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御父上の訃報に接して

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御父上の訃報を聞いて、勿論驚きはありましたが、容態が悪くなられたとの連絡をもらった後その話が出ないので、もしやとの危惧を抱きました。
先のメールにてよく事情が呑み込めました。

私はお宅にお邪魔した折、何度かほんの短い会話をさせていただいたことがあるだけだったのですが、肩の力の抜けて飄々とした風情に心惹かれたものでした。

そんな短い時間では伺い知ることのできない経験をお持ちなのを知ったのは、このブログで御父上の書かれた旅行記や随想を紹介させていただくようになってからでした。
逞しく生き抜く術をも持ちながら、しなやかに御自分のスタイルを貫かれる底には高い倫理感が流れているのを感じたものですが、今回のご挨拶状を拝見させていただき成る程と腑に落ちました。

また、それはAにも色濃く受け継がれているのは言うまでもありません。

それにしても、御父上らしい粋な逝き方で、憧れてしまいます。

達者な筆致で書かれた御父上の文章は、歴史的にも価値のあるものなので、我がブログに掲載させていただいたことを誇りに思うところであります。

皆様にもまたぜひご覧いただきたいと思います。

改めてご冥福をお祈りします。
AvatarA

父の書いた文章や父に関する文章を「父の話」というカテゴリにまとめました。

「父の話」は以下の4つのカテゴリに細分化してあります。




「1965年の世界一周」

  近東からアフリカ・欧州・中南米・アメリカを巡る父の旅行記
  父36歳、初めての海外旅行

「南米1971」

  世界一周から6年後、南米を中心とした商談旅行記
  ニクソンショック(ドルショック)直前の世界はどこかのんびりしている

「思い出すまま」

  父のエッセイ
  昭和という時代のにおいが感じられる

「思い出話」

  それ以外の話


テーマ : こんなことがありました
ジャンル : ブログ

父の挨拶状

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「死亡連絡」で触れた父の最期の挨拶状を紹介します。





各位  様

                           ご 挨 拶

 拝啓 突然ですが小生去る7月29日、三途の川を渡りこちらに参りました。大変永い間いろいろとお世話になり又ご迷惑もお掛けしましたこと、遅蒔きながら心より御礼申し上げます。
 葬式は行わず、人様には余計なお心遣いを戴きませぬよう言い残してありますので、遅くなりましたがこうしてお知らせする次第です。生来の臍曲がりなせいか、それともB型の血のなせる技か、はたまた世間を斜に見続けてきた癖か、何かこう少し違うことがしたくて、最後の自己満足のため、別に坊主と葬儀屋に恨みが有る訳ではないのですが、少し鼻をあかしてやれたらと思い立ったわけです。でも、長い間仲良くして下さった皆さんには、無駄な気遣いとご足労をお掛けしなくて済むという位の、プラスの評価をしてもらえるのではないかと、高を括っております。『何事も無かったように』この世を去るのが生来の希望でありましたから諒として下さい。
 思えばつくづく幸運に恵まれた生涯でありました。最初に働き始めた中京商業(名古屋)で給仕としての一年余り。予科練習性として海軍に籍を置いた一年間。勝野商店(岐阜・羽島)で織物の知識と仕事を教わった三年半。そして神戸に来てからの六十年余。巡り会った人たち皆さんがどういう訳か可愛がり、親切に教えて下さり、誠実にお付き合い戴きました。お蔭様で大した迷惑も掛けずに、笑って「有難うございました」と手を振ってお別れが出来ます。ただ一つ女房が先に亡くなったのが不運といえば不運ですが、今度はこちらで諸先輩とともに、待っていてくれるのですから、心強い限りです。
物心ついてからの八十年余りの間、忘れ難い教えを受けた先輩諸兄も、多くは既にこちらへ来ておられるので、お目に掛かってお礼が出来るかと思うと、寧ろ楽しみでもあります。その折にはご家族の近況も報告しましょう。1989年に仕事から退いた後は、誠に自由につまり我が侭に生きられたことは、何物にも代え難い喜びでした。心を伸びやかにして[少し人様に喜んでもらえたら]という気持ちが、私なりに得られたヒントでした。ものの考え方、生き方を教わった方々は数限りなくありますが中で特に感銘を受けたのは、次の方々です:

  西行法師  己を捨てることを少しでも倣いたいと、一人旅も随分しましたが所詮愚者の猿真似でしかありませんでした。欲から離れたいとき常に師の影を求めていたのは、確かです。

  山岡鉄舟  維新の西郷と勝の会談を可能ならしめたのは、鉄舟の胆力に因ることはもっと知られなければなりません。その後も無私無欲の生涯は最も尊敬に値するものです。揺らぎのない精神を学びたかったのですが!

  辰野 隆  十九世紀のフランス文学の面白さを、またユーモアを学びました。一方、「彼は落第して政治家になった」という皮肉に毒され、遂に政治家一般を尊敬できなくなったのも事実です。

  小林秀雄  「人間は言葉でものを考える」つまり言葉にならないような考えは、考えといえるようなものではないことを、気付かされました。

  山本夏彦  箴言を数えれば限が無い。昨今喧しい『核』について、「人間一度手に入れたものは、捨てられない」と喝破した覚めた眼が心に残る。

  他にも、山本七平、渡部昇一、養老猛司など様々な方に教えられて、生き方の基本にして来ました。

誇れるようなものは何もありませんが、自分自身で律した「例え損をしても卑怯な事はしない」という拘りは一応貫くことが出来たと自負しております。

ではそろそろ女房と先輩諸兄に会いに参りましょう。皆さんいろいろ有り難う御座いました、どうぞお元気で・・・・・・

 何事も諸行無常です。

  ===========================
  さて次は閻魔の前で一芝居 浮世の戯れ言これでおしまい
  ===========================

                        信天翁
                              XXXXX 拝




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死亡連絡

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7月29日に父が亡くなった。
父の遺志で親戚にも知らせず、家族葬で見送った。

親族知人には、後日手紙でお知らせした。

追悼の意味をこめ、その手紙を公開します。


各位様

 7月29日の土曜日に父が亡くなりました。
 父は数年前から大脳皮質基底核変性症を患っておりました。パーキンソン症候群の一種で手足が不自由になるのが主な症状です。各種介護サービスを利用しながら家族で自宅で介護してきましたが、少しずつ病状は進んでいました。最近は頭は明晰でしたが段々に言葉が聞き取りにくくなっていました。そんな中、今年の1月に誤嚥性肺炎にかかり入院しました。肺炎自体は回復したのですが、入院中に手足の衰えが進んだ為、介護施設でリハビリにつとめ帰宅を目標にがんばってきました。しかし大脳皮質基底核変性症の影響で嚥下能力が低下していて誤嚥することが多くなっていきました。その結果6月にも誤嚥性肺炎にかかり、神戸中央病院に入院しました。誤嚥した食物が気管に残りそこにばい菌が入って肺炎を起こしたようです。もともと大脳皮質基底核変性症については、神戸中央病院の父が信頼するK先生に診ていただいておりました。
 入院中の父ですが、特に痛いとか苦しいとかはなかったようです。ただ、誤嚥を避けるために食べ物がゼリー状のものに限られたことが苦痛だったみたいで「固いものが食べたい」としょっちゅうこぼしていました。好きだったドンクのフランスパンなどを思い描いていたのでしょう。しかし、その許可は出ず、嚥下能力はさらに低下し、最後は点滴のみで栄養を補給している状態でした。そのせいか徐々に体力が衰えていきました。そんな中、7月になって主治医のK先生から「心の準備はしておくように」と言われていました。
 7月29日(土曜日)の朝6時過ぎに病院から「容態が悪い」との連絡があり、駆けつけましたが呼びかけても返事が無く、もうろうとした状態でした。呼吸が浅く、2度ほど停まったんですが、呼びかけると戻ってきてくれました。でも3度目の時はついに戻って来てくれず、昼の12時7分そのまま亡くなりました。88年と5日の人生でした。
 入院中は、手足が不自由だったり、好きなものが食べられないなどの不満はありましたが、特に苦しむことも無く、最後はウトウトしているうちに旅立ったので、その点では良かったと思っています。
 少し父のことを振り返らせてください。
 私の父は、昭和4年7月24日に愛知県の知多半島の小さな田舎町である大野町で生まれました。母親は海水浴客や巡礼目当ての旅館に勤め、父親は流れ者の絵描きでした。父親は家を空けることが多く、仕送りも途絶えがちで、子供の頃は相当貧乏したようです。尋常小学校を卒業した父は、高校野球で有名な中京商業の夜間に通い、英語の勉強などをしていました。日本が太平洋戦争に突入した後には予科練に入学し、飛行兵を目指しました。父から聞いた話の中で私が最も好きなエピソードは、この予科練時代のものです。
 戦争末期予科練にいた父は、静岡で特攻の訓練をしていました。予科練で特攻と言うと神風特攻隊を連想してしまいますが、当時16歳の父がやっていたのはもっと泥臭いものでした。米軍の本土侵攻に対抗するため、上陸船を海中で待ち構えて攻撃するという作戦。潜水服を着て海底に潜み、敵の上陸船が頭上を通過する際に棒の先に着けた爆弾を下から船底に突き上げて爆破するという人間機雷とでもいうものでした。当時の潜水服は重くて性能も悪く、訓練は過酷を極めたそうです。ある時、訓練中に潜水服の排気が出来なくなる故障が起きました。地上からはそれを知らずに空気を送り続けました。その結果潜水服は風船のようにパンパンに膨れて浮力が上がり海面に浮かび上がったそうです。極限まで膨れ上がった潜水服は手足がほとんど動かない。中の訓練生がいくらジタバタしてもどうしようもない状態に父達は腹を抱えて笑ったといいます。
「あんなに笑ったことはない」
 戦争末期、父達はみな自分達が近々死ぬことを意識している。それでも、笑いが起きたことに何か救われた気がしました。そして終戦。父達は特攻することなく軍籍地舞鶴まで行って除隊。別れ際に1年後の再会を堅く約したが、ついに再会することはなかったそうです。父は家に戻り数ヶ月ボーっと過ごした後、名古屋に出て闇屋になりました。そして戦後を生き抜いてきました。
 この膨れ上がった潜水服の話は何故か心に残ります。そして昭和二十年の八月、静岡の海岸の青い海と青い空に響いた少年達の笑い声が、日本復興への希望の歌のように思えるのです。「いつの日も希望は若者にある。」この話を思い出すたび、そう強く感じるのです。
 昭和24年に闇屋に見切りをつけ神戸に来て貿易業に携わります。昭和30年ごろ結核を患い長期入院しますが、この時看護婦だった母と知り合い結婚して私が生まれます。高度成長期の昭和40年から41年にかけて、中東・アフリカ・南米の取引先を廻り、あらたなマーケット拡大の為、120日間で世界を一周しました。当時の父は尊敬する先輩と「まず相手を信用することから商売を始める」をモットーに新たな貿易のやりかたを模索していました。この旅で父は、その考えが間違ってなかったことを確信したそうです。その後も毎年のように数ヶ月にわたり海外に渡航し、母をして「半ば母子家庭」と嘆かせたりしたようです。この旅行中にクウェートのホテルで、朝、向かいのモスクから聞こえてきたコーランの、ちょっと鼻に掛かった、朗唱が何とも素晴らしい声音で印象的だったと語っていました。
 この頃小学生だった私は父に色んな疑問をぶつけました。その答えはしばしばシンプルで印象的なものでした。当時『怪傑ゾロ』という外国ドラマが流行ってましたが、私が「ゾロと宮本武蔵はどっちが強いの?」と聞くと答えは「宮本武蔵」。「なんで?」と聞くと「練習量が違う」。冷戦時代だったので「社会主義と自由主義って何が違うの?」と聞くと「社会主義は自由より平等を優先し、自由主義は平等より自由を優先する」と分かりやすい答え。ベトナム戦争のニュースを見て「北ベトナムと南ベトナムはどっちが勝つの?」と聞くと「北。」「なんで?」「やる気が違う」とこれまたシンプルな回答。小学生への答えとしてこれ以上のものは中々お目にかかりません。これらの問答は今の私にとっても良きお手本であり、もちろん良き想い出でもあります。
 昭和46年のドルショックは貿易業には痛手でしたが、父達の会社は、アフリカ・中南米の大手が相手をしないような国にまで販路を広げていたのでなんとか乗り切れたようです。昭和が終わるころ、会社もやめ引退生活に入り、以後30年程は気楽に生活してきました。平成になって母がなくなってからは、総合運動公園の駐車場の係員のアルバイトをしていました。孫ぐらいの大学生のアルバイト仲間に囲まれ、結構楽しそうでした。元気な時は毎年のようにアルバイト仲間と我が家でバーベキューをしていました。学生達は卒業後もちょくちょく顔を見せてくれて、父も楽しみにしていました。
 亡くなる2週間ほど前に面会に行った時のことです。父がぽつりと「あっけないもんや」と言いました。私は「何言ってんの、戦争を生き延び、戦後の混乱期、高度成長期ドルショックにオイルショック、最後はバブルと激動の時代を生きてきたんじゃない。あっけないなんてものじゃないよ」と言いました。父は「そうか」と言って笑ってました。あの笑顔を思うと、そんなに悔いは無く逝けたんじゃないかと思います。
 父の希望で、親戚・知人関係にも知らせず家族葬で済ませました。当初は「葬式はしなくていい」と言ってたのですが、最近は「家族四人で送ってほしい」に変わってきていました。希望通り家族四人で最期をみとり、7月30日に通夜、31日に葬式を行いました。
 父の希望とはいえお知らせず大変失礼いたしました。こちらのほうに来られる機会がありましたら、是非お立ち寄りください。父の思い出話など出来れば嬉しいです。
 父は2年ほど前に亡くなった後のことを私たちに託すと共に、皆様への挨拶状を用意しておりました。そちらも同封しておりますので、是非お読みください。

平成29年8月11日 



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spacecowboys A H

Author:spacecowboys A H
Space Cowboys は、2人の親父です
"A" システムエンジニア・
   中日ファン・世情に疎い
"H" 総務畑・てっちゃん・
   阪神ファン・雑学が得意
2人ともイーストウッド好きの還歴男

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