鏡での逆転を考える内、普段何気なく使っている3次元の方向を示す上下・前後・左右がそれぞれ成り立ちも性質も違うことに気がついた。
上下は繰り返し述べたように、重力により位相が固定されているので絶対座標からの借用ですませている。
前後は目の位置で簡単に決まる。
左右は前後が決まってからそれに付随して決まる。
また、絶対座標としての上下は特殊な状況(鏡を差し上げる)をつくらないと鏡面でも逆転しないし、相対的には逆転している状況は他にも作れる(うつ伏せで鏡を見る)が、相対的な概念を表す言葉がないから認識されない。
前後は目によって決まるわかりやすいものであるし、頭の後ろに目はないから認識も限定されている。
それにくらべて左右はあいまいな概念故悩ましい。
それらしいことを言い方は違えど、繰り返し書いてきたが、前後と左右にはもう一つ大きな違いがあることに気がついた。
鏡での逆転は光の性質によるものが加わってより話が複雑になるので、相対した二人の人間を例に取りたい。
こちら側にとっても相手にとっても上下は同じ。
こちらの右側は相手の左側で、逆転している。
では前後はどうか?
こちらにとっての前方は相手にとって後方で、実は逆転している。
なのに左右だけが問題になるのはなぜか?
前後は簡単に逆転するので混乱しないのに、左右ははっきりしないからではないか?
相手の体に何か付いているのを指摘する場合、頭の後ならばすぐ相手の位相に立って後ろに付いてると言うだろう。
車で道を譲れと言う場合にも下がれと言う。
鼻の横に付いてる場合、特に意識しなければ自分から見た左右を言う方が多いのではないか?
あえて注釈付きで言うかもしれない。
肩や手など属性がはっきりしている場合、相手の側の位相で言う場合が増えるような気がする。
逆転しない上下、逆転しやすい前後、あいまいな左右となってる。
外部の重力で決められている上下、人間自身の目の位置で決まっている前後はそれぞれはっきりしているが、左右前後に付随している上に、対称で形状は同じなのが原因か?
先にも書いたが、もし右が鉤爪で左が鋏ならどうか?
その場合、鉤鋏ではなく方向を示す言葉は別に作られたような気はする。
例えば3時、9時のように。
でも成立は随分遅れるような気がする。
続きを読む
テーマ : 自然科学
ジャンル : 学問・文化・芸術