日本軍とは? わかりやすく解説

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【日本軍】(にほんぐん)

日本国正規軍
時代によって、以下の二ついずれかがこう定義されているが、一般的に1868年1945年まで日本大日本帝国)の正規軍を指す。

大日本帝国軍のルーツ

大日本帝国軍は、1868年起きたクーデター明治維新」の実働兵力であった官軍」の流れを汲んでいる。
創設当たっては、欧州各国軍隊ノウハウ各種技術積極的に取り入れ、(平安時代末期以来700年余り続いた武士階級による戦闘集団から近代的な国民軍への転換目指した。
社会制度改革などと合わせた各方面努力甲斐もあって、後の日清戦争日露戦争第一次世界大戦では戦勝国となり、イギリスアメリカと並ぶ「列強国」として知られるうになるなど、有色人種国の中で唯一西洋対等に渡り合えアジア最強軍隊成長した

しかし、そのことがかえって他国警戒感反発招き第二次世界大戦泥沼巻き込まれていく事になり、終戦後1945年11月30日ポツダム宣言規定により連合国軍総司令部(GHQ)によって廃止された。

関連IJA IJN

大日本帝国陸軍

日本陸軍」、「帝国陸軍」、「陸軍」とも呼ばれた
1872年に「兵部省」が「陸軍省」として「海軍省とともに分割設置され陸軍フランス式(後にドイツ式)の軍隊として成立した

大日本帝国憲法により、陸海軍大元帥である天皇の下、軍政人事所掌する「陸軍省」、軍令作戦動員所掌する「参謀本部」そして教育所掌する「教育総監部」の3つの機関設けられ各々トップたる「陸軍大臣」、「参謀総長」、「教育総監」が天皇除いて陸軍最高位にあり、「陸軍三長官」とも呼ばれ陸軍中枢をなしていた。

その下に、陸軍省外局陸軍士官学校などの教育機関各種実戦部隊、さらに元帥府どの様々な組織・機関があった。

とくに参謀本部は、戦争時事変時に置かれる最高統帥機関である大本営での「陸軍部」として、大元帥天皇)の名の下に発せられる大本営陸軍部命令」を作成する存在だった。

陸軍内の派閥争い

昭和初期になると陸軍内で、武力によって天皇親政目指す皇道派」と、財閥官僚結んで合法的に高度国防国家建設目指す統制派」の2つ派閥生まれ派閥争い起こった

そして1935年8月統制派幹部である永田鉄山軍務局長皇道派相沢三郎中佐暗殺する事件起こり、両派の対立激しくなり、1936年二・二六事件発生
これによって皇道派発言力失って衰退し統制派終戦まで軍部実権を握るようになった

大日本帝国海軍

日本海軍」、「帝国海軍」、「海軍」とも呼ばれた
1872年に「兵部省」が「海軍省」として「陸軍省とともに分割設置され海軍イギリス式軍隊として設置された。

大日本帝国憲法により、陸海軍大元帥である天皇の下、軍政所掌する「海軍省」、作戦・指揮などを担当する軍令部」が置かれ各々トップである「海軍大臣」、「軍令部長」が、海軍における事実上最高位にあった
海軍トップ天皇だったが、実質海軍大学校海軍三校軍需工場鎮守府連合艦隊筆頭とする各種実戦部隊など、海軍組織海軍大臣軍令部長管理下におかれていた。

海軍の特徴

日本周囲を海に囲まれ海洋国家のため、西太平洋制海権確保基本戦略としていた。
しかし実際には、日露戦争以後艦隊決戦重きを置くようになり、海軍本来の任務である「自国商船の安全通確保」が軽視されていった
そして大正期連合艦隊常設組織となり、海軍実戦部隊のほとんどを包含するうになると、ますますこの傾向拍車がかかり、大東亜戦争期に連合国軍仕掛けた通商破壊戦に対して有効な策を講じえず、結果として戦争遂行のために必要な国家経済重大な損害もたらすことになってしまった。

陸軍と海軍との不仲について

どの国でも、伝統的に陸軍海軍は(そして空軍も)仲が悪いものだが、こと大日本帝国軍に関しては、後世視点から見れば異常とも感じられるほどの有様であった

1936年の「二・二六事件」では、連合艦隊旗艦であった戦艦「長門」東京主砲を向け、東京中心部占拠していた陸軍叛乱部隊攻撃しようとしたことは有名であるが、これ以外にもさまざまな例がある。

など、まるで子供ヤクザ意地張り合いかの如き様相呈していた。

軍解体後の残務処理について

帝国陸海軍監督官庁であった陸軍省」「海軍省」は軍の解体後、「第一復員省」「第二復員省」と改められ内外残留していた将兵復員帰郷日本列島周辺散布され機雷掃海といった残務理に従事した
その後数度改編経て、現在は以下のように引き継がれている。

未処理のままとなっている機雷探知除去
防衛省海上自衛隊
軍人恩給支給
総務省人事・恩給局
将兵及び軍属軍歴に関する資料保管証明書の発行
陸軍将兵軍属:(当該人物本籍置いている)各都道府県
海軍将兵及び陸軍高等文官従軍文官厚生労働省社会・援護局
日本国内及びその周辺部の測量地形図海図作成など
陸上における大規模三角測量地形図の作成及び測量成果更新陸軍参謀本部陸地測量部所管):国土地理院
海図作成潮流観測海底地形測量など(海軍水路部所管):海上保安庁海洋情報部
戦傷者及びその家族・戦死者遺族未帰還者留守家族対す援護(生活支援)など
財務省金銭的補償として交付される国債記名国債)の発行交付
株式会社ゆうちょ銀行日本郵便株式会社郵便局)及び日本銀行記名国債償還金支払
厚生労働省社会・援護局上記以外の残務処理)

現代の「日本軍」

1952年サンフランシスコ講和条約発効以後現代においては、自衛隊のことをこう指す。
国内において、憲法上の問題から様々な見解主張があるため「軍隊ではない」と主張しているが、海外メディア自衛隊を表す場合用い言葉Japan ArmyJapan AirforceJapan Navyである。
自衛隊の公式英名である"Self Defence Force"を用いられることは友好国軍関係者でもあまりなく、公式的なコメント文書辛うじて見ることができる程度である。
ただし、最近は徐々にとは言えどもSDFの名称が広がりつつある。

"Self Defence Force"は"Army"などの純軍事用語避けるための苦肉の策であり、対外的にも「決して"Army"ではなく"Self Defence Force"だ」と広報しているが、"Force"という単語には「力」、「圧力」、「威力」などと同時に武装集団」や「軍隊」という意味が込められており、英語圏人々は"Self Defence Force"から容易に国防軍」を連想するために軍隊ではなく自衛隊だという主張をしても全く理解されていない
また、かつての所轄官庁である防衛庁現在の防衛省)が公式英名を"Defence Agency"としていたが、政府機関で"Defence"を用いた場合は「軍隊管轄する官庁と言う意味に直結するため、決して「自衛隊管轄する防衛庁機関)」と理解されることはなく、「日本軍を管轄する国防省」という意味で認知されていた。

関連:よい説明書き方

各国における軍隊管轄機関の名称例

なお、日本以外の各国における国防・軍に関する官庁の英名の一例を以下に述べる。

イギリス
Ministry of Defence
アメリカ
Department of Defense
カナダ
Department of National Defenceカナダ軍Canadian Forces
オーストラリア
Department of Defence

これ以外にも大半の国では英名を「 ~ of Defence」としており、皮肉にも防衛庁」を直訳したがために軍隊イメージ決定的に印象付けてしまっている、という状況であった

その後防衛省への改編伴って上記英国同様の英訳になった


【日本軍】(にほんぐん)

日本国正規軍
時代によって、以下の二ついずれかがこう定義されているが、一般的に1868年1945年まで日本大日本帝国)の正規軍を指す。

大日本帝国軍のルーツ

大日本帝国軍は、1868年起きたクーデター明治維新」の実働兵力であった官軍」の流れを汲んでいる。
創設当たっては、欧州各国軍隊ノウハウ各種技術積極的に取り入れ、(平安時代末期以来700年余り続いた武士階級による戦闘集団から近代的な国民軍への転換目指した。
社会制度改革などと合わせた各方面努力甲斐もあって、後の日清戦争日露戦争第一次世界大戦では戦勝国となり、イギリスアメリカと並ぶ「列強国」として知られるうになるなど、有色人種国の中で唯一西洋対等に渡り合えアジア最強軍隊成長した

しかし、そのことがかえって他国警戒感反発招き第二次世界大戦泥沼巻き込まれていく事になり、終戦後1945年11月30日ポツダム宣言規定により連合国軍総司令部(GHQ)によって廃止された。

関連IJA IJN

大日本帝国陸軍

日本陸軍」、「帝国陸軍」、「陸軍」とも呼ばれた
1872年に「兵部省」が「陸軍省」として「海軍省とともに分割設置され陸軍フランス式(後にドイツ式)の軍隊として成立した

大日本帝国憲法により、陸海軍大元帥である天皇の下、軍政人事所掌する「陸軍省」、軍令作戦動員所掌する「参謀本部」そして教育所掌する「教育総監部」の3つの機関設けられ各々トップたる「陸軍大臣」、「参謀総長」、「教育総監」が天皇除いて陸軍最高位にあり、「陸軍三長官」とも呼ばれ陸軍中枢をなしていた。

その下に、陸軍省外局陸軍士官学校などの教育機関各種実戦部隊、さらに元帥府どの様々な組織・機関があった。

とくに参謀本部は、戦争時事変時に置かれる最高統帥機関である大本営での「陸軍部」として、大元帥天皇)の名の下に発せられる大本営陸軍部命令」を作成する存在だった。

陸軍内の派閥争い

昭和初期になると陸軍内で、武力によって天皇親政目指す皇道派」と、財閥官僚結んで合法的に高度国防国家建設目指す統制派」の2つ派閥生まれ派閥争い起こった

そして1935年8月統制派幹部である永田鉄山軍務局長皇道派相沢三郎中佐暗殺する事件起こり、両派の対立激しくなり、1936年二・二六事件発生
これによって皇道派発言力失って衰退し統制派終戦まで軍部実権を握るようになった

大日本帝国海軍

日本海軍」、「帝国海軍」、「海軍」とも呼ばれた
1872年に「兵部省」が「海軍省」として「陸軍省とともに分割設置され海軍イギリス式軍隊として設置された。

大日本帝国憲法により、陸海軍大元帥である天皇の下、軍政所掌する「海軍省」、作戦・指揮などを担当する軍令部」が置かれ各々トップである「海軍大臣」、「軍令部長」が、海軍における事実上最高位にあった
海軍トップ天皇だったが、実質海軍大学校海軍三校軍需工場鎮守府連合艦隊筆頭とする各種実戦部隊など、海軍組織海軍大臣軍令部長管理下におかれていた。

海軍の特徴

日本周囲を海に囲まれ海洋国家のため、西太平洋制海権確保基本戦略としていた。
しかし実際には、日露戦争以後艦隊決戦重きを置くようになり、海軍本来の任務である「自国商船の安全通確保」が軽視されていった
そして大正期連合艦隊常設組織となり、海軍実戦部隊のほとんどを包含するうになると、ますますこの傾向拍車がかかり、大東亜戦争期に連合国軍仕掛けた通商破壊戦に対して有効な策を講じえず、結果として戦争遂行のために必要な国家経済重大な損害もたらすことになってしまった。

陸軍と海軍との不仲について

どの国でも、伝統的に陸軍海軍は(そして空軍も)仲が悪いものだが、こと大日本帝国軍に関しては、後世視点から見れば異常とも感じられるほどの有様であった

1936年の「二・二六事件」では、連合艦隊旗艦であった戦艦「長門」東京主砲を向け、東京中心部占拠していた陸軍叛乱部隊攻撃しようとしたことは有名であるが、これ以外にもさまざまな例がある。

など、まるで子供ヤクザ意地張り合いかの如き様相呈していた。

軍解体後の残務処理について

帝国陸海軍監督官庁であった陸軍省」「海軍省」は軍の解体後、「第一復員省」「第二復員省」と改められ内外残留していた将兵復員帰郷日本列島周辺散布され機雷掃海といった残務理に従事した
その後数度改編経て、現在は以下のように引き継がれている。

未処理のままとなっている機雷探知除去
防衛省海上自衛隊
軍人恩給支給
総務省人事・恩給局
将兵及び軍属軍歴に関する資料保管証明書の発行
陸軍将兵軍属:(当該人物本籍置いている)各都道府県
海軍将兵及び陸軍高等文官従軍文官厚生労働省社会・援護局
日本国内及びその周辺部の測量地形図海図作成など
陸上における大規模三角測量地形図の作成及び測量成果更新陸軍参謀本部陸地測量部所管):国土地理院
海図作成潮流観測海底地形測量など(海軍水路部所管):海上保安庁海洋情報部
戦傷者及びその家族・戦死者遺族未帰還者留守家族対す援護(生活支援)など
財務省金銭的補償として交付される国債記名国債)の発行交付
株式会社ゆうちょ銀行日本郵便株式会社郵便局)及び日本銀行記名国債償還金支払
厚生労働省社会・援護局上記以外の残務処理)

現代の「日本軍」

1952年サンフランシスコ講和条約発効以後現代においては、自衛隊のことをこう指す。
国内において、憲法上の問題から様々な見解主張があるため「軍隊ではない」と主張しているが、海外メディア自衛隊を表す場合用い言葉Japan ArmyJapan AirforceJapan Navyである。
自衛隊の公式英名である"Self Defence Force"を用いられることは友好国軍関係者でもあまりなく、公式的なコメント文書辛うじて見ることができる程度である。
ただし、最近は徐々にとは言えどもSDFの名称が広がりつつある。

"Self Defence Force"は"Army"などの純軍事用語避けるための苦肉の策であり、対外的にも「決して"Army"ではなく"Self Defence Force"だ」と広報しているが、"Force"という単語には「力」、「圧力」、「威力」などと同時に武装集団」や「軍隊」という意味が込められており、英語圏人々は"Self Defence Force"から容易に国防軍」を連想するために軍隊ではなく自衛隊だという主張をしても全く理解されていない
また、かつての所轄官庁である防衛庁現在の防衛省)が公式英名を"Defence Agency"としていたが、政府機関で"Defence"を用いた場合は「軍隊管轄する官庁と言う意味に直結するため、決して「自衛隊管轄する防衛庁機関)」と理解されることはなく、「日本軍を管轄する国防省」という意味で認知されていた。

関連:よい説明書き方

各国における軍隊管轄機関の名称例

なお、日本以外の各国における国防・軍に関する官庁の英名の一例を以下に述べる。

イギリス
Ministry of Defence
アメリカ
Department of Defense
カナダ
Department of National Defenceカナダ軍Canadian Forces
オーストラリア
Department of Defence

これ以外にも大半の国では英名を「 ~ of Defence」としており、皮肉にも防衛庁」を直訳したがために軍隊イメージ決定的に印象付けてしまっている、という状況であった

その後防衛省への改編伴って上記英国同様の英訳になった


日本軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/03 13:55 UTC 版)

大日本帝国の軍隊

陸軍の軍旗

海軍の軍艦旗
創設 1871年(明治4年)
解散 1945年(昭和20年)
派生組織 大日本帝国陸軍
大日本帝国海軍
本部 陸軍省:東京都牛込区
(現在の東京都新宿区
海軍省:東京都麹町区
(現在の東京都千代田区
指揮官
大元帥 明治天皇
大正天皇
昭和天皇
陸軍大臣
海軍大臣
下村定(最後)
米内光政(最後)
参謀総長
軍令部総長
梅津美治郎(最後)
豊田副武(最後)
総人員
徴兵制度
関連項目
歴史
陸海軍の階級
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日本軍(にほんぐん、にっぽんぐん)は、広義には日本が有する軍隊のことであるが、狭義には第二次世界大戦前の大日本帝国が保持していた軍隊(日本陸軍日本海軍の両軍)を指す。

概略

第二次世界大戦敗戦により解体されたため、戦後旧日本軍(きゅうにほんぐん、きゅうにっぽんぐん)、旧軍(きゅうぐん)などと略称する。

また、戦前からの名称・呼称としては陸海軍(りくかいぐん)、帝国陸海軍(ていこくりくかいぐん)、国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん、すめらみくさ)、官軍(かんぐん)などがある[注釈 1]

戦後、日本の防衛組織として創設された「自衛隊陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊)」については、日本国内では「日本軍」と称されることはほとんどない。日本語以外の言語地域では正式には英語名称で「Japan Self-Defense Force」など「自衛隊」に相当する語で表現するが、「日本軍」に相当する語(「Japanese Military」、「Japanese Army」など)で表す場合もある。本項では「旧日本軍」について詳述する。

組織

天皇統帥の下に陸軍海軍があり、それぞれ陸軍大臣海軍大臣軍政について天皇を輔弼し、参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が軍令を統括した。陸軍の総軍方面軍司令官師団長、海軍の艦隊司令長官・鎮守府司令長官は天皇に直隷する親補職として軍隊部隊)を指揮統率した。独立した空軍(日本空軍)は存在せず、陸海軍にそれぞれ航空部隊があり各個の軍・艦隊等に隷属し運用されていた(陸軍航空部隊海軍航空部隊)。

概ね昭和10年代初めの平時編制として、陸軍は内地東部中部西部に区分されてそれぞれの地域に防衛司令部が設置され、また、内地に14個師団北海道に1個師団が配備されていた。朝鮮には朝鮮軍司令部と2個師団が、台湾には台湾軍司令部と台湾守備隊が、関東州満洲には関東軍司令部と関東軍守備隊が置かれている。海軍は平時編制ではまず艦船を現役艦と予備艦に分け、現役艦を以って第一艦隊第二艦隊から構成される連合艦隊、または警備艦として鎮守府に所属した。

天皇最高指揮官たる大元帥

管区

陸軍は、本国(内地)と外地(朝鮮台湾などの大日本帝国外地)の一部を管区で区分した。

1873年(明治6年)から1888年(明治21年)までは軍管師管、1888年(明治21年)からは1896年(明治29年)まで師管・大隊区、1896年(明治29年)から1940年(昭和15年)までは師管・連隊区、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)までは軍管区・師管・連隊区、1945年(昭和20年)に軍管区・師管区・連隊区という階層で大きな区分と小さな区分を設けた。各地にある部隊は原則として所在する管区から徴集された兵士で構成された。

海域も領海を海軍区によって区分して、そこに軍港要港を置いた。軍港が横須賀とされた第一海軍区、とされた第二海軍区、佐世保とされた第三海軍区、舞鶴とされた第四海軍区に分けて、これをさらに陸上区画と海上区画に分けた。各海軍区は軍港の鎮守府が管轄して要港は警備 府が置かれた。

歴史

起源

日本では江戸時代後期に蘭学の興隆によりヨーロッパの軍制が部分的に紹介され、嘉永6年(1853年)の黒船来航などで対外的脅威により、江戸幕府や諸では西洋式軍隊の創設を開始する。幕府はフランス式陸軍を採用し、軍事顧問を招いて装備の導入や軍隊(幕府陸軍幕府海軍)の編成を行い、長州藩薩摩藩佐賀藩でも軍制改革が行われた。江戸時代の幕藩体制においては軍事に従事するのは武士階級のみであったが、長州藩で設立された奇兵隊などは、農民町人などが混成した民兵部隊であった。慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還王政復古により江戸幕府は消滅し明治新政府が誕生。慶応3年11月(1867年12月)、薩摩藩寺島宗則は、土地と人民を朝廷に返還するよう求める建白書を藩主の島津忠義に提出[1]

その後、旧幕府を擁護する勢力と朝廷が対立し、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発。慶応4年2月(1868年3月)、島津忠義御親兵創設の費用として10万石を「返献」。薩摩、長州、土佐は軍事力を中核として朝廷を助け、諸藩もこれに従い、旧幕府勢力と戊辰戦争を戦った。

創設

戊辰戦争で勝利した板垣退助は、御親兵の創設を構想して、明治2年5月(1869年6月)、旧幕側フランス人将校・アントアンや、旧伝習隊沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用。フランス式練兵を行い、さらに国民皆兵を断行するため、明治3年12月24日(1871年2月13日)、全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[2]。こうして、幕府により導入された西洋式軍制は明治新政府に引き継がれ、新政府は富国強兵を国策に掲げ、明治4年(1871年)2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で明治天皇親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。この御親兵近衛師団の前身にあたる[2]

発展

明治4年(1871年)4月の設立当初は鎮台制と呼ばれる組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とした。徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後陸軍は鎮台を廃止し師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行した。設立の基礎が明治維新時の薩長軍であったために永らく藩閥支配が払拭できず、陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた。明治5年(1872年)に陸軍省が兵部省から分離し、明治11年(1878年)には参謀本部が独立する。新政府は廃藩置県や廃刀令で武士階級を事実上消滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。陸軍卿には奇兵隊出身の山縣有朋海軍卿には勝海舟が就任する。山縣は普仏戦争1870年)でプロイセンが勝利した事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行った。海軍は当初からイギリス式の軍制に倣って編成された。

陸海軍共に初期の仮想敵国ロシアであったが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソビエト連邦を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめた。明治期においては兵器類はフランスやイギリスなどから購入していたが、日露戦争前後からは小火器を筆頭に次第に国産化がすすみ、明治期末から大正期にはアジア軍事大国として列強の一員となった。

軍事機構の問題

政戦略の不一致

国家が国防方針を策定する場合には国家戦略軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を「政戦略の一致」と言う。大正・昭和に入ると、日本軍の統帥権の独立を巡って軍部が政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。

明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言は、統帥権すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限が、行政・司法・立法から独立していることを保障したものとする憲法解釈が次第に行われるようになる。これは立憲君主制に基づいた、陸軍は陸軍大臣の輔弼(ほひつ)、海軍は海軍大臣の輔翼(ほよく)責任のもと政府と陸軍省・海軍省の統制下にあり、統帥大権も統治大権と同じく大臣の補弼責任の下にあり、決して統帥大権の独立を保障するものではないという解釈に反し、総理大臣帝国議会が軍事に干渉することは出来ず、政治と軍事が対等の地位に定められることになった。

これは満洲事変日中戦争支那事変)で軍が政府の方針を無視して独走し、それを政府が追認するという事態が生じた。また、昭和期に入って軍部大臣現役武官制が復活したことによって、軍部が陸海軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなくなり、軍部の政治権力の強化に利用されることにもなった。

この統帥システムはプロイセンの軍制を模範として考案されたものであり、軍隊が政治指導者の政治的意図で利用されることを防いだり、作戦行動の秘密を保全する目的があった。しかし、実際には大日本帝国憲法の統帥権の独立は政略不一致をもたらす大きな要因となった[3]

統合運用の障害

統合運用とは軍種間で脅威認識や国防方針を一致させ、平時においては共同の作戦計画準備や訓練を行うことによって、統合化を行ったうえで運用する方式である。大日本帝国憲法第11条での陸海軍の並立の規定は、歴史的な陸海軍の政治対立もあって、この統合運用体制の確立を阻害する一因となった。

明治初期には兵部卿が陸海軍の軍令と軍政を一元的に統括していたが、明治5年(1872年)に軍隊の巨大化に伴って軍政機関が陸軍省と海軍省に分けられた。明治11年(1878年)には軍令機関の参謀本部が設置されて三元化する。明治19年(1886年)に陸海軍統合軍令機関である統合参謀本部(国防省防衛省に相当)に類するものが設置されることが決定したが、後に陸軍参謀本部と海軍参謀本部に再び軍令機関が二元化した[4]。明治36年(1903年)には海軍の軍令機関である軍令部が設置され、その後に陸海の軍令・軍政の統一的な統制を行う機関は整備されることはなかった[3]。 僅かではあるが、昭和20年(1945年)5月1日、大本営に設置された海運総監部により国家船舶の一元的運営が開始されたことで、陸海軍における輸送船の共通運用や護送問題解消が実現したが、既に制海権は失われつつあり時を逸したものとなった[5]

統合運用の体制の不備は陸海軍の国防思想の不整合、作戦行動における不和、時には陸海軍の内部対立までをも生み出し、旧日本軍の統合運用を決定的に困難なものにした。

会計規律

1945年(昭和20年)の終戦後、連合国軍最高司令官総司令部は陸軍、海軍の資産の調査を行った。この結果、戦局が逼迫した1937年(昭和12年)以降、政府に対して経費に関し何ら報告を行っていないこと、主計関係者も2-3年遅れの取りまとめしか行っていないことが明らかになった。連合国が把握した陸海軍が保管するの保有額は同年10月時点で1200万ドル以上に達したが、大蔵省は軍が貴金属を保管している事実を把握していなかった[6]

旧日本軍関連年表

明治期

大正期

昭和期

脚注

注釈

  1. ^ 明治時代最初期には「徴兵告諭」の「海陸二軍ヲ備ヘ」などで海軍を先に表記することもあったが、早々に陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することに改められた。

出典

  1. ^ 『忠義公史料』東京大学史料編纂所
  2. ^ a b 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ a b 黒川雄三 『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)
  4. ^ 黒野耐『帝国陸軍の〈改革と抵抗〉』(講談社、2006年)
  5. ^ 船舶の運営は大本営に一元化『朝日新聞』昭和20年5月2日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p29 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 米軍、貴金属二億五千万ドルを押収『朝日新聞』昭和20年10月10日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p356)

参考文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 陸海軍年表』朝雲新聞社、1980年1月20日。NDLJP:12195067 「付兵語・用語の解説」
  • 防衛法学会 『新訂 世界の国防制度』(第一法規出版、1991年)
  • 黒川雄三 『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)

関連項目

外部リンク


日本軍(海軍部隊のみ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 18:51 UTC 版)

タラワの戦い」の記事における「日本軍(海軍部隊のみ)」の解説

第3特別根拠地隊本隊柴崎恵次少将902佐世保第7特別陸戦隊 1669名(菅井武雄中佐大隊指揮小隊 小銃中隊1個中隊:指揮小隊 軽機関銃小隊軽機関銃、軽擲弾筒機関銃小隊重機関銃、重擲弾筒分隊) 砲隊(山砲歩兵砲高射砲隊(八八式七糎野戦高射砲九九式八糎高射砲戦車隊九五式軽戦車輸送隊トラック大発サイドカー) 第755航空隊基地30名 第111設営隊 1247名(主に軍属朝鮮出身労務者を含む。) 第4建築部タラワ派遣設営班 970名(同上計約4800名

※この「日本軍(海軍部隊のみ)」の解説は、「タラワの戦い」の解説の一部です。
「日本軍(海軍部隊のみ)」を含む「タラワの戦い」の記事については、「タラワの戦い」の概要を参照ください。

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「日本軍」の例文・使い方・用例・文例

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