貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯
「スリーダイヤ」の三菱のマークを知らない日本人はほとんどいないと思うのだが、戦後GHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥は三大財閥と呼ばれていた。三大財閥のうち三井、住友の両家はそれぞれ300年以上の商家としての歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に、創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたとされる。三菱グループのホームページに『岩崎彌太郎物語』が...
奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い
前回の記事で、長州の豪商白石正一郎が奇兵隊のために巨額の私財を投じて、維新成就後に事業を倒産させたことを書いた。その一方で、奇兵隊から明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎である。【藤田伝三郎】【奇兵隊脱退と失明】藤田伝三郎は天保12年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久3年(1863)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864)の...
明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション
前回の記事で藤田伝三郎が西南戦争を機に大儲けしたことを書いたが、大多数の国民はこの戦争のために大なり小なりの犠牲を払っているのに対して、暴利を得た藤田組に非難の声が高まっていった。【藤田組の悪い噂を流したのは誰か】前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。「この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がす...
大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯
明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄であったのだが、十七歳の時に父を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、十八...
大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方
前回の記事で大倉喜八郎は幕府の動きや黒船を観て、これから内乱が起きることを直感し、乾物商を止めて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いた。ところが戊辰戦争が終わると、喜八郎はこれからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店...