にっちゅう‐せんそう〔‐センサウ〕【日中戦争】
日中戦争 (にっちゅうせんそう)
日中戦争
日中戦争(満州事変、日華事変)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 14:00 UTC 版)
「軍国美談」の記事における「日中戦争(満州事変、日華事変)」の解説
爆弾三勇士 1932年(昭和7年)の第一次上海事変において、敵の鉄条網を破壊するため3名の工兵が爆弾を持って突入して爆死したとの報道がされ、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」と呼ばれて熱狂的な反響を呼んだ。遺族への多くの恤兵金が集まり、天皇からの祭粢料も賜われた。報道から1か月ほどの間に8本の映画が作られ、明治座で舞台劇『上海の殊勲者三勇士』が演じられ、大阪毎日新聞と東京日日新聞の歌の募集では与謝野寛が1位となる。3名の故郷の久留米と東京などで銅像も建立される。子供の玩具や菓子の中にも、動く爆弾三勇士といったものや、爆弾キャラメル、爆弾チョコレートなどが売られ、銅像の模型が『少年倶楽部』の付録になった。また三勇士の母達の逸話も伝えられ、賛美された。銅像建立の際の募金には小学生10万人のものも含まれていた。教科書には1941年の改訂で国語で採用され、唱歌教材にも「三勇士」が使われる。 空閑昇 空閑少佐は上海事変において悲壮な戦死を遂げたと報じられたが、実際には重傷を負って捕虜とされており、捕虜交換で日本側に引き渡された二日後にピストル自殺を遂げた。このいきさつが「上海事変最大の悲劇」などと報じられ、これを題材とした映画が1932年に5本も上映された。 チョコレートと兵隊 前線にいた兵士が、慰問袋に入っていたチョコレートの包み紙を溜めて(100枚集めると板チョコ1枚と交換できた)、自宅の子供達に送ったが、その後いくばくもなく戦死した。これが1938年(昭和13年)に新聞に掲載され、映画『チョコレートと兵隊』などが作られた。 杉本五郎 歩兵大隊長だった杉本中佐は1937年に、敵陣攻撃において戦死した。この時は大きく取り上げられることは無かったが、死の直前まで書きつづっていた手記が翌年『大義』という題で出版されると、皇国への忠義を説く内容により、終戦までに100万部という大ベストセラーとなった。杉本は軍神と呼ばれるようになり、山岡荘八『軍神杉本中佐』(1942年)を初め多くの伝記が出版された。 軍犬利根 満州事変における軍犬金剛・那智の2匹の活躍と死を描いた教材「犬の手柄」が1933年の国語教材、軍犬利根を育てた少女と利根の活躍を描いた「軍犬利根」が1941年の国語教材に使われた。 サヨンの鐘 1938年に台湾で日本人巡査が出征する際に、台風の中その荷物を運んだ原住民タイヤル族の少女サヨン・ハヨンが川に転落して死亡した。1940年に台湾総督に赴任した長谷川清海軍大将がこの話を聞き、「愛国乙女サヨンの鐘」をサヨンの村に贈った。これが全国的に報じられ、現地では高砂義勇隊募集の宣伝に利用された。1941年には渡辺はま子の歌う「サヨンの鐘」が作られ、1943年には李香蘭主演で映画化された。 その他に日華事変で軍神あるいは模範的な軍人として扱われたものとして、戦闘機で戦死した南郷茂章少佐、「申し分ない典型的武人」として陸軍情報部によって顕彰された西住小次郎戦車長などがおり、秦賢助『軍神伝』(1942年)にまとめられている。これらも伝記や映画で数多く取り上げられ、軍の依頼によって書かれた菊池寛『西住戦車長伝』(1939年)もある。 婦人雑誌では日中戦争開始以降、子供を戦死させた母親を讃える記事や、「軍国の母手紙集」などが掲載され、子供を戦地に送り出す母を歌った『軍国の母』(1937年)や、息子を戦死させた母が靖国神社を訪ねる『九段の母』(1939年)などがヒットした。また従軍看護婦の記録である大嶽康子『病院船』(1939年)は文部省主推薦図書となり映画化もされ、宮川マサ子『大地に祈る』(1940年)には菊池寛が「聖戦に参加した女性の心の最もすぐれた記録」という推薦の言葉をよせている。『主婦之友』では1938年に「婦人愛国の歌」「少年少女愛国の歌」作詞公募、『キング』では1939年に「出征兵士を送る歌」作詞公募なども行われる。
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「日中戦争」の例文・使い方・用例・文例
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