そしてヘミングウエイに関心が移っていった。そして飛行機の乗り継ぎが悪くハバナに3泊(行き2泊、帰り1泊)すると聞いて大喜びしていた。本来ならガックリするところなのだが。偶然にもキューバ出発1週間前に外房の山正丸でJ・アントニオさんと同船した。お父さんはあのアントニオ古賀さんである。ラテン歌手であるアントニオさんはキューバも行っていてやたらと詳しい。そこでオールドハバナに行ったらボディキータというレストランで黒豆の焼き飯。コヒマルに行ったらヘミングウエイが通ったレストラン「テラサ」でパパダイキリを飲んでくださいなどなどいろいろと教えていただいた。

ハバナに着くなり初日のディナーはボディキータでディナー。そして翌日は世界遺産でもあるオールドハバナの要塞群(ブンタ、カバーニャ、モロ)を見て回ったあとコヒマルへ向かった。
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コヒマルは小さな入り江がありヘミングウエイが船を係留しておいた場所でもある。そして老人と海の舞台となった港でもある。テラサの前には大型観光バスが止まっていた。みんなレストランの前で写真を撮っていた。中に入ると大きな絵が飾られていた。40年くらい昔の風景を描いた絵だが、今とそんなに変わらない風景だった。さらに奥に入るとヘミングウエイが座ったテーブルがあった。海に面した場所でロープで仕切られていた。壁にはたくさんの写真が飾られている。その中にはカストロと一緒に写っているのもあった。
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しばらくコヒマルの海岸を歩いた後、ハバナ郊外にあるヘミングウエイの住んでいた家にいった。今では博物館となっているが、ヘミングウエイは人生の約3分の1にあたる22年間をキューバで過ごした。大きな家で庭も広くプールもあった。書斎や応接室、食堂など昔のままに保存されていた。プールの隣には愛艇PILAR号も展示されていた。
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自殺未遂を繰り返したヘミングウェイは、1961年にアイダホ州の自宅で猟銃自殺を遂げる。その知らせを受けたコヒマルの漁師たちが、ヘミングウェイを悼み、自分たちの舟の碇を溶かしてこの胸像を作った。
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そしてオールドハバナにある革命博物館に行った。そこに展示されているグランマ号は全長18メートル。どう見ても定員20名がいいところの船である。カストロとゲバラはこの船に乗ってメキシコからキューバへ来たのだ。なんと82名も乗りこんで。ところが上陸の情報はすでに政府軍に流れており、最初の戦闘でほとんどが戦死、生き残ったのはたったの17名(12名と言う説もある)だった。そのときカストロはこう言ったそうである。「俺たちは17人も生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、軽武装の17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。
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銃痕が生々しい。
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カバーニャ要塞の中にあるゲバラの執務室。
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愛用のカメラはニコンだった。
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ゲバラに関しては言うまでもなく、壮絶な生き方をした男である。革命成功の後、しばらくキューバの要職にあった。給料は自ら半額に減らし、サトウキビの収穫や、工場の仕事など、人々と一緒になって働いていた。そして革命から6年後の1965年4月忽然とキューバから消える。新たなる帝国主義からの解放を目指して渡った場所はコンゴだった。その後コンゴでの活動に限界を感じ一度はキューバに戻ったが1966年11月にボリビアに入国。しかし苦しいゲリラ活動が続き1967年10月8日足を撃たれたあと捕えられ、翌9日に銃殺された。39歳だった。

捕えられたときのゲバラ。かなり疲れきっていたようだ。
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革命革命にあけくれた人生。なんでそこまでという残念な思いもある。
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)

ゲバラの遺体を埋めた場所は長い間公表されなかった。当時の政権が米国寄りでゲバラの墓が反政府運動の聖地となることを恐れたからだ。それが30年後の1997年に遺体を埋めるときに立ち会った当時の将校が「このまま黙っていたら永久にわからなくなる」と自分の人生が終わる前に公表したのだ。そして時代は反米を唱える国家になっていた。今ではボリビアの観光名所となっている。遺骨はすぐにキューバに送られてサンタクララに埋められ国葬となった。

英雄ゲバラの追悼演説をするカストロ
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カストロ「戻ってきてくれたことに感謝します」

サンタクララ墓地に建てられたゲバラの銅像
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ゲバラのボリビアの墓地はここを見てください。イゲラ村で政府軍に捕らえられ翌日銃殺された。遺体は晒されたあと埋められた。
世界一周旅行記 ゆめぽろEarth
http://yumepolo.blog87.fc2.com/blog-entry-218.html

カストロに関しては独裁主義者と言われているが、長年の米国の経済封鎖にも関わらず国内に悲壮感がない。また国内を見渡しカストロの肖像や写真がほとんど飾られてないのに気がつく。ゲバラの写真はどこでも見かけるのだが。これはカストロ自身が個人崇拝を否定しているからである。毛沢東、金日成とは大きな違いである。国民に聞いても「あいつはよくやっているよ」というような答えだった。貧しいのは誰が見ても明白である。それなのに悲壮感はほとんど感じられなかった。治安も他の中南米諸国に比べて安全である。
CIAは独裁者カストロの個人資産を調査したが、あまりに少なくて驚いたという。独裁者といえば巨額の資産、海外送金、そして亡命というケースがお決まりなのだが。

●主な国家元首の年収(日刊ゲンダイ07/11/2)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円(!)

カストロってすごいと思うのだがゲバラに比べて人気がかなり低い。長年指導者の立場にあるとどうしても人気は下がっていく。

英雄って長生きしてはいけないのだろう。ゲバラと並んでキューバの英雄と言われるホセ・マルティも42歳で戦死している。日本なら坂本竜馬、源義経だろうか。

カストロも革命直後に死んでいればとんでもない英雄だっただろう。


コヒマルの海岸で老夫婦に5ペソ払ってゲバラを偲ぶ歌をお願いした。悲しい歌である。
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Hasta siempre comandante Che Guevara