吉野の山村から明治という時代を動かした、森林王・土倉庄三郎を振り返る
明治40年(1907)に大阪朝日新聞社から出版された『人物画伝』という本があり、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、ネット上で誰でも読むことが出来る。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156この本は、明治時代に活躍した国内外の政治家や実業家や文化人など97人の事績をまとめたもので、その当時の国民はほとんど知っている名前ばかりなのだろうが、今ではほとんど知られていない人物の名前が少なか...
後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。教科書には何も書...
リリエンタールやライト兄弟より前に動力付き飛行機の模型を飛ばした二宮忠八
二宮忠八は慶応二年(1866年)に伊予国宇和郡八幡浜(現愛媛県八幡浜市)の商家の四男坊として生まれたが、忠八が八歳の時に父が失明して二宮家の収入は激減する。忠八は幼い時から凧張りの内職をしてわずかの資金を得ながら勉強に励んだという。彼には工夫の才があり、凧張りといってもいろんな凧を考案し、「忠八凧」は村の人々の評判となっていったそうだ。関猛 著『二宮忠八伝』に、忠八が子供の頃に考えた凧の絵が紹介されている...