きんと政楠 (37) 後書き
父F彦の書いた後書きを最後に掲載する。
------------------------(本文)---------------------------
1989年5月念願の退職を果たし、3年後妻を見送ってからは望みどおりの遊び人になり、かねて不思議に思っていたAの家系の余りにも多い抜け落ちた部分というか、誰も触れようとしない部分を見たいと思い、折を見ては知多大野と小倉、宮山を訪ね、また紀伊の貴志川に足を運んだりしたのだが、色々な制約に阻まれて殆ど得るところはないままに20年も過ぎてしまった。
残る手段としては父母の生きた100年の世間の動きの上に透写して、想像を巡らせて組み立てるよりなくなった。
こうして纏めたのがこの文章である。
戸籍という最も信頼できる記録も、最近の「個人情報保護法」とかで簡単には取り寄せられなくなったし、更には死後80年すると、その戸籍そのものが廃棄されるということにも知った。
父政楠(自称立原舜石)については、上に書いた以上のことは殆ど知りえない。
昭和29年だったか、何の気なしに貴志川を訪ねた折には、祖父母と共に岡野姓となった、政楠の弟亮(明治2年生まれ)の子供が生存しており、菩提寺で過去帳も見せてもらったのだが、帰って母の冷たい態度に会い、それ以上は何も話さずじまいになってしまった。
それから35年経った平成4年、妻の祭壇を求めに京都へ出たついでに、ふと思いついて父の亡くなった山科を見ておこうと脚を伸ばしたところ、思いも掛けず父が臨終の折世話になった方が島根県温泉津にご健在と聞き、急いでY彦兄と石見の龍蔵寺へ走り、お目にかかれたのは幸運だった。
しかし和尚はいかにもご高齢で記憶も薄れておられたが、言い難いことも少しは漏らしていただけたのは幸いだった。
その後更に貴志川へ足を運んだけれども、何しろ戸籍上親子なるを証明することは出来ず、諦めざるを得なかった。
過去帳を今一度と思っても、その間に菩提寺(大日寺)が火災に会い、消失するという不運もあって、遂にこれ以上のことは歴史の向こう側になってしまった。
残るのは、兄たちが子供の頃に聞いていた「水戸」との繋がりがあるのかどうか、現地へ出向いて手探りするより他ない。
母きんの方の祖父母は、僕が生れる前に亡くなってるので記憶はない。
しかし、4人の伯父、伯母には僕が15才で予科練に行くまではかなり頻繁に会っていたので記憶は確かだ。
ただこうして出来事を繋ぎ合わせてみると、ほとんど不幸の連続なのに驚かされる。
貧しかった時代と一言で片付けるには深刻すぎる。
そういう歴史を子供たちから遠ざけようとしていた母の必死さが、今漸く想像できる。
如何に時代の変わり目だったとはいえ、この不幸さは尋常ではない。
祖父嘉兵衛の実家はかなり良いところだったらしいという、兄たちが聞かされていた母の言葉は、子供だましだったとしか思えない。
祖母の実家に「おさきさん」という母より少し年上のおばさんがいて、お使いに行ったこともあるが、取り立てて大きい家だとか立派だったという印象はない。
何とか卑屈にならずに貧乏に耐えさせるための方言だったのは確かなようだ。
兄たちが聞いたというその言葉を頼りに、ここ3-4年、祖父嘉兵衛と曽祖父庄平を訊ねて廻ってみたものの、日長福田寺の過去帳に僅かに命日を見つけたに過ぎない。
そしてその戒名から推して、曽祖父もまた鍛冶職だったらしいことが見える。
店を持たず最低限の道具を携えて村々を旅し、農具の修理をして廻るという生業だったのだろう。
祖父がそんな旅の多い生活から、博打を覚えのめり込んでいったのがそもそも家族全員を不幸に陥れていったと断定できる。
尚悪いことに長男喜之助がその悪癖を受け継いだことだ。
博打を打つといっても、殆ど其の日暮らしの生活の中で、やることはしれていただろう。
大きな借金を背負い込むほどの度胸もなかったのが、一家を徹底的な破滅に追い込むには至らなかった、と言うのが正確なところだろう。
いずれにしても、母を含む5人の兄弟に希望の持てる日々は無かった。
母きんが小学校4年を卒業するのと前後して、長女ようを曰く有りげな男に嫁に出したのも、もしかしたら博打がからんでいたのかもしれない。
次女たかはきんが物心もつかない頃に信州へ働きに出ていたし、日露戦争の勝利で一時沸き立ったのが収まる頃には、次々と鉄道が敷設されて、旅は便利になっていった。
野鍛冶という仕事も時代遅れになっていったに違いないが、仕事を変えるほどの勇気は無かったのだろう。
現に喜之助は最初の妻を三河岡崎の在から連れて帰ってきた。
やがて跡取りの正一が生まれたが、親子揃っての博打好きは相変わらずだった。
二之宮旅館で手伝いをしながらも、母には行き先の不安ばかりがのしかかっていたことだろう。
そこへ現れた父政楠について行ったのは、親兄弟から逃れたい一心だったと言えば庇い過ぎだろうか。
それから7年後、3人の子供を連れて帰った母の周りの状況は少しも良くなっていなかった。
嘉兵衛はさすがに老いて博打に現を抜かす元気はなくなっていたが、兄喜之助は相変わらずだった。
罵り合う兄夫婦に耐えかねて、A彦の小学校入学と同時に大野へ転居して漸く一息をつくといった有様だった。
しかし、収入の不安定さはどうしようもなかった。
もしこの頃、母が父に見切りをつけてきっぱりと別れていたら、我が家の歴史もまったく別のものなっていた筈だ。
10歳も年長とはいえ、妹のために父に談判することも無かった伯父喜之助の不甲斐なさが今漸く理解できる。
父の勝手さは言わずもがなではあるが。
小学校入学まで祖父母、伯父一家と一つ屋根の下に住み、4年生の時名古屋へ奉公に出されるまで、直接そんな境遇を体感したA彦が、晩年「喜之助さんに統率力が無かったのが全ての原因のような気がする」と言っていた言葉に総てが要約されている。
伯父喜之助が、親のふしだらを咎め、弟妹を叱咤する気概があったら、Aの家も遥かにましな歴史を歩んだことだろう。
母が19歳の若さで駆け落ち同然に父について家を出た負い目を持ち続けたのが、僕たち兄弟がまともに育った原因だとしたら、また何をか言わんやである。
こうして父母の世代の出来事と、当時の兄弟を含めたAの家族たちの生き様をなぞっていくと、僕の中にもその血がはっきりと流れているのに感づかされる。
貧乏の中で育ったにしては、そこそこ真っ当だと自負していたが、振り返ってみれば、貿易業というものに心から打ち込むということは遂に無かった。
ただ生活費を得る為、右のものを左に回して利ざやを稼ぐという商売は、どう見ても誇りの持てる仕事ではなかったからだ。
金儲けのために言葉を勉強すると公言するユダヤ人を、心のどこかで蔑みながら、貿易のためにスペイン語やフランス語を齧った己の矛盾を遂に説明できぬまま、妻の看病を口実にそそくさと職を離れたのは、そもそもが働くということに熱心ではない血筋なのかとも思う。
今頃になって気が付いても遅いのは確かだが、それもこれも親たちがあまりに多くのことを隠したまま他界してしまったからだ。
もし母が、昭和18年、やがて14歳になろうとしていた僕に、父のことを正直に話して、父が亡くなる前に会わせていてくれたら・・・ 結果はどうなっていたか判らない、もっと悲惨なことになっていたかも知れない。
それを想像して母がためらったのは良くわかる。
しかし・・・ これだけが母に対する僕の不満であり無念である。
わが子孫よ、願わくはいま少し気骨ある人物を目指して、母きんの霊を安んじられんことを。
兄Y彦が建てた北攝霊園の墓には四人の家族が眠っている。
(梅旧院 06-6771-1667 大阪市天王寺区夕陽ケ丘町1番18号)
父 政楠 直翁政道信士 昭和18年 4月12日没
母 きん 錦室妙道信女 昭和47年11月20日没
兄 Y彦 大徹彦英信士 平成10年 3月10日没
兄 TO彦 俊阿覚法信士 昭和21年11月22日没
2009年8月記す。
------------------------(終り)---------------------------
------------------------(本文)---------------------------
1989年5月念願の退職を果たし、3年後妻を見送ってからは望みどおりの遊び人になり、かねて不思議に思っていたAの家系の余りにも多い抜け落ちた部分というか、誰も触れようとしない部分を見たいと思い、折を見ては知多大野と小倉、宮山を訪ね、また紀伊の貴志川に足を運んだりしたのだが、色々な制約に阻まれて殆ど得るところはないままに20年も過ぎてしまった。
残る手段としては父母の生きた100年の世間の動きの上に透写して、想像を巡らせて組み立てるよりなくなった。
こうして纏めたのがこの文章である。
戸籍という最も信頼できる記録も、最近の「個人情報保護法」とかで簡単には取り寄せられなくなったし、更には死後80年すると、その戸籍そのものが廃棄されるということにも知った。
父政楠(自称立原舜石)については、上に書いた以上のことは殆ど知りえない。
昭和29年だったか、何の気なしに貴志川を訪ねた折には、祖父母と共に岡野姓となった、政楠の弟亮(明治2年生まれ)の子供が生存しており、菩提寺で過去帳も見せてもらったのだが、帰って母の冷たい態度に会い、それ以上は何も話さずじまいになってしまった。
それから35年経った平成4年、妻の祭壇を求めに京都へ出たついでに、ふと思いついて父の亡くなった山科を見ておこうと脚を伸ばしたところ、思いも掛けず父が臨終の折世話になった方が島根県温泉津にご健在と聞き、急いでY彦兄と石見の龍蔵寺へ走り、お目にかかれたのは幸運だった。
しかし和尚はいかにもご高齢で記憶も薄れておられたが、言い難いことも少しは漏らしていただけたのは幸いだった。
その後更に貴志川へ足を運んだけれども、何しろ戸籍上親子なるを証明することは出来ず、諦めざるを得なかった。
過去帳を今一度と思っても、その間に菩提寺(大日寺)が火災に会い、消失するという不運もあって、遂にこれ以上のことは歴史の向こう側になってしまった。
残るのは、兄たちが子供の頃に聞いていた「水戸」との繋がりがあるのかどうか、現地へ出向いて手探りするより他ない。
母きんの方の祖父母は、僕が生れる前に亡くなってるので記憶はない。
しかし、4人の伯父、伯母には僕が15才で予科練に行くまではかなり頻繁に会っていたので記憶は確かだ。
ただこうして出来事を繋ぎ合わせてみると、ほとんど不幸の連続なのに驚かされる。
貧しかった時代と一言で片付けるには深刻すぎる。
そういう歴史を子供たちから遠ざけようとしていた母の必死さが、今漸く想像できる。
如何に時代の変わり目だったとはいえ、この不幸さは尋常ではない。
祖父嘉兵衛の実家はかなり良いところだったらしいという、兄たちが聞かされていた母の言葉は、子供だましだったとしか思えない。
祖母の実家に「おさきさん」という母より少し年上のおばさんがいて、お使いに行ったこともあるが、取り立てて大きい家だとか立派だったという印象はない。
何とか卑屈にならずに貧乏に耐えさせるための方言だったのは確かなようだ。
兄たちが聞いたというその言葉を頼りに、ここ3-4年、祖父嘉兵衛と曽祖父庄平を訊ねて廻ってみたものの、日長福田寺の過去帳に僅かに命日を見つけたに過ぎない。
そしてその戒名から推して、曽祖父もまた鍛冶職だったらしいことが見える。
店を持たず最低限の道具を携えて村々を旅し、農具の修理をして廻るという生業だったのだろう。
祖父がそんな旅の多い生活から、博打を覚えのめり込んでいったのがそもそも家族全員を不幸に陥れていったと断定できる。
尚悪いことに長男喜之助がその悪癖を受け継いだことだ。
博打を打つといっても、殆ど其の日暮らしの生活の中で、やることはしれていただろう。
大きな借金を背負い込むほどの度胸もなかったのが、一家を徹底的な破滅に追い込むには至らなかった、と言うのが正確なところだろう。
いずれにしても、母を含む5人の兄弟に希望の持てる日々は無かった。
母きんが小学校4年を卒業するのと前後して、長女ようを曰く有りげな男に嫁に出したのも、もしかしたら博打がからんでいたのかもしれない。
次女たかはきんが物心もつかない頃に信州へ働きに出ていたし、日露戦争の勝利で一時沸き立ったのが収まる頃には、次々と鉄道が敷設されて、旅は便利になっていった。
野鍛冶という仕事も時代遅れになっていったに違いないが、仕事を変えるほどの勇気は無かったのだろう。
現に喜之助は最初の妻を三河岡崎の在から連れて帰ってきた。
やがて跡取りの正一が生まれたが、親子揃っての博打好きは相変わらずだった。
二之宮旅館で手伝いをしながらも、母には行き先の不安ばかりがのしかかっていたことだろう。
そこへ現れた父政楠について行ったのは、親兄弟から逃れたい一心だったと言えば庇い過ぎだろうか。
それから7年後、3人の子供を連れて帰った母の周りの状況は少しも良くなっていなかった。
嘉兵衛はさすがに老いて博打に現を抜かす元気はなくなっていたが、兄喜之助は相変わらずだった。
罵り合う兄夫婦に耐えかねて、A彦の小学校入学と同時に大野へ転居して漸く一息をつくといった有様だった。
しかし、収入の不安定さはどうしようもなかった。
もしこの頃、母が父に見切りをつけてきっぱりと別れていたら、我が家の歴史もまったく別のものなっていた筈だ。
10歳も年長とはいえ、妹のために父に談判することも無かった伯父喜之助の不甲斐なさが今漸く理解できる。
父の勝手さは言わずもがなではあるが。
小学校入学まで祖父母、伯父一家と一つ屋根の下に住み、4年生の時名古屋へ奉公に出されるまで、直接そんな境遇を体感したA彦が、晩年「喜之助さんに統率力が無かったのが全ての原因のような気がする」と言っていた言葉に総てが要約されている。
伯父喜之助が、親のふしだらを咎め、弟妹を叱咤する気概があったら、Aの家も遥かにましな歴史を歩んだことだろう。
母が19歳の若さで駆け落ち同然に父について家を出た負い目を持ち続けたのが、僕たち兄弟がまともに育った原因だとしたら、また何をか言わんやである。
こうして父母の世代の出来事と、当時の兄弟を含めたAの家族たちの生き様をなぞっていくと、僕の中にもその血がはっきりと流れているのに感づかされる。
貧乏の中で育ったにしては、そこそこ真っ当だと自負していたが、振り返ってみれば、貿易業というものに心から打ち込むということは遂に無かった。
ただ生活費を得る為、右のものを左に回して利ざやを稼ぐという商売は、どう見ても誇りの持てる仕事ではなかったからだ。
金儲けのために言葉を勉強すると公言するユダヤ人を、心のどこかで蔑みながら、貿易のためにスペイン語やフランス語を齧った己の矛盾を遂に説明できぬまま、妻の看病を口実にそそくさと職を離れたのは、そもそもが働くということに熱心ではない血筋なのかとも思う。
今頃になって気が付いても遅いのは確かだが、それもこれも親たちがあまりに多くのことを隠したまま他界してしまったからだ。
もし母が、昭和18年、やがて14歳になろうとしていた僕に、父のことを正直に話して、父が亡くなる前に会わせていてくれたら・・・ 結果はどうなっていたか判らない、もっと悲惨なことになっていたかも知れない。
それを想像して母がためらったのは良くわかる。
しかし・・・ これだけが母に対する僕の不満であり無念である。
わが子孫よ、願わくはいま少し気骨ある人物を目指して、母きんの霊を安んじられんことを。
兄Y彦が建てた北攝霊園の墓には四人の家族が眠っている。
(梅旧院 06-6771-1667 大阪市天王寺区夕陽ケ丘町1番18号)
父 政楠 直翁政道信士 昭和18年 4月12日没
母 きん 錦室妙道信女 昭和47年11月20日没
兄 Y彦 大徹彦英信士 平成10年 3月10日没
兄 TO彦 俊阿覚法信士 昭和21年11月22日没
2009年8月記す。
------------------------(終り)---------------------------
きんと政楠 (36) 終幕
昭和39年10. 1(1964)東海道新幹線開通(東京ー新大阪)
昭和39年10.10(1964)東京オリンピック
昭和39年 (1964)ベトナム戦争 ~ 昭和50年(1975)
昭和41年 (1966)中国文化大革命 ~ 昭和52年(1977)
昭和43年 (1968)パリ五月革命
昭和43年 (1968)大学紛争 ~ 昭和44年(1969)
昭和45年 3.14(1970)日本万国博覧会 ~ 9.13
昭和46年 8.15(1971)金とドルの交換停止
------------------------(本文)---------------------------
きんが大阪へ出てきてからは、Y彦の妻SDの優しい心遣いで、初めて安住の地を得た思いだった。
KT(1951.12)、YK(1955.7)と孫たちも増えて笑い声のある生活が嬉しかった。
F彦が結核に罹り一年半も入院する事態になったときには、大阪と神戸の間を行き来して久し振りに張合いすら感じていた。
昭和31年秋、F彦も退院してほっとしたきんは、義理の妹じょうと計らって、別府まで船旅をした。
それが生涯を通してただ一回の遊びの旅だったかもしれない。
末っ子F彦が塩屋に小さな家を買って移ってからは、一歳になって間もないKRを乳母車に乗せて、下畑までも子守に励んで楽しそうだった。
それからの10年余り、千里と塩屋の間を気ままに行き来して穏やかな日々が続いたように見えた。
昭和42年秋、乳癌を患っていたSが亡くなったとき以外、悲しいことは起こらなかった。
しかし孫たちが成長するのに反比例して、段々と小さくなっていくように見えた。
吹田、千里に家を建て移り住んだY彦の家族と過ごした晩年は、時々「幸せだよ」と小さく言って微笑むのが常だった。
ごく控えめなのは生来のものだった。
文化大革命も大学紛争も浅間山荘事件も、強烈な刺激となるには老いすぎていたのは、むしろ幸いだった。
昭和45年、毎日がお祭りのような日本初の万国博覧会がすぐ近くであっても、大学生になったばかりの孫、KTの話を聞くだけで満足していた。
昭和47年11月20日、終わりは突然にやってきた。
夕飯も食べずに休んでいたきんが、苦しいといって病院に運ばれた後、殆どそのまま息を引き取った。
6人の子供のうち、臨終に立ち会えたのはY彦とF彦だけだった。きんの父嘉兵衛が小倉に居を構えてから丁度百年目だった。
きんが去ってから2年後には、弟瀧之助の妻じょうも亡くなり、更にその翌年瀧之助も不帰の人となって、きんの世代は終わった。
立原政楠が亡くなってから30年近く、3男TO彦に先立たれてから26年、ひたすら黙って抱え続けてきた二人の遺骨と共に、Y彦が北攝霊園に葬った。
きんが亡くなってから更に17年後、次の世代もいつの間にか親たちの年齢に近づいていたある一夕、A彦、Y彦、F彦の三人が酒を飲みながら語ったことがあった。
その席でA彦の言った言葉がいつまでもF彦の心に残った。
『Aの家のように反逆したり、何か仕出かしてやろうということを思う人間が出てくるような家系は、百年あるいは百五十年は安泰ではありえないように思う』
自分で選んだとはいえ、時代と家族と立原に翻弄されたきんの生涯を誰が責められよう。
ひたすら忍耐と献身の80年は尊敬こそ相応しい。
むしろそこにもっと早く気付くべきだった子供たちの迂闊さこそ責めらるべきだろう。
冥福を祈る。
(おわり)
------------------------(終り)---------------------------
百年余に渡る祖父母の足跡をたどった父(F彦)の手記はここで終わる。
別に長文の「後書」が残っているので、最後にそれを紹介したいと思う。
昭和39年10.10(1964)東京オリンピック
昭和39年 (1964)ベトナム戦争 ~ 昭和50年(1975)
昭和41年 (1966)中国文化大革命 ~ 昭和52年(1977)
昭和43年 (1968)パリ五月革命
昭和43年 (1968)大学紛争 ~ 昭和44年(1969)
昭和45年 3.14(1970)日本万国博覧会 ~ 9.13
昭和46年 8.15(1971)金とドルの交換停止
------------------------(本文)---------------------------
きんが大阪へ出てきてからは、Y彦の妻SDの優しい心遣いで、初めて安住の地を得た思いだった。
KT(1951.12)、YK(1955.7)と孫たちも増えて笑い声のある生活が嬉しかった。
F彦が結核に罹り一年半も入院する事態になったときには、大阪と神戸の間を行き来して久し振りに張合いすら感じていた。
昭和31年秋、F彦も退院してほっとしたきんは、義理の妹じょうと計らって、別府まで船旅をした。
それが生涯を通してただ一回の遊びの旅だったかもしれない。
末っ子F彦が塩屋に小さな家を買って移ってからは、一歳になって間もないKRを乳母車に乗せて、下畑までも子守に励んで楽しそうだった。
それからの10年余り、千里と塩屋の間を気ままに行き来して穏やかな日々が続いたように見えた。
昭和42年秋、乳癌を患っていたSが亡くなったとき以外、悲しいことは起こらなかった。
しかし孫たちが成長するのに反比例して、段々と小さくなっていくように見えた。
吹田、千里に家を建て移り住んだY彦の家族と過ごした晩年は、時々「幸せだよ」と小さく言って微笑むのが常だった。
ごく控えめなのは生来のものだった。
文化大革命も大学紛争も浅間山荘事件も、強烈な刺激となるには老いすぎていたのは、むしろ幸いだった。
昭和45年、毎日がお祭りのような日本初の万国博覧会がすぐ近くであっても、大学生になったばかりの孫、KTの話を聞くだけで満足していた。
昭和47年11月20日、終わりは突然にやってきた。
夕飯も食べずに休んでいたきんが、苦しいといって病院に運ばれた後、殆どそのまま息を引き取った。
6人の子供のうち、臨終に立ち会えたのはY彦とF彦だけだった。きんの父嘉兵衛が小倉に居を構えてから丁度百年目だった。
きんが去ってから2年後には、弟瀧之助の妻じょうも亡くなり、更にその翌年瀧之助も不帰の人となって、きんの世代は終わった。
立原政楠が亡くなってから30年近く、3男TO彦に先立たれてから26年、ひたすら黙って抱え続けてきた二人の遺骨と共に、Y彦が北攝霊園に葬った。
きんが亡くなってから更に17年後、次の世代もいつの間にか親たちの年齢に近づいていたある一夕、A彦、Y彦、F彦の三人が酒を飲みながら語ったことがあった。
その席でA彦の言った言葉がいつまでもF彦の心に残った。
『Aの家のように反逆したり、何か仕出かしてやろうということを思う人間が出てくるような家系は、百年あるいは百五十年は安泰ではありえないように思う』
自分で選んだとはいえ、時代と家族と立原に翻弄されたきんの生涯を誰が責められよう。
ひたすら忍耐と献身の80年は尊敬こそ相応しい。
むしろそこにもっと早く気付くべきだった子供たちの迂闊さこそ責めらるべきだろう。
冥福を祈る。
(おわり)
------------------------(終り)---------------------------
百年余に渡る祖父母の足跡をたどった父(F彦)の手記はここで終わる。
別に長文の「後書」が残っているので、最後にそれを紹介したいと思う。
きんと政楠 (35) それぞれの戦後
子供たちがそれぞれ生活基盤を築き、祖母はひとりぼっちになった。
------------------------(本文)---------------------------
シベリアから帰ったY彦は、少しも休むことなく行動を起こした。
八月に入るとすぐ満州での知り合いを訊ねて大阪に出てきた。
ついでに神戸へ就職したばかりのF彦の会社に現れたときの姿が、いかにもY彦のざっくばらんな性格を現していて好もしかった。
よれよれのズボンに手拭をぶら下げ、上はワイシャツだけ、麦藁帽子に下駄履きという、まるで海水浴にでも行く出で立ちだった。
誰がどんな格好をしていようと目立たない時勢ではあったが、さすがに会社では「Aのお兄さんは侍だな」と羨ましがられた。
大阪淀川の非鉄金属を扱う商社に入社を決めると、一時F彦と同じ甲東園の下宿に同居のようなかたちで住んでいたが、やがて会社近くへ移り落ち着いた。
そして一年後には、社長の媒酌で、SDと結婚し、阿倍野に市営住宅を見つけ居を構えることが出来た。
昭和25年6月に始まった朝鮮戦争は、戦後の日本を大きく変えた。
特需と呼ばれた戦争景気が日本経済に活力を呼び戻し、同時に混乱の極にあった社会を少しづつ落ち着けていった。
ところがそんな中で、姉たかが大野の浜で水死体となって上がるという、きんにとって又してもの大事件が持ち上がった。
無理やりきんから取り上げたようなTO彦に死なれて、たかときんとの間も気まずくなり、疎開地から名古屋へ帰ってきていた瀧之助の許で世話になっていたが、気の強いもの同士の瀧之助の妻じょうとは28年前とは立場が逆転していた。
些細な諍いから飛び出したたかを気遣って、きんのところへ問い合わせが来たので、心当たりを探したが行方は知れなかった。
その矢先のことだった。
きんは已む無く一通りの後始末をすると、遂に故郷を捨てる決心をした。
6人もいた子供たちにも、何一つ親らしいこともしてやれなかったばかりか、却って必要以上に苦労をさせたという思いが、こんな場合ですら子供に頼ろうともせず、一人運命に殉ずるような気性だった。
見かねたY彦が、ちょうど定子に子供が生れそうだからと、大阪阿倍野の住まいに引き取った。
こうしてきんが59歳の秋、さまざまな思いを残して、生れ故郷を離れた。
そしてAの家族の痕跡も大野谷から消えた。
それから二十余年、80才の生涯を閉じるまで、きんが再び故郷の土を踏むことはなかった。
------------------------(終り)---------------------------
小学生の頃、朝日会館(現神戸朝日ビル)にある父の勤める貿易会社を訪ねたことがある。
人気のない静かな廊下を通り、事務所に入る。
底の固い革靴で歩けば「カツーン、カツーン」と響いたものだ。
繊維を扱う貿易会社の室内は、静かで落ち着いた雰囲気だった。
そこに「よれよれのズボンに手拭をぶら下げ、上はワイシャツだけ、麦藁帽子に下駄履きという、まるで海水浴にでも行く出で立ち」のY彦おじさんの訪問は、想像しただけでも楽しい。
------------------------(本文)---------------------------
シベリアから帰ったY彦は、少しも休むことなく行動を起こした。
八月に入るとすぐ満州での知り合いを訊ねて大阪に出てきた。
ついでに神戸へ就職したばかりのF彦の会社に現れたときの姿が、いかにもY彦のざっくばらんな性格を現していて好もしかった。
よれよれのズボンに手拭をぶら下げ、上はワイシャツだけ、麦藁帽子に下駄履きという、まるで海水浴にでも行く出で立ちだった。
誰がどんな格好をしていようと目立たない時勢ではあったが、さすがに会社では「Aのお兄さんは侍だな」と羨ましがられた。
大阪淀川の非鉄金属を扱う商社に入社を決めると、一時F彦と同じ甲東園の下宿に同居のようなかたちで住んでいたが、やがて会社近くへ移り落ち着いた。
そして一年後には、社長の媒酌で、SDと結婚し、阿倍野に市営住宅を見つけ居を構えることが出来た。
昭和25年6月に始まった朝鮮戦争は、戦後の日本を大きく変えた。
特需と呼ばれた戦争景気が日本経済に活力を呼び戻し、同時に混乱の極にあった社会を少しづつ落ち着けていった。
ところがそんな中で、姉たかが大野の浜で水死体となって上がるという、きんにとって又してもの大事件が持ち上がった。
無理やりきんから取り上げたようなTO彦に死なれて、たかときんとの間も気まずくなり、疎開地から名古屋へ帰ってきていた瀧之助の許で世話になっていたが、気の強いもの同士の瀧之助の妻じょうとは28年前とは立場が逆転していた。
些細な諍いから飛び出したたかを気遣って、きんのところへ問い合わせが来たので、心当たりを探したが行方は知れなかった。
その矢先のことだった。
きんは已む無く一通りの後始末をすると、遂に故郷を捨てる決心をした。
6人もいた子供たちにも、何一つ親らしいこともしてやれなかったばかりか、却って必要以上に苦労をさせたという思いが、こんな場合ですら子供に頼ろうともせず、一人運命に殉ずるような気性だった。
見かねたY彦が、ちょうど定子に子供が生れそうだからと、大阪阿倍野の住まいに引き取った。
こうしてきんが59歳の秋、さまざまな思いを残して、生れ故郷を離れた。
そしてAの家族の痕跡も大野谷から消えた。
それから二十余年、80才の生涯を閉じるまで、きんが再び故郷の土を踏むことはなかった。
------------------------(終り)---------------------------
小学生の頃、朝日会館(現神戸朝日ビル)にある父の勤める貿易会社を訪ねたことがある。
人気のない静かな廊下を通り、事務所に入る。
底の固い革靴で歩けば「カツーン、カツーン」と響いたものだ。
繊維を扱う貿易会社の室内は、静かで落ち着いた雰囲気だった。
そこに「よれよれのズボンに手拭をぶら下げ、上はワイシャツだけ、麦藁帽子に下駄履きという、まるで海水浴にでも行く出で立ち」のY彦おじさんの訪問は、想像しただけでも楽しい。
きんと政楠 (34) Y彦の帰郷、F彦は神戸へ
闇屋稼業に見切りをつけたF彦(父)は、貿易会社に就職し港町神戸に移り住む。
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その頃、名古屋ではSに次男Nが生まれ(23.1.2)、A彦の家族には次男I(23.4.11)と長女SA(25.10.4)が加わっていった。
きんの孫は8人にもなっていたが、一方、Sの長女MAの死という可愛そうなこともあった。
子供たちが皆出て行ってしまって急に手持ち無沙汰になったきんは、勧められて村役場の手伝いをすることにした。
住み込みで宿直兼任といった格好だった。
岐阜笠松に住み込みで働きだしたF彦が、休みには時々帰ってきたが、闇商売の品物を担いで度々北海道へ行くようになると、その足も遠のいた。
世の中も次第に落着きを取り戻し始め、闇商売が成り立たなくなったのを見極めた店主の計らいで神戸の貿易会社へ入った。
英語といえば中京商業で働いていた間の、一年余りの夜学で受けた数十時間に過ぎなかったが、そんな心配よりも新しい土地へ行くことこそ魅力だった。
敗戦から後、二三度来たY彦からの葉書で無事を知ってはいたが、一日千秋の思いのきんのもとへ帰国の電報が届いたのは、F彦を神戸へ送り出してから間もなくの昭和24年7月も末近くだった。
Y彦のほうは、7月25日ナホトカ出帆の日本の船に乗せられたとき、漸く帰国できるのが実感できた。
山澄丸という戦時中の粗末な貨物船だったが、不平を言うものは誰も居なかった。
船員は、しかし、船内での不穏な空気に極端に敏感だった。
この前の年、昭和23年から本格的に始まったシベリア抑留者の帰還が、抑留中に受けた思想教育に染まり、虎の威を借りて共産主義を振りかざす者と、反発する者との確執が、シベリアを離れたとたん爆発して、舞鶴へ入港するまでの2昼夜の間に、行方不明になるものが、船によっては片手に余るほどもあったからである。
きんはA彦に付き添われて名古屋駅でY彦を迎えた。
きんの戦後にも漸くにして終止符が打たれた。
そして半年後、長姉ようがひっそりと亡くなった。
余りにも可愛そうな75年の生涯だった。
残された二人の娘のうち、妹くわは昭和9年に岡田村ヘ嫁いでいたが、姉かぎの行方は判らなかった。
------------------------(終り)---------------------------
4年もの抑留生活を終え、ついにY彦おじさんは帰国した。
それにしても帰国船の中でいくつもの殺人があったとは・・・
帰国できるとなれば、それまでのしがらみも忘れちゃいそうな気がするが、それは戦争を知らない我々の勝ってな言い草に過ぎないんだろう。
------------------------(本文)---------------------------
その頃、名古屋ではSに次男Nが生まれ(23.1.2)、A彦の家族には次男I(23.4.11)と長女SA(25.10.4)が加わっていった。
きんの孫は8人にもなっていたが、一方、Sの長女MAの死という可愛そうなこともあった。
子供たちが皆出て行ってしまって急に手持ち無沙汰になったきんは、勧められて村役場の手伝いをすることにした。
住み込みで宿直兼任といった格好だった。
岐阜笠松に住み込みで働きだしたF彦が、休みには時々帰ってきたが、闇商売の品物を担いで度々北海道へ行くようになると、その足も遠のいた。
世の中も次第に落着きを取り戻し始め、闇商売が成り立たなくなったのを見極めた店主の計らいで神戸の貿易会社へ入った。
英語といえば中京商業で働いていた間の、一年余りの夜学で受けた数十時間に過ぎなかったが、そんな心配よりも新しい土地へ行くことこそ魅力だった。
敗戦から後、二三度来たY彦からの葉書で無事を知ってはいたが、一日千秋の思いのきんのもとへ帰国の電報が届いたのは、F彦を神戸へ送り出してから間もなくの昭和24年7月も末近くだった。
Y彦のほうは、7月25日ナホトカ出帆の日本の船に乗せられたとき、漸く帰国できるのが実感できた。
山澄丸という戦時中の粗末な貨物船だったが、不平を言うものは誰も居なかった。
船員は、しかし、船内での不穏な空気に極端に敏感だった。
この前の年、昭和23年から本格的に始まったシベリア抑留者の帰還が、抑留中に受けた思想教育に染まり、虎の威を借りて共産主義を振りかざす者と、反発する者との確執が、シベリアを離れたとたん爆発して、舞鶴へ入港するまでの2昼夜の間に、行方不明になるものが、船によっては片手に余るほどもあったからである。
きんはA彦に付き添われて名古屋駅でY彦を迎えた。
きんの戦後にも漸くにして終止符が打たれた。
そして半年後、長姉ようがひっそりと亡くなった。
余りにも可愛そうな75年の生涯だった。
残された二人の娘のうち、妹くわは昭和9年に岡田村ヘ嫁いでいたが、姉かぎの行方は判らなかった。
------------------------(終り)---------------------------
4年もの抑留生活を終え、ついにY彦おじさんは帰国した。
それにしても帰国船の中でいくつもの殺人があったとは・・・
帰国できるとなれば、それまでのしがらみも忘れちゃいそうな気がするが、それは戦争を知らない我々の勝ってな言い草に過ぎないんだろう。
きんと政楠 (33) シベリア抑留
昭和21年12.21(1946)南海道大地震
昭和23年 8.13(1948)大韓民国樹立
昭和23年 9. 9(1948)朝鮮民主主義人民共和国樹立
昭和24年10. 1(1949)中華人民共和国樹立
昭和25年 6.25(1950)朝鮮戦争始まる ~ 1953.7.27 休戦協定成立
昭和26年 9. 8(1951)対日講和条約調印
------------------------(本文)---------------------------
一人家族と遮断されたY彦は、やれ帰国だ、やれシベリア送りだと風聞の飛び交う中で、何も考えないことに決めていた。
根が陽気な性格が支えになった。
十月になると、3000、5000と何処へともなく送られ始めて、Y彦を含む2000人ほどの部隊が東海岸の港興南(フンナム)へ来たのは10月も末に近かった。
ここでまた二ケ月も待たされ、ソ連の船に載せられたのは、昭和21年が明けた早々正月2日だった。
その頃になると、日本へ帰るための乗船などという希望は誰も持たなくなっていた。
船は不安で黙り込んだ2000の兵を乗せて、朝鮮とソ連の国境をなす豆満江の沖を廻り込んで、シベリア最南端の小さな港ポシェトに入った。
そこからはみすぼらしい貨車に載せられて、止まったり動いたりの旅を繰り返しながら、一週間も掛けて少し大きな町らしいアルセニエフで降ろされたのは、1月9日だった。
アルセニエフというのは、後年、黒澤明の映画「デルス・ウザーラ」で知られるようになった、ロシア人探検家の名を取った、一帯では大きな街である。
しかし俘虜の中にそんな知識のあるものが居る筈もなく、どのあたりなのか見当もつかないが、それほどの奥地でもなさそうだった。
寒さは厳しいには違いなかったが、満州とそんなに違うようには感じられなかった。
食べ物は貧弱ながら餓死者が出るほどのひどさでなかったのは、帰国してから、シベリア奥地へ収容された者から聞かされた悲惨な話しに比べればましだった。
アルセニエフから更にトラックで、ただ切り開いたというだけの悪路を、丸一昼夜かけて運ばれたのが、テツヘ(テチューハ)という朝鮮語名の町だった。
鉱山の町である。
地形の故か雪はあまり多くない。
周囲の山はなだらかな丘といった感じで、タイガといっても針葉樹よりは落葉樹のほうが多く見受けら秋には紅葉が美しかった。
現在ではアルセニエフから鉄道も引かれ、町の名もダリニゴルスクとロシア名に変わっている。
Y彦にとって幸運だったのは、連れて行かれた収容所が、シベリアといっても最南端、緯度では北海道と同じくらいの位置にあり、寒さも雪も耐えられないほどのものではなかったことだ。
ここで指物店にいた経験が役に立った。
宿舎の建設、保全、改良など仕事は尽きない。
大部分の俘虜たちが、鉱山や道路建設の重労働に追われていた間も、屋内の仕事が主だったのは幸運だった。
周りの森林は針葉樹と広葉樹が混じりあった、比較的緩やかで明るい森に覆われていた。
ロシア人はタイガと呼んでいたが、印象としては明るく日本の東北山地の森に近かった。
抑留中は知るよしもなかったが、この鉱山町は、50万人以上とも言われるソ連に拉致された俘虜たちの中で、シベリアでも最南部の抑留地だった。
少しづつ待遇は改善されたとはいえ、辛い三年半を過ごした。
今ではこの街もダリニゴルスクとロシア名に変わって、昔の暗い影はなくなっているそうだ。
殆どの日本兵と同じく、Y彦もまた俘虜時代のことを語ろうとしなかった。
20歳になるやいなや軍隊にとられ、4年近くの軍隊生活とそれに続く4年間の抑留生活は、精神の自由を容赦なく奪った。
青年時代の殆ど全てを最も苦難な精神的な強制の下に置かれた、典型的な不運な世代だった。
その間の価値観のブレは容易に納得のゆくものではなく、ただ黙るよりなかったのは、多くの同世代人の姿勢と同じだった。
------------------------(終り)---------------------------
Y彦おじさんは、何でもざっくばらんに話してくれる人だった。
なのにシベリヤ抑留の話だけは口を閉ざしていたというのは、想像しがたい重さを感じる。
昭和23年 8.13(1948)大韓民国樹立
昭和23年 9. 9(1948)朝鮮民主主義人民共和国樹立
昭和24年10. 1(1949)中華人民共和国樹立
昭和25年 6.25(1950)朝鮮戦争始まる ~ 1953.7.27 休戦協定成立
昭和26年 9. 8(1951)対日講和条約調印
------------------------(本文)---------------------------
一人家族と遮断されたY彦は、やれ帰国だ、やれシベリア送りだと風聞の飛び交う中で、何も考えないことに決めていた。
根が陽気な性格が支えになった。
十月になると、3000、5000と何処へともなく送られ始めて、Y彦を含む2000人ほどの部隊が東海岸の港興南(フンナム)へ来たのは10月も末に近かった。
ここでまた二ケ月も待たされ、ソ連の船に載せられたのは、昭和21年が明けた早々正月2日だった。
その頃になると、日本へ帰るための乗船などという希望は誰も持たなくなっていた。
船は不安で黙り込んだ2000の兵を乗せて、朝鮮とソ連の国境をなす豆満江の沖を廻り込んで、シベリア最南端の小さな港ポシェトに入った。
そこからはみすぼらしい貨車に載せられて、止まったり動いたりの旅を繰り返しながら、一週間も掛けて少し大きな町らしいアルセニエフで降ろされたのは、1月9日だった。
アルセニエフというのは、後年、黒澤明の映画「デルス・ウザーラ」で知られるようになった、ロシア人探検家の名を取った、一帯では大きな街である。
しかし俘虜の中にそんな知識のあるものが居る筈もなく、どのあたりなのか見当もつかないが、それほどの奥地でもなさそうだった。
寒さは厳しいには違いなかったが、満州とそんなに違うようには感じられなかった。
食べ物は貧弱ながら餓死者が出るほどのひどさでなかったのは、帰国してから、シベリア奥地へ収容された者から聞かされた悲惨な話しに比べればましだった。
アルセニエフから更にトラックで、ただ切り開いたというだけの悪路を、丸一昼夜かけて運ばれたのが、テツヘ(テチューハ)という朝鮮語名の町だった。
鉱山の町である。
地形の故か雪はあまり多くない。
周囲の山はなだらかな丘といった感じで、タイガといっても針葉樹よりは落葉樹のほうが多く見受けら秋には紅葉が美しかった。
現在ではアルセニエフから鉄道も引かれ、町の名もダリニゴルスクとロシア名に変わっている。
Y彦にとって幸運だったのは、連れて行かれた収容所が、シベリアといっても最南端、緯度では北海道と同じくらいの位置にあり、寒さも雪も耐えられないほどのものではなかったことだ。
ここで指物店にいた経験が役に立った。
宿舎の建設、保全、改良など仕事は尽きない。
大部分の俘虜たちが、鉱山や道路建設の重労働に追われていた間も、屋内の仕事が主だったのは幸運だった。
周りの森林は針葉樹と広葉樹が混じりあった、比較的緩やかで明るい森に覆われていた。
ロシア人はタイガと呼んでいたが、印象としては明るく日本の東北山地の森に近かった。
抑留中は知るよしもなかったが、この鉱山町は、50万人以上とも言われるソ連に拉致された俘虜たちの中で、シベリアでも最南部の抑留地だった。
少しづつ待遇は改善されたとはいえ、辛い三年半を過ごした。
今ではこの街もダリニゴルスクとロシア名に変わって、昔の暗い影はなくなっているそうだ。
殆どの日本兵と同じく、Y彦もまた俘虜時代のことを語ろうとしなかった。
20歳になるやいなや軍隊にとられ、4年近くの軍隊生活とそれに続く4年間の抑留生活は、精神の自由を容赦なく奪った。
青年時代の殆ど全てを最も苦難な精神的な強制の下に置かれた、典型的な不運な世代だった。
その間の価値観のブレは容易に納得のゆくものではなく、ただ黙るよりなかったのは、多くの同世代人の姿勢と同じだった。
------------------------(終り)---------------------------
Y彦おじさんは、何でもざっくばらんに話してくれる人だった。
なのにシベリヤ抑留の話だけは口を閉ざしていたというのは、想像しがたい重さを感じる。
きんと政楠 (32) Y彦三度目の招集、そして終戦
戦後兄弟はそれぞれの道を歩き出す。
Y彦おじさんを除いて。
------------------------(本文)---------------------------
息も絶え絶えの国内に比べ、ソ連軍が日ソ中立条約を破って8月9日不意に攻め込んでくるまで、満州は平和と呼べるほど落ち着いていた。
Y彦は内地へ避難しようとは思いもしなかったが、昭和20年7月、現地召集になり朝鮮北部の定平(チョンピョン)第137師団に入隊したとき、Y彦は事の重大さを一瞬にして思い知らされた。
武器らしき装備もなく、衣服も不足し、食料すら二日分しか無く、ただ集まっただけといった情けない状態だった。
やがてソ連軍は清津(チョンチン)に上陸、海岸部を抑えてしまったので、師団長はやむなく平壌(ピョンヤン)への撤退を命じ自らは自決した。
一万余の兵は平壌に向ったが、元山(ウオンサン)も既にソ連軍に抑えられていたので、途中永興(ヨンファン)から峻険な山道を越えて150kmsもある平壌まで僅か2日でたどり着いた。
8月20日だった。
7月7日に召集されてから、僅か一ヵ月半での変りようだった。
ここでソ連軍により武装解除され、9月2日には東方15kmsほどの旧平壌師団の野営演習場、三合里に集結させられていよいよ俘虜としての生活が始まった。
集められた兵士は2万を越えていた。
A彦は幸い焼け残った妻静子の実家近くに借家を見つけ、指物職に戻った。
A彦に二番目の子供が産まれそうになった21年10月、YUが疫痢で亡くなった。
敗戦後の最悪の衛生状態、食糧事情の中の悲劇と呼ぶべきだろうか。
しかし直後の次男Hの誕生が大きな打撃から夫婦を救った。
T彦はしばらくはA彦の手伝いをしていたが、やがてA彦の学友の紹介で鳥取へ行き、菓子職人の道を歩み始めた。
F彦も亦A彦の世話で繊維問屋に働き口が見つかって、それぞれが自立の道を探し始めてきんを安心させた。
ただ満州のY彦だけは消息がつかめず、きんの心配は何時終わるとも知れなかったが、昭和22年になって漸く葉書が届きシベリアで無事なことが判明した。
しかしシベリアのどの辺りなのか見当もつかず、最近の復員船からもたらされる情報は、極寒の地で餓死するものや凍死するものも多数あるとか、きんに心配は尽きない。
瀧之助家族は、呼続の家を空襲で焼かれ、飛騨の山奥馬瀬村へ疎開したままだった。
------------------------(終り)---------------------------
A彦おじさんは指物師に戻り、T彦おじさんは菓子職人、父F彦は繊維問屋(実態は闇屋)に職を得て、戦後を歩き出した。
Y彦おじさんの時計だけが止まったままだ。
Y彦おじさんを除いて。
------------------------(本文)---------------------------
息も絶え絶えの国内に比べ、ソ連軍が日ソ中立条約を破って8月9日不意に攻め込んでくるまで、満州は平和と呼べるほど落ち着いていた。
Y彦は内地へ避難しようとは思いもしなかったが、昭和20年7月、現地召集になり朝鮮北部の定平(チョンピョン)第137師団に入隊したとき、Y彦は事の重大さを一瞬にして思い知らされた。
武器らしき装備もなく、衣服も不足し、食料すら二日分しか無く、ただ集まっただけといった情けない状態だった。
やがてソ連軍は清津(チョンチン)に上陸、海岸部を抑えてしまったので、師団長はやむなく平壌(ピョンヤン)への撤退を命じ自らは自決した。
一万余の兵は平壌に向ったが、元山(ウオンサン)も既にソ連軍に抑えられていたので、途中永興(ヨンファン)から峻険な山道を越えて150kmsもある平壌まで僅か2日でたどり着いた。
8月20日だった。
7月7日に召集されてから、僅か一ヵ月半での変りようだった。
ここでソ連軍により武装解除され、9月2日には東方15kmsほどの旧平壌師団の野営演習場、三合里に集結させられていよいよ俘虜としての生活が始まった。
集められた兵士は2万を越えていた。
A彦は幸い焼け残った妻静子の実家近くに借家を見つけ、指物職に戻った。
A彦に二番目の子供が産まれそうになった21年10月、YUが疫痢で亡くなった。
敗戦後の最悪の衛生状態、食糧事情の中の悲劇と呼ぶべきだろうか。
しかし直後の次男Hの誕生が大きな打撃から夫婦を救った。
T彦はしばらくはA彦の手伝いをしていたが、やがてA彦の学友の紹介で鳥取へ行き、菓子職人の道を歩み始めた。
F彦も亦A彦の世話で繊維問屋に働き口が見つかって、それぞれが自立の道を探し始めてきんを安心させた。
ただ満州のY彦だけは消息がつかめず、きんの心配は何時終わるとも知れなかったが、昭和22年になって漸く葉書が届きシベリアで無事なことが判明した。
しかしシベリアのどの辺りなのか見当もつかず、最近の復員船からもたらされる情報は、極寒の地で餓死するものや凍死するものも多数あるとか、きんに心配は尽きない。
瀧之助家族は、呼続の家を空襲で焼かれ、飛騨の山奥馬瀬村へ疎開したままだった。
------------------------(終り)---------------------------
A彦おじさんは指物師に戻り、T彦おじさんは菓子職人、父F彦は繊維問屋(実態は闇屋)に職を得て、戦後を歩き出した。
Y彦おじさんの時計だけが止まったままだ。
きんと政楠 (31) 敗戦への道
時代背景は・・・
昭和18年 9. 8(1943)イタリア降伏
昭和19年 6. 6(1944)連合軍ノルマンデイーに上陸
昭和19年 7-8(1944)サイパン/テニアン島陥落
昭和19年 8.24(1944)連合軍パリ入城
昭和19年11.24(1944)日本本土空襲始まる
昭和19年12. 7(1944)東南海大地震
昭和20年 4. 1(1945)米軍沖縄本島に上陸
昭和20年 4.30(1945)ヒトラー自殺 (5.7 ドイツ軍 無条件降伏)
昭和20年 8. (1945)広島、長崎に原子爆弾投下
昭和20年 8.15(1945)日本降伏、第二次世界大戦終わる
------------------------(本文)---------------------------
立原が誰にも看取られずひっそりと山科で亡くなってから一年もしない翌昭和19年3月、A家の総領喜之助が末の息子瀧之助のところで亡くなった。
遂に長男として弟妹たちを統率できないままだった。
そしてその二年後には、結核を病んでいたその子正一までもが他界してしまった。
悲劇は終わらない。
更に半年後には、同じく結核で会社も休職していたTO彦までもが消え入るように息を引き取った。
TO彦の死はきんに悔やみきれない悔いを残した。
戦中戦後の食糧事情の悪さに、結核をこうまで悪くさせた原因の大半があるのははっきりしていたが、それでもきんにすれば、TO彦を手許において看病してやれなかった姉たかへの恨みと悔しさに、何時までも責め苛まれ泣き続けた。
TO彦の死の直後に襲った南海道地震が、主の居なくなった小倉の家を倒壊させたのは、あまりに象徴的だった。
世代は確実に移りつつあった。
昭和18年元旦、Sに長男TEが生れた。
翌19年夏には、体が弱いから子供は無理だろうと言われていたA彦の妻静子にも、長男YUが生れた。
20年3月にはSの長女八重子が、日々激しさを増す空襲を避けて、宮山で生れた。
昭和18年に入る頃から日独伊三国側の敗勢が一気に現れ始めた。
先ずイタリアが降伏し、東西からドイツを一気に押しつぶしに掛かった。
ドイツが徹底的に破壊され降伏すると、時を同じうして日本もまた延びきった戦線を急速に巻き返されていた。
本土への爆撃が日を追って激しくなり、沖縄が占領され、そして原子爆弾で息の根を止められた。
精根尽き果てた感じで日本の敗戦が訪れた。
全ての決定がマッカーサー率いるGHQ(General Headquarter)の命令でなされるようになった。
A彦、T彦、F彦の3人は九州と浦賀で敗戦となり、一週間ほどの間に帰ってきた。
------------------------(終り)---------------------------
日本中の主要都市が空襲で焼き尽くされ、とどめの原爆で遂に無条件降伏。
もう少し早く降伏していたら、戦後の復興も早かったろうに。
ただ、A家5人の男兄弟のうち3人が国内で終戦を迎えたのは幸運だった。
昭和18年 9. 8(1943)イタリア降伏
昭和19年 6. 6(1944)連合軍ノルマンデイーに上陸
昭和19年 7-8(1944)サイパン/テニアン島陥落
昭和19年 8.24(1944)連合軍パリ入城
昭和19年11.24(1944)日本本土空襲始まる
昭和19年12. 7(1944)東南海大地震
昭和20年 4. 1(1945)米軍沖縄本島に上陸
昭和20年 4.30(1945)ヒトラー自殺 (5.7 ドイツ軍 無条件降伏)
昭和20年 8. (1945)広島、長崎に原子爆弾投下
昭和20年 8.15(1945)日本降伏、第二次世界大戦終わる
------------------------(本文)---------------------------
立原が誰にも看取られずひっそりと山科で亡くなってから一年もしない翌昭和19年3月、A家の総領喜之助が末の息子瀧之助のところで亡くなった。
遂に長男として弟妹たちを統率できないままだった。
そしてその二年後には、結核を病んでいたその子正一までもが他界してしまった。
悲劇は終わらない。
更に半年後には、同じく結核で会社も休職していたTO彦までもが消え入るように息を引き取った。
TO彦の死はきんに悔やみきれない悔いを残した。
戦中戦後の食糧事情の悪さに、結核をこうまで悪くさせた原因の大半があるのははっきりしていたが、それでもきんにすれば、TO彦を手許において看病してやれなかった姉たかへの恨みと悔しさに、何時までも責め苛まれ泣き続けた。
TO彦の死の直後に襲った南海道地震が、主の居なくなった小倉の家を倒壊させたのは、あまりに象徴的だった。
世代は確実に移りつつあった。
昭和18年元旦、Sに長男TEが生れた。
翌19年夏には、体が弱いから子供は無理だろうと言われていたA彦の妻静子にも、長男YUが生れた。
20年3月にはSの長女八重子が、日々激しさを増す空襲を避けて、宮山で生れた。
昭和18年に入る頃から日独伊三国側の敗勢が一気に現れ始めた。
先ずイタリアが降伏し、東西からドイツを一気に押しつぶしに掛かった。
ドイツが徹底的に破壊され降伏すると、時を同じうして日本もまた延びきった戦線を急速に巻き返されていた。
本土への爆撃が日を追って激しくなり、沖縄が占領され、そして原子爆弾で息の根を止められた。
精根尽き果てた感じで日本の敗戦が訪れた。
全ての決定がマッカーサー率いるGHQ(General Headquarter)の命令でなされるようになった。
A彦、T彦、F彦の3人は九州と浦賀で敗戦となり、一週間ほどの間に帰ってきた。
------------------------(終り)---------------------------
日本中の主要都市が空襲で焼き尽くされ、とどめの原爆で遂に無条件降伏。
もう少し早く降伏していたら、戦後の復興も早かったろうに。
ただ、A家5人の男兄弟のうち3人が国内で終戦を迎えたのは幸運だった。
きんと政楠 (30) A彦T彦の招集、F彦は予科練へ
兄弟は戦争の渦に巻き込まれていく。
------------------------(本文)---------------------------
昭和19年に入ると戦局は益々悲観的になってきたが、実際に目の前に爆弾が落ちてくるまでは切実感というのは起きにくいものだ。
ましてテレビもなく徹底的に報道が管理されていたのでは無理もなかった。
6月にはやがて32才になろうというA彦にまで召集令状が来た。
二人を見送りにY彦が急ぎ満州から帰国して、久し振りというより殆ど初めてきんと6人の子供が揃って写真に納まった、そしてそれが最後の家族写真になった。
Y彦はすぐにまた満州へ引き返し、F彦も続いて予科練に応募し、勇んで大津近郊の海軍滋賀航空隊へ入隊して行った。
丁度その頃から、支那奥地から飛び立ったアメリカの空軍による爆撃が九州の重工業地帯を襲い始めた。
そして11月には遂にサイパン・テニアンからの空爆が日本全土を覆い、日に日に激しくなっていった。
TO彦の勤めていた三菱航空機も真っ先に爆撃目標になったが、結核の症状が重くなっていたTO彦は、既に自宅療養となっており難を逃れた。
昭和20年になると、小学生を除き全ての学徒に学業の一年間の停止が発令されるという滅茶苦茶な事態になった。
6月には18才にも届いていないT彦にまで召集令状が来て福岡へ赴いていった。
一人ぼっちになったきんを、TO彦が時々様子を見にやってきたが、坂道をあえぎながら登ってくる息遣いに、きんは言いようのない不安を覚えていた。
------------------------(終り)---------------------------
「小学生を除き全ての学徒に学業の一年間の停止」って、初めて知ったが無茶苦茶な話だ。
日本の将来を全く考えていない政府の方針。
戦況改善に効果があるとは思えず、「本気で一億玉砕を考えていたのか」と思ってしまう。
予科練での父のエピソードは、以下参照。
終戦記念日(2011.8.15)
http://spacecowboys33.blog130.fc2.com/blog-entry-823.html
------------------------(本文)---------------------------
昭和19年に入ると戦局は益々悲観的になってきたが、実際に目の前に爆弾が落ちてくるまでは切実感というのは起きにくいものだ。
ましてテレビもなく徹底的に報道が管理されていたのでは無理もなかった。
6月にはやがて32才になろうというA彦にまで召集令状が来た。
二人を見送りにY彦が急ぎ満州から帰国して、久し振りというより殆ど初めてきんと6人の子供が揃って写真に納まった、そしてそれが最後の家族写真になった。
Y彦はすぐにまた満州へ引き返し、F彦も続いて予科練に応募し、勇んで大津近郊の海軍滋賀航空隊へ入隊して行った。
丁度その頃から、支那奥地から飛び立ったアメリカの空軍による爆撃が九州の重工業地帯を襲い始めた。
そして11月には遂にサイパン・テニアンからの空爆が日本全土を覆い、日に日に激しくなっていった。
TO彦の勤めていた三菱航空機も真っ先に爆撃目標になったが、結核の症状が重くなっていたTO彦は、既に自宅療養となっており難を逃れた。
昭和20年になると、小学生を除き全ての学徒に学業の一年間の停止が発令されるという滅茶苦茶な事態になった。
6月には18才にも届いていないT彦にまで召集令状が来て福岡へ赴いていった。
一人ぼっちになったきんを、TO彦が時々様子を見にやってきたが、坂道をあえぎながら登ってくる息遣いに、きんは言いようのない不安を覚えていた。
------------------------(終り)---------------------------
「小学生を除き全ての学徒に学業の一年間の停止」って、初めて知ったが無茶苦茶な話だ。
日本の将来を全く考えていない政府の方針。
戦況改善に効果があるとは思えず、「本気で一億玉砕を考えていたのか」と思ってしまう。
予科練での父のエピソードは、以下参照。
終戦記念日(2011.8.15)
http://spacecowboys33.blog130.fc2.com/blog-entry-823.html
きんと政楠 (29) 政楠の死
時代は太平洋戦争へ突入していく
昭和13年 3.13(1938)ドイツ、オーストリア併合を宣言
昭和14年 7. (1939)ノモンハン事件
昭和14年 9. 1(1939)ドイツ ポーランド侵攻 第二次世界大戦始まる
昭和15年 5. 1(1940)ドイツ オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス侵攻(6.14 パリ占領)
昭和15年 9.23(1940)日本軍 北部佛印進駐
昭和16年 6.22(1941)ドイツ vs ソ連 開戦
昭和16年 7.28(1941)日本軍 南部佛印進駐
昭和16年12. 8(1941)大東亜戦争(太平洋戦争)始まる
------------------------(本文)---------------------------
ヒトラーのドイツが近隣諸国を次々と席捲しはじめると、同盟国日本もその雰囲気に飲み込まれるように、インドシナに手を出し、遂に引き返せなくなった。
そして敗戦の日を迎えるまでの間の三年半、きんの周りにもまた色々な不幸が訪れた。
長姉ようの長男、六次郎はかねて精神を病んで、座敷牢に閉じ込められていたが、いつの間にか居なくなると近くの山で縊死しているのが見つかった。
父親、つまりようの亭主もまた、20年前に同じ山で縊死したという因縁めいた噂が、歳の離れた姉妹の耳に痛いように伝わった。
二度目の召集から除隊してきたY彦は、満州で知り合った現地日本人商社の社長に誘われて、向うで働きたいと今度は民間人として改めて満州へ渡る決意をしていた。
折角無事に帰ったY彦を引き止めようと、きんは必死に反対したが、働き口の当てがあるわけではなし黙認せざるを得なかった。
昭和17年の暮れ近く、25歳になったばかりのY彦は再び関釜連絡船に乗るべく意気揚々と西へ向った。家を出る間際にきんからそっと言われた通り、父立原政楠を見舞うべく京都山科駅に途中下車した。
きんからは、
京都で警察の厄介なったらしいこと、
ただ微罪だったことと老齢で体を悪くしているため、西本願寺の慈善施設で世話になっているとのこと、
会いたいといって二三度手紙があったこと、
この前宮山の家を出て行ったときから私はもう会わないと決心したこと、
お前も外地へ行くのなら一目会って往っておくれというようなことが、
涙と共に語られたのだった。
こうしてY彦が家族の中でただ一人最晩年の父と面会して満州での就職に旅立った。
T彦は高2(高等小学年=今の中2)を卒業すると同時に、豊田系の鉄鋼会社に就職して、TO彦と同じように名鉄で聚楽園の工場へ通いだした。
やがて30才になるA彦は、20年近くも勤め上げた恒川商店から離れて、牧野町に借家を見つけて独立し一人暮らしを始めた。
「お前も名古屋へ出てくるか」と言われて二つ返事でF彦がそこへ転がり込んできた。
昭和17年夏、二学期から豊国高等小学校へ編入された。
しかしその翌年春には、A彦が俳句仲間の中京商業の副校長に頼んでくれて、給仕として雇ってもらった。
ただし夜学の授業料は免除するという条件だった。
こうして忽ちのうちにきんの身の回りは閑散としてしまった。
あらゆる生活物資までが統制経済で、日に日に不自由になってゆく中で、A彦と静子の慎ましやかな結婚式が行われた。
そして間もなくA彦のもとへ「チチキトク」の電報が舞い込んだが、A彦は無視した。
その態度が無言の威圧となって母きんをも拘束したのだった。
昭和18年4月12日立原政楠は寂しく死んだ。
きんはA彦に遠慮して自分では行かず、T彦に山科へ遺骨をもらいに往かせた。
------------------------(終り)---------------------------
A彦おじさんは、生涯政楠を許さなかった、と聞いている。
昭和13年 3.13(1938)ドイツ、オーストリア併合を宣言
昭和14年 7. (1939)ノモンハン事件
昭和14年 9. 1(1939)ドイツ ポーランド侵攻 第二次世界大戦始まる
昭和15年 5. 1(1940)ドイツ オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス侵攻(6.14 パリ占領)
昭和15年 9.23(1940)日本軍 北部佛印進駐
昭和16年 6.22(1941)ドイツ vs ソ連 開戦
昭和16年 7.28(1941)日本軍 南部佛印進駐
昭和16年12. 8(1941)大東亜戦争(太平洋戦争)始まる
------------------------(本文)---------------------------
ヒトラーのドイツが近隣諸国を次々と席捲しはじめると、同盟国日本もその雰囲気に飲み込まれるように、インドシナに手を出し、遂に引き返せなくなった。
そして敗戦の日を迎えるまでの間の三年半、きんの周りにもまた色々な不幸が訪れた。
長姉ようの長男、六次郎はかねて精神を病んで、座敷牢に閉じ込められていたが、いつの間にか居なくなると近くの山で縊死しているのが見つかった。
父親、つまりようの亭主もまた、20年前に同じ山で縊死したという因縁めいた噂が、歳の離れた姉妹の耳に痛いように伝わった。
二度目の召集から除隊してきたY彦は、満州で知り合った現地日本人商社の社長に誘われて、向うで働きたいと今度は民間人として改めて満州へ渡る決意をしていた。
折角無事に帰ったY彦を引き止めようと、きんは必死に反対したが、働き口の当てがあるわけではなし黙認せざるを得なかった。
昭和17年の暮れ近く、25歳になったばかりのY彦は再び関釜連絡船に乗るべく意気揚々と西へ向った。家を出る間際にきんからそっと言われた通り、父立原政楠を見舞うべく京都山科駅に途中下車した。
きんからは、
京都で警察の厄介なったらしいこと、
ただ微罪だったことと老齢で体を悪くしているため、西本願寺の慈善施設で世話になっているとのこと、
会いたいといって二三度手紙があったこと、
この前宮山の家を出て行ったときから私はもう会わないと決心したこと、
お前も外地へ行くのなら一目会って往っておくれというようなことが、
涙と共に語られたのだった。
こうしてY彦が家族の中でただ一人最晩年の父と面会して満州での就職に旅立った。
T彦は高2(高等小学年=今の中2)を卒業すると同時に、豊田系の鉄鋼会社に就職して、TO彦と同じように名鉄で聚楽園の工場へ通いだした。
やがて30才になるA彦は、20年近くも勤め上げた恒川商店から離れて、牧野町に借家を見つけて独立し一人暮らしを始めた。
「お前も名古屋へ出てくるか」と言われて二つ返事でF彦がそこへ転がり込んできた。
昭和17年夏、二学期から豊国高等小学校へ編入された。
しかしその翌年春には、A彦が俳句仲間の中京商業の副校長に頼んでくれて、給仕として雇ってもらった。
ただし夜学の授業料は免除するという条件だった。
こうして忽ちのうちにきんの身の回りは閑散としてしまった。
あらゆる生活物資までが統制経済で、日に日に不自由になってゆく中で、A彦と静子の慎ましやかな結婚式が行われた。
そして間もなくA彦のもとへ「チチキトク」の電報が舞い込んだが、A彦は無視した。
その態度が無言の威圧となって母きんをも拘束したのだった。
昭和18年4月12日立原政楠は寂しく死んだ。
きんはA彦に遠慮して自分では行かず、T彦に山科へ遺骨をもらいに往かせた。
------------------------(終り)---------------------------
A彦おじさんは、生涯政楠を許さなかった、と聞いている。