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リリエンタールやライト兄弟より前に動力付き飛行機の模型を飛ばした二宮忠八

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Category忘れ難き人々
二宮忠八は慶応二年(1866年)に伊予国宇和郡八幡浜(現愛媛県八幡浜市)の商家の四男坊として生まれたが、忠八が八歳の時に父が失明して二宮家の収入は激減する。忠八は幼い時から凧張りの内職をしてわずかの資金を得ながら勉強に励んだという。

二宮忠八伝

彼には工夫の才があり、凧張りといってもいろんな凧を考案し、「忠八凧」は村の人々の評判となっていったそうだ。関猛 著『二宮忠八伝』に、忠八が子供の頃に考えた凧の絵が紹介されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718937/20

十三歳の時に父を失い、忠八は家計を助けるために薬屋や測量技師の仕事を手伝ったりしながら、勉学にも励んだという。

明治二十年(1887年)に忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第十二連隊に入隊した。
明治二十二年の十一月に行われた機動演習に参加し、昼食を済ませた後に烏(カラス)の群が兵士たちの残飯を狙って飛んできた。

仁村俊 著『航空五十年史』にはこう解説されている。
「烏の体は水兵になっているが、翼は十五度ばかり上を向いている。そして少しも翼を動かさないで、舞い下りてきた時の速度でちゃんと体を浮かしている。下りる時のみではなく上って行く時も同じことである。――彼はこの事実に気が付くと心が躍った。翼は動かすには及ばない。推進力さえあれば固定翼でも必ず飛べる。彼はかくて飛行機は必ず出来るという確信を持つに至ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059374/64

金刀比羅宮

翌日は休暇であったので、忠八は二宮家で代々信仰している金刀比羅宮へ参詣し、国の為に飛行機の発明を誓い、大好きな煙草もやめて飛行機の研究に取りかかったのである。
彼は昆虫から飛び魚に至るまで飛ぶものを多数観察し、翼が大きくて体重の軽いものは翼を上下する羽ばたき運動が少なくて緩やかであるのに対し、翼が小さくて体重の重いものは翼の上下運動が多くて急であることなどを悟ったのだが、彼が理想的と考えたのは堅い翼を広げて飛ぶ玉虫の飛び方にあったという。
次に空気の抵抗に打ち勝って前進する力をどうやって得るかを苦心し、プロペラをゴムひもで回すことを考案し、そして明治二十四年四月に、丸亀練兵場で模型飛行機を五分間飛ばすことに成功したのである。

玉虫型飛行器の復元RC模型
【玉虫型飛行器の復元RC模型 Wikipediaより】

当時は、ドイツのオットー・リリエンタールが飛行機の研究を始めたばかりであり、アメリカのライト兄弟が飛行機の実験を開始した九年も前に、わが国で動力付きの模型飛行機を完成させた人物がいたことはすごいことだと思う。

忠八はこの年の暮れに除隊となったのだが、明治二十六年(1893年)には一層大きな模型飛行機の制作に取りかかり、同年には長さ二メートルほどもある玉虫型飛行機を完成させている。彼は、それに時計のゼンマイを動力にして飛ばすつもりであったが、明治二十七年(1894年)に日清戦争が勃発すると、大島旅団第一野戦病院付として出征することとなり、松山に試作中の飛行機を残したまま、平壌の戦いに参加している。

戦闘が激しくなり、病院に負傷兵が溢れるのを見るにつけ、もし飛行機が実用化していたら、通信や偵察、伝令、医薬品などの運搬に役に立つことになると考え、忠八は天幕の中で、自分の考案した飛行機の説明図を書いて、上司の賛成を得て八月十九日付で上申書を提出している。その上申書の全文が、前掲の『二宮忠八伝』(p.63-66)に掲載されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718937/20

しかしながらその上申書は、残念なことに大島旅団長(中将)と参謀の長岡大佐の判断で翌日に却下されてしまった。軍務多忙な中、未完成なものを採用することは難しいとの判断であった。

忠八は日清戦争の終戦後、再び上申書を大島中将に提出したのだが、この時もまた却下されている。彼は、陸軍に残るよりも民間に下って、飛行機を制作するための資金を自分で作る腹を固めることとなる

明治三十一年(1898)に忠八は知人の紹介で大日本製薬会社に入社し、明治三十三年(1900年)に飛行実験に便利な淀川河畔の京都府綴喜郡八幡町(現京都府八幡市)に自宅を求めたのだが、人一倍研究熱心な彼は会社での仕事振りが認められ、次第に業務が多忙となる。

ライト兄弟1903年の飛行

一方欧米では飛行機の研究熱が高まり、明治三十六年(1903年)にアメリカ人のライト兄弟が世界初の飛行機の有人飛行(59秒、259.6m)に成功しているのだが、このニュースはすぐに日本には伝わらず、忠八も飛行機への情熱を持ち続けていた。

忠八は支社長に就任して、ようやく飛行機制作のために必要な資金の目処も立ち、12馬力のエンジンを制作する構想を立てたのだが、その矢先にライト兄弟の飛行機の成功を新聞で知ることとなる。

ライト兄弟

二宮忠八伝』にはこう記されている。
「明治四十一年十二月十八日の朝のこと、いつものように新聞を手にしてふと見ると、そこには忠八を驚かす記事が目についた。世界を驚嘆させるニュースが書かれてある。忠八は思わず新聞紙を手から取り落とすほどびっくりした。
『ああとうとうやった。とうとうやられたのか。』
と叫び声をあげた。
『残念だ。とうとう先にやられた。実に残念だ。』
独り言をいいながら、落とした新聞を再び拾い上げて、手を震わせながらやっとの思いでその記事を読むことが出来た。それは
『1908年12月14日、フランスのマン市郊外で世界飛行機の協議会が開かれ、アメリカのライト兄弟が、自分で作った飛行機に乗って、弟のライトオーヴィルが1時間54分5分の2という記録をつくった。その飛行距離90キロで、世界の人たちを驚かした』というのであった。
 十有余年苦心肉親を続けてきた飛行機の政策が先を越されたのである。その努力が完成を見ないうちに外国人の手によって一足先にそれらをつくられてしまったのである。忠八にとっては言葉に尽くせない残念さであった。悔しさであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718937/60

その後忠八は飛行機の研究製作を断念し、製薬会社の仕事に専念して、明治四十五年(1912年)には大日本製薬の取締役にも選任され、その後大阪製薬社長に就任している。

一方世界では飛行機の性能が向上して、飛行機が様々な用途で用いられるようになり、1914年から始まった第一次世界大戦では、飛行機の役割が重視されるようになっていた。
それにともない航空事故も増加し心を痛めていた忠八は、飛行機の事故で職に殉ずる人々の霊を慰めたいと思い、私財を投じて大正四年(1915)に自宅の一隅に社を造り、航空殉難者、殉職者の霊を祀ったという。

白川義則
【白川義則】

ところが、思わぬことから忠八の功績が認められることとなる。
大正八年にかつての上官であった白川義則大将が京都に立ち寄られた際に、忠八は大将を京都の宿舎に訪ねたのだが、たまたま話題が飛行機のことになって、忠八が十数年前に飛行機を発明するために苦心したことを述べた。
白川大将がその資料を送るようにと述べたので、忠八は当時の図面などを航空部に提出したのだが、たまたま航空部の松井平三郎大佐を訪ねた雑誌『帝国飛行』の加藤正世記者が、机の上にあった資料を見て驚き、貴重な資料としてその雑誌に発表したことから二宮忠八の功績が世に知られるようになった。

忠八の研究は正しかった。軍部もようやく忠八の研究を評価し、大正十年(1922年)に井上航空本部長から感賞状が授けられ、また忠八が上申書を提出した際に却下した長岡大佐はすでに将軍となっていたが、忠八の自宅に詫び状を送ったという。

忠八が恐縮して長岡将軍の私邸に挨拶に行った時の会話が前掲書に次のように記されている。
「忠八は、『閣下が、日清戦争当時に私の請願書を採り上げなかったことを、国家の為に痛恨事であっるといってお詫びをされましたが、まことに帰って深い感激を覚えます。それよりも私としては閣下が私にとって命の恩人であると感謝いたしたいのです。』
『命の恩人とはまたどうしたわけでしょう。』
『いや、それはあの当時にあの請願書を閣下が採用されて居たら、私はきっと制作した飛行機の試験飛行でとっくに死んでいましたでしょう。今日多少とも社会の為になるよう元気で働くことのできておりますのは、全く閣下があの願書を採用にならなかったおかげです。』
二人は談笑のうちに愉快な半日を過ごした。」(同上書 p.101-102)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718937/65

二宮忠八
【二宮忠八】

二宮忠八は模型飛行機で成功したのち有人飛行できる実用機を目指したのだが、実験するところまでは至らなかった。彼とほぼ同時期に有人飛行機の完成を目指していたドイツ人のオットー・リリエンタールは1896年の墜落事故で死亡している。リリエンタールの考案した飛行機は翼が固定ではなく羽ばたく構造のものであった。
忠八はライト兄弟よりも先に空を飛ぶ原理を発見していたと評価されている人物であり、もし日清戦争の時に彼が提出した請願書が採用されていたら、世界最初の有人動力飛行成功の名誉は、アメリカのライト兄弟ではなく二宮忠八となっていたことであろう。2017年1月28日の毎日新聞の記事に出ているが、名古屋市立工業高校の飛行機同好会の生徒が、忠八の考案した機体を参考に動力飛行機を製作し、1メートルほどの高さを約70m飛ぶのに成功したというから、もし忠八が飛行機製作に専念出来ていたら必ず良い結果が残せただろう。
https://mainichi.jp/articles/20170129/k00/00m/040/052000c

しかしながら飛行機には危険がつきものであり、ライト兄弟の弟オーヴィルが操縦する飛行機は1908年に世界で最初の飛行機事故を起こし、同乗者の陸軍中将が死亡したうえ、本人も重傷を負っている。そのことは当然のことながら、忠八も知っていたことだろう。
またオーヴィルが1942年にヘンリー・フォードに宛てた手紙には、自分が動力飛行機を発明したことを悔いる内容が書かれているという。また彼は1943年のアメリカ特許局の記念行事で第二次大戦で飛行機が多くの破壊をもたらしたことを残念に思うとの発言もしているとのことだ。ライト兄弟の兄のウィルパーは1912年、わずか45歳の時に腸チフスで死亡し、弟のオーヴィルも決して幸せな人生を送ったわけではない。忠八が日清戦争時代に提出した上申書を却下した長岡将軍に対して『閣下が私にとって命の恩人であると感謝いたしたい』と述べたのは、却下されたことにより経済人として花を開くことが出来、結構幸せな人生を歩めたことを、本音では喜んでいたのではなかったか。

一方二宮忠八は、その後大正十四年に逓信大臣より表彰を受け、大正十五年には帝国飛行協会総裁久邇宮殿下より有功章を親授され、さらに昭和二年には勲六等に叙せられ、昭和十二年度からは国定教科書にも掲載されたという。

飛行神社
飛行神社

忠八は航空殉難者、殉職者を慰霊するために彼が自宅の一隅に造った社を晩年になって大幅に拡張することにし、長岡外史将軍の命名により社名は「飛行神社」とし、白川義則大将に扁額の揮毫をお願いしたという。
忠八はこの神社に奉仕することを日々の務めとし、英霊を慰めるためにと詠んだ和歌を数多く残している。
「飛行機にたふれし人を神として国やすかれといのるみやつこ
 飛行凧梢にかかり登られず残りし骨に光る朝雲
 飛行機に花鳥風月あやなして神にささげて世にも頒たむ」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718937/79

飛行神社」(京都府八幡市八幡土井44)は京阪・八幡市駅から徒歩4分程度の場所にあり、資料館も隣接されており、忠八本人が撮影した写真や飛行原理を発見した資料、玉虫方飛行機の模型などが展示されている。石清水八幡宮や淀川河川公園(背割堤)を訪問される方には是非立ち寄っていただきたいと思う。
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別のブログに石清水八幡宮の記事を書いています。良かったら覗いて見て下さい。

石清水八幡宮の神仏分離を追う
https://shibayan1954.com/history/meiji/haibutsukishaku/iwashimizu-hachimanguu/



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2Comments

ユーアイネット店長うちまる  

香川県に行ったときに確か二宮神社を見たような。
先駆者だったのに日本では知られていないですね。

2019/05/23 (Thu) 16:21 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

二宮忠八が香川県仲多度郡まんのう町の「もみの木峠」で昼食をした後に、羽ばたかないで飛んでくる烏の群を見たことが飛行原理を考えるきっかけになったようなのですが、その近くに「二宮忠八記念館」という建物があり、その隣に「二宮飛行神社」という神社があるようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/37288233.html

Wikipediaによると、この神社は1991年に建てられたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE

2019/05/23 (Thu) 20:05 | EDIT | REPLY |   

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