明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション
【藤田組の悪い噂を流したのは誰か】
前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。
「この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がすむと、契約以外には一文の手当てにもありつけず、そのまま解雇されることになった。藤田組に対する世間の悪いうわさを散々聞かされてきた彼らの不平は忽ちに爆破した。
人夫どもは叫んだ。吾々は弾丸の下をかいくぐって戦死者の死体を取り片づけ、あらゆる惨苦を忍んで糧食、弾薬の運搬を手伝った。吾々の働きは軍人と同じだ。吾々の勲功も軍人と同じだ。しかるに藤田組は吾々が命と交換に給せられる賃金の頭をはねてしたたかもうけておきながら、今、吾々の解雇に際し、契約をたてにとって、一文の手当ても出さぬというのは不都合であるというので一斉に起って、藤田組に迫ったものらしい。」
この時に人夫たちを煽動したのは薩摩出身の豊島源右衛門という人物であったという。人夫側の要求は千余人に対し五千円という金額だったが、中野梧一が交渉にあたり、その半額で決着したとある。
【藤田組贋札事件が起きた背景】
しかしながら別の新たな事件がおこり、再び藤田伝三郎が巻き込まれることになる。
明治十一年十二月に各府県から政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、元藤田組の人夫として雇われていた人物が、藤田組が大量の贋札を外国で製造させたと告発したことにより翌年九月に藤田の会社に家宅捜索が入り、藤田は中野梧一らとともに拘引されている(藤田組贋札事件)。
しかしながら大阪では贋札が出回っていないことが判明し、それから何も証拠がでてこなかったことから藤田らは十二月に無罪放免となっている。
元社員の告発は、腹いせの為に行った狂言で行ったもので、長州派が圧力をかけてもみ消したわけではなかったようだ。その証拠に、警視庁は誤りを認め、藤田らを拘引した中警視は懲戒免官され、また虚偽の告発をした元社員は、誣告罪で懲役七十日を申し付けられている。三年後には贋造に関わった人物が判明し伝三郎の冤罪が晴れたのだが、なぜ警視庁は事実確認もせずに元社員の告発内容をそのまま鵜呑みにしたのであろうか。その背景にあるのは、薩長の対立だという。
前掲書にはこう解説されている。
「…誰でも知っているように警視庁は初めから薩派の牙城であった。一概に薩派という中にも西郷とは反(そり)の合わなかった大久保派の色彩が濃厚であった。西南戦争の前には警視庁が政府の爪牙となって盛んに活躍し、そのスパイ政策が何ほどか西南戦争の破裂を早めたものである。明治十年に西郷が戦死し、明治十一年に大久保が暗殺されて見ると、薩派は俄(にわか)にその落莫を感ずると同時に、非常な焦燥を始めていた。この焦燥はやがて長閥に対する燃えるような嫉視となり、反感となり、いやしくも機会があれば、乗じて以て長閥に一撃を加えようと、手ぐすね引いて待ち構えた。」
維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去り、そのあとは、伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになって「薩長」の勢力関係が逆転してしまっていた。西郷は大久保が殺したようなものだが、その大久保が暗殺されてしまって薩摩派は焦った。そこで薩摩派は長州派の糧道である藤田組を追い落とすことで長州派に打撃を与えようとしていたのである。
そのタイミングで藤田組が大量の贋札を製造したという話が飛び込んできて、警視庁が十分な確認もせずに飛びついてしまい、藤田らを逮捕・勾留してしまった経緯にある。
【藤田伝三郎と長州派のリーダーとの関係】
前掲書に、伝三郎がその事件に関する警視庁の訊問に答えた内容が記されている。これを読むと、伝三郎が木戸孝允、井上馨など政界の大物とどういう関係にあったかがよくわかる。
「自分の生家は長州の萩で、父は酒・醤油の製造販売を業とし、傍(かたわ)ら掛屋(かけや)ととなえる藩士相手の金融業を営んでいた。長州藩で掛屋といったのは、先(ま)づ江戸の札差(ふださし)に近いもので、藩の下士階級に属する人々の為に節季の俸米を抵当として、金を貸すものである。長州出身の大官はすべて藩の下士階級に属する人々で、藤田家の如き掛屋業とは関係の深い人々のみであった。…
たとえば木戸公の如き、いまでこそ自分とは身分も違っているけれども、自分の生家とは至極関係が深かった。現に自分の親戚の中にも、その俸米を抵当に木戸公の為に金を融通したものがあったほどである。また自分の生家と木戸公の家とは裏表で、幼少の時から腕白仲間としてよく遊んだものである。…
井上公とてもその通りである。公と自分とは奇兵隊時代から至極懇意の仲で、井上公は自分の最も畏敬する先輩であり、また友人である。」
このように藤田伝三郎は、長州の下士階級と深いつながりがあったのだが、その人脈が幕末から明治以降大いに活かされることとなる。
明治維新を推進したのは「薩長土肥」の武士である学生時代に学んだのだが、白鳥秀湖は前掲書で
「明治政府は薩長土肥四藩の勢力を代表するものではなくして、岩倉具視を盟主とする各藩下士階級の政府であったと見るのが至当である。」
と述べている。
確かに明治維新を推進した勢力は、薩長土肥四藩の上士階級ではなく下士階級であり、「藩閥政府」という呼び方はその本質を衝いた表現ではない。そして、藤田伝三郎は長州藩の下士階級の主要人物と深いつながりがあったのである。
【藤田財閥の形成】
贋札事件の直後は陸軍や大阪府などからの発注が途絶えて苦しい時期があったが、明治十四年(1881)に伝三郎は実兄鹿太郎、久原庄三郎との共同出資で藤田組を設立し、軍需産業以外にも手広く事業を展開している。中核となったのは土木請負業と鉱山業だが、紡績業や鉄道事業から銀行や新聞業にも乗り出している。
Wikipediaの解説を引用させていただくが、現在でも有名企業が目白押しである。
「大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負い、建設業で躍進すると共に明治16年(1883年)には大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。
さらに明治17年(1884年)、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると、技術革新に力をいれ、明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。そのほか、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道(国鉄に吸収)、宇治川電気(関西電力の前身)、北浜銀行(後に三和銀行)などの創設に指導的役割を果たした。毎日新聞も行き詰った『大阪日報』を藤田が大阪財界人に呼びかけ『大阪毎日新聞』として再興した。」
【岡山平野の開発の歴史(「よみがえれ児島湖」(1991)より改編】
伝三郎は財界活動にも注力し、明治十八年(1885)五代友厚の死後、大阪商法会議所(商工会議所)の第二代会頭となり、明治二十年(1887)には大阪商品取引所の初代理事長に就任するなど大阪の財界活動に足跡を残しているほか、明治政府が資金難を理由に断念した児島湾開拓事業を手掛け、岡山県では藤田伝三郎は偉人として認知されているという。
また伝三郎は書画骨董にも造詣が深かった。
彼と息子・平太郎と徳次郎が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高く、大阪市都島区網島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館には、藤田と息子平太郎と徳次郎が集めた美術品などが収納されている。
彼が美術品を集めたのは、わが国の優れた美術品が海外に流出することから少しでも守りたいという目的があったという。藤田美術館のホームページには次のように解説されている。
「大名旧家や寺社に伝えられてきた文化財の多くが、明治維新を機に、海外へ流出したり、国内で粗雑に扱われたりすることに傳三郎が危機感を覚えました。傳三郎は、実業家であると同時に、若い頃から両親に物数奇を戒められながらも、とうとうその性質を変えることができなかったほどの美術品愛好家でもありました。『この際、大いに美術品を蒐集し、かたわら国の宝の散逸を防ごう』と決意して蒐集に乗り出しました。」
古美術品の蒐集は伝三郎が亡くなる直前まで続けられたとされ、その志は息子らに受け継がれて、現在美術館では、国宝 9 件、重要文化財 53件を含む、約2000件のコレクションを収蔵しているという。しかしながら、建物の老朽化のため施設が全面建て替えされることが決定し、平成29年(2017)6月12日から長期休館となっているようだ。開館は2021年度を予定しているという。
【内山永久寺跡】
以前このブログで「廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ」という記事を書いたが、堺・奈良の県令を務めた薩摩出身の税所篤は奈良の大寺院であった内山永久寺を廃寺にして寺宝を収奪してしまった。この寺にあった鎌倉時代の仏画『四天王像』は、現在ボストン美術館に所蔵されているが、わが国に残っていればまちがいなく国宝指定だと言われている。しかしながら、この寺の障子絵であったとされる『両部大経感得図』は伝三郎が購入し、現在国宝指定されて藤田美術館に収納されている。曜変天目茶碗など他の貴重な文化財とともに、是非鑑賞したいものである。
【両部大経感得図】
伝三郎が集めた古美術品は「藤田コレクション」がすべてではない。
「奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方」という記事で、閻魔像で知られる奈良の白毫寺が明治初期には荒れ放題になっていて、藤田伝三郎がこの寺の多宝塔を買取り、寺はその代金で他の諸堂を修復し多くの文化財を守ることが出来たことを書いた。内山永久寺も白毫寺もいずれも奈良の寺であるが、薩摩藩出身の県令・税所篤が奈良の寺を破壊して貴重な文化財が失われていくのに、長州人の藤田伝三郎が対抗しようとしたのかもしれない。
他にも伝三郎は安芸竹林寺の大破した三重塔を買取り、修復して東京椿山荘に移築したり、高野山光台院の多宝塔を買取り藤田美術館に移築している。
明治の混乱期においては藤田伝三郎のような人物の努力により、廃寺寸前となった寺の多くの文化財を今日に残すことが出来たのだが、わが国の文化財の危機はこれからもっと深刻化するのではないだろうか。
地方の若い世代が都心部で職を求めるため、地方の高齢化の流れが止まらない。これから先は、観光客の少ない地方の寺社の収入は先細りとなり、住職や神主の成り手がいなくなり無住となる寺社が増えることだろう。
また、昔の建物を修復できる技術のある宮大工の数も減るばかりで、文化財の修復が必要な場合はその費用は高くならざるを得なくなる。文化財の価値を維持するための修復工事が、資金面で年々厳しくなることは確実だ。
昔なら、文化財の修復の為に協力を惜しまない企業や個人が地元に少なからずいたのだが、疲弊した地方にできることは限られている。
文化財指定のある寺社の建物などの修復費用については、「ふるさと納税」と同様に、寄付した人や企業が税額控除を受けられる仕組みが作れないものであろうかと思う。
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